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2017年9月

2017年9月26日 (火)

「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い9

現在の親鸞会は、結局何が言いたいのか良く判らない高森顕徹会長の話を聞いて、何も判らないけど何か有難がっているだけの会員が搾取されて、更に有難がっている思考麻痺の集団です。
教義批判への反論は絶対にできず、絶対に獲ることのできない嘘の信心と救いを求めている会員が哀れです。

さて、言うまでもなく、親鸞聖人は法然上人から阿弥陀仏の救いの教えを聞かれて、救われられています。

その法然上人の教えられた結論が『選択本願念仏集』にある三選の文です。それを親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれています。

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに

(現代語訳)

そもそも、速やかに迷いの世界を離れようと思うなら、二種のすぐれた法門のうちで、聖道門をさしおき、浄土門に入れ。浄土門に入ろうと思うなら、正行と雑行の中で、雑行を捨てて正行に帰せ。正行を修めようと思うなら、正定業と助業の中で、助業を傍らにおいておきもっぱら正定業を修めよ。正定業とは、すなわち仏の名号を称えることである。称名するものは必ず往生を得る。阿弥陀仏の本願によるからである。

どうすれば救われるのか、法然上人・親鸞聖人が具体的に仰ったお言葉です。

簡潔に言いますと、

Q.どうすれば救われますか?

A.聖道門を閣きて、雑行を抛ちて、助業を傍らにして、仏の名を称することをもっぱらにせよ。

親鸞会で教えていることとまるっきり反対です。

高森会長と愉快な仲間達はこう反論するでしょう。

持っていない者、やっていない者に捨てよとは言われない!

実に愚かです。
聖道門を捨てるために、聖道門に入る必要がありますか。その前の外道を捨てるために、外道に入る必要がありますか。ありません。
同じことで雑行を捨てるのに、なぜ雑行に励む必要があるのでしょうか。それにすでに雑行に励まされている会員が、なぜまだ雑行を更に励む必要があるのでしょうか。

こういいますと、また愚かな彼らは言ってきます。

お勤めを勧められているではないか。助業を勧められているのと同じで、雑行も勧められているのだ!

お粗末な詭弁です。最近の顕正新聞の論説にまで載せて強調していますが、恥さらしも大概にせよと言いたいです。
真宗では助業を勧められることはありません。お勤めとは聴聞です。お勤めという聴聞を勧められたのであって、助業を勧められたものではありません。聴聞とは、

聖道門を閣きて、雑行を抛ちて、助業を傍らにして、仏の名を称することをもっぱらにせよ。

一言で言うならこれまで言ってきたように、

念仏一行(称名一行)

と聞くことです。

お勤めについて『御一代記聞書』には

一 のたまはく、朝夕、「正信偈和讃」にて念仏申すは、往生のたねになるべきかなるまじきかと、おのおの坊主に御たづねあり。皆申されけるは、往生のたねになるべしと申したる人もあり、往生のたねにはなるまじきといふ人もありけるとき、仰せに、いづれもわろし、「正信偈和讃」は、衆生の弥陀如来を一念にたのみまゐらせて、後生たすかりまうせとのことわりをあそばされたり。よくききわけて信をとりて、ありがたやありがたやと聖人(親鸞)の御前にてよろこぶことなりと、くれぐれ仰せ候ふなり。

(現代語訳)

「朝夕に<正信偈和讃>をおつとめして念仏するのは、往生の因となると思うか、それともならないと思うか」と、蓮如上人が僧たち一人一人にお尋ねになりました。これに対して、「往生の因となると思う」というものもあり、また、「往生の因とはならないと思う」というものもありましたが、上人は「どちらの答えもよくない。
<正信偈和讃>は、衆生が弥陀如来を信じておまかせし、この信心を因として、このたび浄土に往生させていただくという道理をお示しくださったのである。だから、そのお示しをしっかりと聞いて信心を得て、ありがたいことだ、ありがたいことだと親鸞聖人の御影像の前で喜ぶのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。

