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2017年9月23日 (土)

「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い8

高森顕徹会長の口から聞いたことのない「念仏一行」という言葉ですが、この「念仏一行」を最も強調されたのが法然上人です。善導大師も「念仏一行」と仰っている個所はありますが、法然上人は飛びぬけて強調されています。

法然上人の御著書である『選択本願念仏集』には、10回以上も「念仏一行」と仰っています。つまり、法然上人の教えは、「念仏一行」の教えそのものなのです。
法然上人のお弟子であった親鸞聖人は法然上人のことを『正信偈』で

本師源空は、仏教をあきらかにして、

と、ここでは念仏という単語を出されずに仰ったのですが、それを蓮如上人は『正信偈大意』で

日本には念仏の祖師その数これおほしといへども、法然聖人のごとく一天にあまねく仰がれたまふひとはなきなり。これすなはち仏教にあきらかなりしゆゑなり。されば弥陀の化身といひ、また勢至の来現といひ、また善導の再誕ともいへり。

と解説なされています。日本における多くの「念仏の祖師」の中でも法然上人以上の方はないということで、法然上人も当然「念仏の祖師」だと表現なされています。

その法然上人の教えられた「念仏一行」の教えで、親鸞聖人が特に注目されたのが、

生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもって能入とす

です。
蓮如上人はこれを

生死輪転の家といふは、六道輪廻のことなり。このふるさとへ還ることは疑情のあるによりてなり。また寂静無為の浄土へいたることは信心のあるによりてなり。されば『選択集』にいはく、「生死の家には疑をもつて所止とし、涅槃のみやこには信をもつて能入とす」といへる、このこころなり。

疑情」と「信心」で「生死輪転の家に還来る」か「寂静無為の楽に入る」か分かれる、いわゆる信疑決判です。この信疑決判は高森会長でも言っているのですが、その意味が間違っています。

今まで私が書いたことが理解できれば、簡単なことですが、「念仏一行」を否定する高森会長と愉快な仲間達には理解不能でしょう。

簡単に説明しますと、

疑情」とは「念仏一行」を疑う心です。もう少し言葉を加えると、「念仏一行」で往生できるとは思えない心のことです。

これは、高森会長と愉快な仲間達の心そのままです。
何度でも示しておきますが『なぜ生きる2』にも

無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

こう書いていますし、本願寺を非難する時も同じことを言っています。
頭の鈍い高森会長と愉快な仲間達のために親切に言葉を言い換えておきましょう。

無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”念仏一行で良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

言葉のあやでも何でもありません。
完全に「念仏一行」を否定しているのです。

Q.どうすれば救われるのか?

A.「念仏一行」で救われると疑いがなくなったら。

法然上人・親鸞聖人を非難攻撃した聖道門と同じことを言いながら、真宗を名乗る愚かさに少しは恥を知りなさいと言い続けてきましたが、厚顔無恥の高森会長でした。

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コメント

周りに合わせて、会長の説法前は合掌礼拝して念仏となえていたけど、何のためにとなえるのかさっぱり分からなかったなぁ…

投稿: | 2017年9月23日 (土) 22時50分

あんな格好悪いもの言えるか。高森先生のお言葉です。
なんまんだぶ ありがたい

投稿: | 2017年9月24日 (日) 13時16分

これは信前の言葉だそうだが、僧籍持つ親を持つ者の縁としてはあまりに寂しい。またこれが究極の本心でもあろう。そうでなくてはーーー。

投稿: | 2017年9月30日 (土) 07時12分

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