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2017年9月26日 (火)

「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い9

現在の親鸞会は、結局何が言いたいのか良く判らない高森顕徹会長の話を聞いて、何も判らないけど何か有難がっているだけの会員が搾取されて、更に有難がっている思考麻痺の集団です。
教義批判への反論は絶対にできず、絶対に獲ることのできない嘘の信心と救いを求めている会員が哀れです。

さて、言うまでもなく、親鸞聖人は法然上人から阿弥陀仏の救いの教えを聞かれて、救われられています。

その法然上人の教えられた結論が『選択本願念仏集』にある三選の文です。それを親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれています。

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに

(現代語訳)

そもそも、速やかに迷いの世界を離れようと思うなら、二種のすぐれた法門のうちで、聖道門をさしおき、浄土門に入れ。浄土門に入ろうと思うなら、正行と雑行の中で、雑行を捨てて正行に帰せ。正行を修めようと思うなら、正定業と助業の中で、助業を傍らにおいておきもっぱら正定業を修めよ。正定業とは、すなわち仏の名号を称えることである。称名するものは必ず往生を得る。阿弥陀仏の本願によるからである。

どうすれば救われるのか、法然上人・親鸞聖人が具体的に仰ったお言葉です。

簡潔に言いますと、

Q.どうすれば救われますか?

A.聖道門を閣きて、雑行を抛ちて、助業を傍らにして、仏の名を称することをもっぱらにせよ。

親鸞会で教えていることとまるっきり反対です。

高森会長と愉快な仲間達はこう反論するでしょう。

持っていない者、やっていない者に捨てよとは言われない!

実に愚かです。
聖道門を捨てるために、聖道門に入る必要がありますか。その前の外道を捨てるために、外道に入る必要がありますか。ありません。
同じことで雑行を捨てるのに、なぜ雑行に励む必要があるのでしょうか。それにすでに雑行に励まされている会員が、なぜまだ雑行を更に励む必要があるのでしょうか。

こういいますと、また愚かな彼らは言ってきます。

お勤めを勧められているではないか。助業を勧められているのと同じで、雑行も勧められているのだ!

お粗末な詭弁です。最近の顕正新聞の論説にまで載せて強調していますが、恥さらしも大概にせよと言いたいです。
真宗では助業を勧められることはありません。お勤めとは聴聞です。お勤めという聴聞を勧められたのであって、助業を勧められたものではありません。聴聞とは、

聖道門を閣きて、雑行を抛ちて、助業を傍らにして、仏の名を称することをもっぱらにせよ。

一言で言うならこれまで言ってきたように、

念仏一行(称名一行)

と聞くことです。

お勤めについて『御一代記聞書』には

一 のたまはく、朝夕、「正信偈和讃」にて念仏申すは、往生のたねになるべきかなるまじきかと、おのおの坊主に御たづねあり。皆申されけるは、往生のたねになるべしと申したる人もあり、往生のたねにはなるまじきといふ人もありけるとき、仰せに、いづれもわろし、「正信偈和讃」は、衆生の弥陀如来を一念にたのみまゐらせて、後生たすかりまうせとのことわりをあそばされたり。よくききわけて信をとりて、ありがたやありがたやと聖人(親鸞)の御前にてよろこぶことなりと、くれぐれ仰せ候ふなり。

(現代語訳)

「朝夕に<正信偈和讃>をおつとめして念仏するのは、往生の因となると思うか、それともならないと思うか」と、蓮如上人が僧たち一人一人にお尋ねになりました。これに対して、「往生の因となると思う」というものもあり、また、「往生の因とはならないと思う」というものもありましたが、上人は「どちらの答えもよくない。
<正信偈和讃>は、衆生が弥陀如来を信じておまかせし、この信心を因として、このたび浄土に往生させていただくという道理をお示しくださったのである。だから、そのお示しをしっかりと聞いて信心を得て、ありがたいことだ、ありがたいことだと親鸞聖人の御影像の前で喜ぶのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。

と有る通りです。また同じく『御一代記聞書』に

一 十月二十八日の逮夜にのたまはく、「正信偈和讃」をよみて、仏にも聖人(親鸞)にもまゐらせんとおもふか、あさましや。他宗にはつとめをもして回向するなり。御一流には他力信心をよくしれとおぼしめして、聖人の和讃にそのこころをあそばされたり。ことに七高祖の御ねんごろなる御釈のこころを、和讃にききつくるやうにあそばされて、その恩をよくよく存知して、あらたふとやと念仏するは、仏恩の御ことを聖人の御前にてよろこびまうすこころなりと、くれぐれ仰せられ候ひき。

(現代語訳)

十月二十八日の逮夜のときに、蓮如上人は、「<正信偈和讃>をおつとめして、阿弥陀仏や親鸞聖人にその功徳を差しあげようと思っているのであれば嘆かわしいことである。他宗では、勤行などの功徳を回向するのである。しかし浄土真宗では、他力の信心を十分に心得るようにとお思いになって、親鸞聖人のご和讃にそのこころをあらわされている。
特に、懇切にお書きになった七高僧のお書物のこころを、だれもが聞いて理解できるようにと、ご和讃になさったのであり、そのご恩を十分に承知して、ああ尊いことだと念仏するのは、仏恩の深いことを聖人の御前で喜ばせていただく心なのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。

とも仰っています。

お勤めを勧める=助業を勧められている

とは、無知にも程があるでしょう。

もっと直接的な根拠では『改邪鈔』に

しかるをいま風聞の説のごとくんば、「三経一論について文証をたづねあきらむるにおよばず、ただ自由の妄義をたてて信心の沙汰をさしおきて、起行の篇をもつて、〈まづ雑行をさしおきて正行を修すべし〉とすすむ」と[云々]。これをもつて一流の至要とするにや。この条、総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり。正行五種のうちに、第四の称名をもつて正定業とすぐりとり、余の四種をば助業といへり。正定業たる称名念仏をもつて往生浄土の正因とはからひつのるすら、なほもつて凡夫自力の企てなれば、報土往生かなふべからずと[云々]。そのゆゑは願力の不思議をしらざるによりてなり。当教の肝要、凡夫のはからひをやめて、ただ摂取不捨の大益を仰ぐものなり。

とあって、自力の「称名念仏をもつて往生浄土の正因とはからひつのるすら」「報土往生かなふべからずと」誡められているのに、「〈まづ雑行をさしおきて正行を修すべし〉とすすむ」ことは、「総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり。」とまで切り捨てられています。

こんな基本中の基本さえ知らないで、基本中の基本を正反対に教えている親鸞会に救いなどあろうはずがありません。

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コメント

こんな内容のブログなのに記事下に創価学会の広告があって草ァ

投稿: | 2017年9月26日 (火) 23時00分

広告バナーは飛雲とは全く別物。
あえて言えば、あなたの趣味嗜好と関係ある可能性はある

投稿: 通りすがり | 2017年9月27日 (水) 21時32分

お久しぶりです。切実な声があるまで、サジを投げていたのですが、痺れ切った頭は戻るものならば戻って欲しいですが、読ませて頂きました親鸞会の状態だと滅茶苦茶なので、ためいきをついているところです。こんなもんが、どうにかなるとも思えませんが、
早い話、この人達は何がしたいんでしょうね。
教義クチャクチャですから。
貝のようになってますから、聞けることは無いでしょうが、何がしたいんでしょうね。

投稿: 夕顔 | 2017年10月17日 (火) 18時31分

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