と有る通りです。また同じく『御一代記聞書』に

一 十月二十八日の逮夜にのたまはく、「正信偈和讃」をよみて、仏にも聖人(親鸞)にもまゐらせんとおもふか、あさましや。他宗にはつとめをもして回向するなり。御一流には他力信心をよくしれとおぼしめして、聖人の和讃にそのこころをあそばされたり。ことに七高祖の御ねんごろなる御釈のこころを、和讃にききつくるやうにあそばされて、その恩をよくよく存知して、あらたふとやと念仏するは、仏恩の御ことを聖人の御前にてよろこびまうすこころなりと、くれぐれ仰せられ候ひき。

(現代語訳)

十月二十八日の逮夜のときに、蓮如上人は、「<正信偈和讃>をおつとめして、阿弥陀仏や親鸞聖人にその功徳を差しあげようと思っているのであれば嘆かわしいことである。他宗では、勤行などの功徳を回向するのである。しかし浄土真宗では、他力の信心を十分に心得るようにとお思いになって、親鸞聖人のご和讃にそのこころをあらわされている。
特に、懇切にお書きになった七高僧のお書物のこころを、だれもが聞いて理解できるようにと、ご和讃になさったのであり、そのご恩を十分に承知して、ああ尊いことだと念仏するのは、仏恩の深いことを聖人の御前で喜ばせていただく心なのである」と、繰り返し繰り返し仰せになりました。

とも仰っています。

お勤めを勧める=助業を勧められている

とは、無知にも程があるでしょう。

もっと直接的な根拠では『改邪鈔』に

しかるをいま風聞の説のごとくんば、「三経一論について文証をたづねあきらむるにおよばず、ただ自由の妄義をたてて信心の沙汰をさしおきて、起行の篇をもつて、〈まづ雑行をさしおきて正行を修すべし〉とすすむ」と[云々]。これをもつて一流の至要とするにや。この条、総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり。正行五種のうちに、第四の称名をもつて正定業とすぐりとり、余の四種をば助業といへり。正定業たる称名念仏をもつて往生浄土の正因とはからひつのるすら、なほもつて凡夫自力の企てなれば、報土往生かなふべからずと[云々]。そのゆゑは願力の不思議をしらざるによりてなり。当教の肝要、凡夫のはからひをやめて、ただ摂取不捨の大益を仰ぐものなり。

とあって、自力の「称名念仏をもつて往生浄土の正因とはからひつのるすら」「報土往生かなふべからずと」誡められているのに、「〈まづ雑行をさしおきて正行を修すべし〉とすすむ」ことは、「総じては真宗の廃立にそむき、別しては祖師の御遺訓に違せり。」とまで切り捨てられています。

こんな基本中の基本さえ知らないで、基本中の基本を正反対に教えている親鸞会に救いなどあろうはずがありません。

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2017年9月23日 (土)

「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い8

高森顕徹会長の口から聞いたことのない「念仏一行」という言葉ですが、この「念仏一行」を最も強調されたのが法然上人です。善導大師も「念仏一行」と仰っている個所はありますが、法然上人は飛びぬけて強調されています。

法然上人の御著書である『選択本願念仏集』には、10回以上も「念仏一行」と仰っています。つまり、法然上人の教えは、「念仏一行」の教えそのものなのです。
法然上人のお弟子であった親鸞聖人は法然上人のことを『正信偈』で

本師源空は、仏教をあきらかにして、

と、ここでは念仏という単語を出されずに仰ったのですが、それを蓮如上人は『正信偈大意』で

日本には念仏の祖師その数これおほしといへども、法然聖人のごとく一天にあまねく仰がれたまふひとはなきなり。これすなはち仏教にあきらかなりしゆゑなり。されば弥陀の化身といひ、また勢至の来現といひ、また善導の再誕ともいへり。

と解説なされています。日本における多くの「念仏の祖師」の中でも法然上人以上の方はないということで、法然上人も当然「念仏の祖師」だと表現なされています。

その法然上人の教えられた「念仏一行」の教えで、親鸞聖人が特に注目されたのが、

生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもって能入とす

です。
蓮如上人はこれを

生死輪転の家といふは、六道輪廻のことなり。このふるさとへ還ることは疑情のあるによりてなり。また寂静無為の浄土へいたることは信心のあるによりてなり。されば『選択集』にいはく、「生死の家には疑をもつて所止とし、涅槃のみやこには信をもつて能入とす」といへる、このこころなり。

