「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い6
本日も高森顕徹会長は、いつもと同じ話を繰り返しただけです。念仏の信心ということに触れることもありません。なぜなら、高森会長の信心は、創価学会をパクった誰も成れない絶対の幸福だからです。
さて、続きです。
源信僧都の教えられたことを『正信偈』では
源信広く一代の教を開きて、ひとへに安養に帰して一切を勧む。
とあり、それを『正信偈大意』では
楞厳の和尚は、ひろく釈迦一代の教を開きて、もつぱら念仏をえらんで、一切衆生をして西方の往生をすすめしめたまへり。
と解説なされています。「もつぱら念仏をえらんで」という高森会長の口からは絶対にでない表現で蓮如上人は仰っています。
次の
専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり
に対しては
雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。
と仰っています。ここでは信心について蓮如上人が明言された箇所です。
自力の信心を「雑行雑修の機をすてやらぬ執心」とされた上で、「かならず化土懈慢国に生ずるなり」です。必堕無間を完全否定なされています。
そして他力の信心を「専修正行になりきはまるかたの執心」とされています。「専修正行」とは念仏一行のことですから、他力の信心とは、念仏一行に極まった心のことです。念仏の信心、唯念仏だけを称えて間違いなく助かると心が定まったことが他力の信心と蓮如上人は解説をなされています。
一方で高森会長の信心の説明は、
地獄一定と極楽一定の二つの心がハッキリしたことだ、
とか訳の判らない話で、信心の内容に念仏が出てきたことは一度もありません。
蓮如上人の仰る他力の信心と高森会長の他力の信心は全くの別物です。
阿弥陀仏から賜る念仏の信心と、創価学会作成の信心とが同じである筈がないです。
更に決定的なのがこの後の
極重の悪人はただ仏を称すべし
を蓮如上人は、
極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。
と仰っていることです。極重の悪人には、念仏以外の善という方便はない、ただ念仏して往生しなさい、と明言されています。
Q.どうすれば救われますか?
A.他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よ
高森会長の60年間の教えが根底から覆される御文です。
mixiでの三願転入の法論で、最後のダメ押しをしたのが、この御文です。『往生要集』を引かれた『教行信証』行巻で
『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。
親鸞聖人は間違えようのないお言葉で説明されています。
それで、高森会長は絶句し、敗走しました。
ところがmixiでの惨敗後、高森会長は
極重の悪人と知らされたなら、他の方便なしで18願一つで救われる
というような捻くれ解釈をするようになりました。
もちろん、そんな解釈が成り立つ筈もないことは、少し調べれば簡単に判ることです。
この説明は少し長くなりますので、次回にします。
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コメント
唯念仏の唯(ただ)は、「ただのただもいらんただじゃったー!」のことだ、などと意味不明の説明をしているビデオ法話を見たことがあります。振り返ると、ホントひどい内容…
投稿: | 2017年9月10日 (日) 21時35分
とどろき9月号、古今屈指の名文「歎異抄」を読むに
親鸞におきては、「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」と、
よき人の仰せを被りて信ずるほかに、別の子細なきなり(歎異抄 第二章)
の現代語訳を
親鸞はただ、「本願を信じ念仏して、弥陀に救われなされ」と教える、
法然上人の仰せに順い信ずるほかに、何もないのだ。
と載せています。
なんまんだぶ なんまんだぶ ありがたい
投稿: | 2017年9月12日 (火) 07時39分
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> 専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり
に対しては
雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。
と仰っています。ここでは信心について蓮如上人が明言された箇所です。
自力の信心を「雑行雑修の機をすてやらぬ執心」とされた上で、「かならず化土懈慢国に生ずるなり」です。必堕無間を完全否定なされています。
そして他力の信心を「専修正行になりきはまるかたの執心」とされています。「専修正行」とは念仏一行のことですから、他力の信心とは、念仏一行に極まった心のことです。念仏の信心、唯念仏だけを称えて間違いなく助かると心が定まったことが他力の信心と蓮如上人は解説をなされています。
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まさに仰るとおりです。「化土懈慢国」とは、「19、20願を信じて生まれるところ」であり、
「化身土、宮殿、疑慢胎宮」とも呼ばれるところのことです。
対して、「報土極楽国」は、「ただ18願を専ら信じて生まれさせていただくところ」であり、
「真仏土、報土、弥陀浄土」とも呼ばれるところのことです。
七高僧をはじめ、親鸞やその同行たちの勧める「選択念仏」を勧める根底には「報化二土まさしく弁立せり」のこころより始まっているのです。
>そして他力の信心を「専修正行になりきはまるかたの執心」とされています。「専修正行」とは念仏一行のことであり(云々)
この「専修正行」こそ、私も常にいっている「専修念仏」のこころです。
「専修念仏」という言葉を使わなくなったのには、1つに「奏状」に「専修念仏停止(ちょうじ)之條(でう)」とあるように叡山の目に当たらぬようにしたということが挙げられます。
「専修念仏」は、「『専』ら『念仏』一行を『修』する」と読み解けるように、「念仏一行」なのです。
飛雲さんが過去に挙げられた、
「この三国の祖師等、『念仏の一行』をすすめ、殊に釈尊出世の本懐は、ただ弥陀の本願を普く説き顕して、末世の凡夫の機に応じたることを明しましますと言へる意なり。」
が、「蓮如が『正信偈』を紐解いて出した、三国の祖師(七高僧)に対する結論」です。
なんまんだぶ
Abc
投稿: Abc | 2017年9月12日 (火) 22時09分