「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い5
当然なことですが、異安心の高森顕徹会長も愉快な仲間達も、未だに念仏と信心との関係が全く理解できていません。高森会長の話や機関紙をみれば、明らかです。
確認のために何度でも言いますが、信心とは、念仏を称えて往生できると疑いなく信じたことです。言い方を換えると、念仏一行と心が定まったことです。
しかし、この念仏一行にも、自力と他力がありますので、他力の方の、念仏一行を親鸞聖人、蓮如上人は強調されたのだけです。
ということは、自力ではあっても念仏一行となっていない、もっと言うと、形式上でさえ善をしている人が、そのままいくら求めたところで他力の念仏一行になることはないということになります。言い換えると、雑行を捨てていない状態で、いくら努力しても念仏一行と心が定まるわけがないです。
この簡単な理屈が全く理解できないのが、高森会長と思考停止の会員です。
以上を踏まえて前回の続きです。
『正信偈』の道綽禅師の
道綽、聖道の証し難きことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす
を蓮如上人は『正信偈大意』では
この道綽はもとは涅槃宗の学者なり。曇鸞和尚の面授の弟子にあらず、その時代一百余歳をへだてたり。しかれども并州玄中寺にして曇鸞の碑の文をみて、浄土に帰したまひしゆゑに、かの弟子たり。これまたつひに涅槃の広業をさしおきて、ひとへに西方の行をひろめたまひき。されば、聖道は難行なり、浄土は易行なるがゆゑに、ただ当今の凡夫は浄土の一門のみ通入すべきみちなりとをしへたまへり。
と教えられました。
道綽禅師が教えひろめられたことは「ひとへに西方の行をひろめたまひき」です。「西方の行」です。もちろん念仏という「行」のことです。信心をひろめられたという言い方はされていません。
この後
万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。
については、
万善は自力の行なるがゆゑに、末代の機、修行することかなひがたしといへり。円満の徳号は他力の行なるがゆゑに、末代の機には相応せりといへるこころなり。
です。
ここでも「他力の行」ですから念仏という「行」です。
次に善導大師のところでは
慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲
を蓮如上人は
一心念仏の行者、一念慶喜の信心さだまりぬれば、韋提希夫人とひとしく、喜・悟・信の三忍を獲べきなり。
と解説なされています。「一心念仏の行者」は、今回最初に私が言った内容と合致します。信心を「一念慶喜」と表現されただけではなく、「一心念仏」とも仰っていることが重要です。
なお、「一心念仏」にも自力の「一心念仏」と他力の「一心念仏」がありますので、普通に考えれば、自力の「一心念仏の行者」が「一念慶喜の信心さだまり」、他力の「一心念仏の行者」となるのです。
では、自力の念仏を称えていれば、他力になるということか!
と親鸞会は短絡的な反論をしてくるでしょうが、私が言っていることは、雑行の行者がいきなり「一念慶喜の信心さだま」った後に他力の「一心念仏の行者」になるのではないということです。
親鸞会では未だに、
雑行を捨てよとは、善をするな、ではない、自力の心を捨てよだ
と寝惚けた妄言を吐いていますが、自ら選択して念仏一行、一心念仏になってからの自力と他力の話になるのです。諸善にしがみついて形の上でさえ念仏一行になっていない者が、他力を語ること自体が片腹痛いというものです。
七高僧も、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人も「念仏の一行をすすめ」られたのに、それを徹底的に排斥して、雑行に邁進させる高森会長と邁進されられる愉快な仲間達に明るい未来はやってこないでしょう。
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コメント
歴代の善知識方は、「念仏の一行を勧められた」。
これは決定的な御文です。
ところがそれを「念仏の一行を勧められたのではなく、諸善を勧められたのだ、根拠はないけど」と言っている頭の悪いのが会長と会員です。
19願は方便だからとか、何の関係もない話で、講師や会員に「では聖道門も方便だから関係あるのか」って質問すると黙ってしまいます。
善知識は「念仏の一行を勧められた(善は勧められていない)」
悪知識は「善を方便として勧める(念仏の一行は信後の話だ!)」
この違いが極楽と無間地獄へと別れるのですね。
塩尻在住のアラシ対策員はかわいそうにね。
投稿: | 2017年9月 7日 (木) 06時37分
会長はお聖教を全く読んでいないことがよくわかります。会長の教えの肝心なところは、いつも根拠がないか根拠があっても真逆の解釈をしていて、いつも疑問に思っていました。
ところが私と同じ疑問を持たない会員がいて、この人は日本の教育を受けていないのだろうかと思うこともありました。
その疑問が正しかったと今になってハッキリしました。
未だに19願だの善の勧めだの言っている会員は、七高僧、蓮如上人がどこに19願や善の勧めを仰っているのか、明示してみせてから言えってことです。
さよなら親鸞会でのコメントを見ても、本物の基地だと思いますよ。あんなのが親鸞会にいるだけで、親鸞会の程度が知れるというものです。
投稿: | 2017年9月 7日 (木) 21時06分
名無し様
相手にする価値のない人を相手にすることは無駄です。
言っていることは、根拠もない妄想ですし、言語能力にも思考能力にも大いに問題がありますので、完全無視が正解です。
異教の話を延々と言い続けられても、迷惑ですから、かの人のコメントはスパムコメント扱いにしています。
投稿: 飛雲 | 2017年9月 7日 (木) 21時38分
清森元講師の親鸞会除名理由の1つが七祖聖教を読んだからとある。
親鸞聖人の教えの源流を知る上で七祖聖教を読むことは有益であるが、読むと親鸞会の教えと七祖の教えは全く合わないことがわかる(わかってしまう)。
(そもそも七祖聖教を読める人は親鸞会にはいないでしょうが。。。)
親鸞会というのは、親鸞聖人とその教えを利用した詐欺集団だと確信しております。
投稿: 大昔の会員 | 2017年9月 8日 (金) 14時55分
歴代善知識の聖教を読んで理解することより、会長の発した言葉一言一句覚えることが遥かに優先されてる時点で異常。ほんとに異常。
投稿: | 2017年9月10日 (日) 13時02分
「白道燃ゆ」の三車法師の件について
(白道) 奈良時代に三車法師がいて、 自分・女・子供を乗せる
(続宋僧伝) 唐時代 三車法師(慈恩大師) 経典・女・酒を乗せる
パクリ損ないですか?
投稿: | 2017年9月10日 (日) 18時55分
最後の名無し様
パクリ損ないですが、高森会長が原典を読んでいることは考えられませんので、大沼師か説教本からのパクリ損ないでしょう。
投稿: 飛雲 | 2017年9月10日 (日) 18時59分