疑情」と「信心」で「生死輪転の家に還来る」か「寂静無為の楽に入る」か分かれる、いわゆる信疑決判です。この信疑決判は高森会長でも言っているのですが、その意味が間違っています。

今まで私が書いたことが理解できれば、簡単なことですが、「念仏一行」を否定する高森会長と愉快な仲間達には理解不能でしょう。

簡単に説明しますと、

疑情」とは「念仏一行」を疑う心です。もう少し言葉を加えると、「念仏一行」で往生できるとは思えない心のことです。

これは、高森会長と愉快な仲間達の心そのままです。
何度でも示しておきますが『なぜ生きる2』にも

無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

こう書いていますし、本願寺を非難する時も同じことを言っています。
頭の鈍い高森会長と愉快な仲間達のために親切に言葉を言い換えておきましょう。

無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”念仏一行で良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

言葉のあやでも何でもありません。
完全に「念仏一行」を否定しているのです。

Q.どうすれば救われるのか?

A.「念仏一行」で救われると疑いがなくなったら。

法然上人・親鸞聖人を非難攻撃した聖道門と同じことを言いながら、真宗を名乗る愚かさに少しは恥を知りなさいと言い続けてきましたが、厚顔無恥の高森会長でした。

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2017年9月14日 (木)

「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い7

前回の続きです。

親鸞聖人が『教行信証』行巻に引かれている『往生要集』の

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

ですが、これは『観経』についての説明ですので、まず、『観経』の内容について述べておきます。

『観経』に説かれていることの大半は韋提希の獲信だと錯覚しているのが高森顕徹会長と愉快な仲間達ですが、それを言っていることが既に『観経』を読んだことのない証拠になります。『観経』の大半は、九品往生について説かれています。
九品往生とは、上品上生から下品下生までの九通りの人の往生のことです。
具体的には散善の三福(行福・戒幅・世幅)と念仏による往生で、

「上品上生」「上品中生」「上品下生」は、行福を修して往生する
「中品上生」「中品中生」は、戒福を修して往生する
「中品下生」は、世福を修して往生する
「下品上生」「下品中生」「下品下生」は、無三福で念仏を称えて往生する

という内容です。

これを善導大師の弟子であった懐感禅師が『釈浄土群疑論』の中で

『観経』の下品上生、下品中生、下品下生の三処の経文には、みなただ弥陀仏を念じて浄土に往生すと陳ぶ。

と言われました。それを承けられて源信僧都は『往生要集』で

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

と言い換えられました。「極重の悪人」とは下品下生のことです。懐感禅師は、下品上生、下品中生、下品下生という軽度から極重の悪人を並べて言われたことを源信僧都は下品下生に絞って仰ったものです。その「極重の悪人」には念仏以外の方便の善は勧められず、念仏一行を勧められているということです。逆に言えば、善人には念仏以外の方便の善があるということです。

高森会長と愉快な仲間達が言う、「極重の悪人」と知らされたら念仏を称えて助かるという頓珍漢な話ではなく、上品上生から中品下生にまで勧められている行福・戒福・世福の三福ができないし、しようともしない悪人のしかも最底の悪人には、念仏でしか助かる方法がないということなのです。

それでも信用しない高森会長と愉快な仲間達のために、『観経』の下品下生の御文を出しておきます。

下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。 この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

(現代語訳)

もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい> と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。

善知識の勧められたことは「なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし」です。そして善知識の勧められる通りに「十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ」の結果、「極楽世界に往生することを得」です。

これを源信僧都は「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と仰り、親鸞聖人も『高僧和讃』で

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と言い換えられ、蓮如上人もまた『正信偈大意』で

極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よ

と解説なされているのです。

善知識の勧められることは

無量寿仏〔の名〕を称すべし(観経)
南無阿弥陀仏と称せしむ(観経)
ただ仏を称念して(往生要集)
ひとへに弥陀を称して(高僧和讃)
ただ弥陀を称して(正信偈大意)

と共通しています。南無阿弥陀仏と称えることで極楽に往生すると教えられるのが善知識の定義です。
一方高森会長は、

無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。(なぜ生きる2)

善知識の定義とは正反対の悪知識だと小学生でも判る話です。

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2017年9月10日 (日)

「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い6

本日も高森顕徹会長は、いつもと同じ話を繰り返しただけです。念仏の信心ということに触れることもありません。なぜなら、高森会長の信心は、創価学会をパクった誰も成れない絶対の幸福だからです。

さて、続きです。

源信僧都の教えられたことを『正信偈』では

源信広く一代の教を開きて、ひとへに安養に帰して一切を勧む。

とあり、それを『正信偈大意』では

楞厳の和尚は、ひろく釈迦一代の教を開きて、もつぱら念仏をえらんで、一切衆生をして西方の往生をすすめしめたまへり。

と解説なされています。「もつぱら念仏をえらんで」という高森会長の口からは絶対にでない表現で蓮如上人は仰っています。

次の

専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり

に対しては

雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。

と仰っています。ここでは信心について蓮如上人が明言された箇所です。

自力の信心を「雑行雑修の機をすてやらぬ執心」とされた上で、「かならず化土懈慢国に生ずるなり」です。必堕無間を完全否定なされています。
そして他力の信心を「専修正行になりきはまるかたの執心」とされています。「専修正行」とは念仏一行のことですから、他力の信心とは、念仏一行に極まった心のことです。念仏の信心、唯念仏だけを称えて間違いなく助かると心が定まったことが他力の信心と蓮如上人は解説をなされています。

一方で高森会長の信心の説明は、

地獄一定と極楽一定の二つの心がハッキリしたことだ、

とか訳の判らない話で、信心の内容に念仏が出てきたことは一度もありません。
蓮如上人の仰る他力の信心と高森会長の他力の信心は全くの別物です。
阿弥陀仏から賜る念仏の信心と、創価学会作成の信心とが同じである筈がないです。

更に決定的なのがこの後の

極重の悪人はただ仏を称すべし

を蓮如上人は、

極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と仰っていることです。極重の悪人には、念仏以外の善という方便はない、ただ念仏して往生しなさい、と明言されています。

Q.どうすれば救われますか?

A.他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よ

高森会長の60年間の教えが根底から覆される御文です。
mixiでの三願転入の法論で、最後のダメ押しをしたのが、この御文です。『往生要集』を引かれた『教行信証』行巻で

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

親鸞聖人は間違えようのないお言葉で説明されています。
それで、高森会長は絶句し、敗走しました。

ところがmixiでの惨敗後、高森会長は

極重の悪人と知らされたなら、他の方便なしで18願一つで救われる

というような捻くれ解釈をするようになりました。
もちろん、そんな解釈が成り立つ筈もないことは、少し調べれば簡単に判ることです。
この説明は少し長くなりますので、次回にします。

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2017年9月 6日 (水)

「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い5

当然なことですが、異安心の高森顕徹会長も愉快な仲間達も、未だに念仏と信心との関係が全く理解できていません。高森会長の話や機関紙をみれば、明らかです。

確認のために何度でも言いますが、信心とは、念仏を称えて往生できると疑いなく信じたことです。言い方を換えると、念仏一行と心が定まったことです。
しかし、この念仏一行にも、自力と他力がありますので、他力の方の、念仏一行を親鸞聖人、蓮如上人は強調されたのだけです。
ということは、自力ではあっても念仏一行となっていない、もっと言うと、形式上でさえ善をしている人が、そのままいくら求めたところで他力の念仏一行になることはないということになります。言い換えると、雑行を捨てていない状態で、いくら努力しても念仏一行と心が定まるわけがないです。

この簡単な理屈が全く理解できないのが、高森会長と思考停止の会員です。

以上を踏まえて前回の続きです。
『正信偈』の道綽禅師の

道綽、聖道の証し難きことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす

を蓮如上人は『正信偈大意』では

この道綽はもとは涅槃宗の学者なり。曇鸞和尚の面授の弟子にあらず、その時代一百余歳をへだてたり。しかれども并州玄中寺にして曇鸞の碑の文をみて、浄土に帰したまひしゆゑに、かの弟子たり。これまたつひに涅槃の広業をさしおきて、ひとへに西方の行をひろめたまひき。されば、聖道は難行なり、浄土は易行なるがゆゑに、ただ当今の凡夫は浄土の一門のみ通入すべきみちなりとをしへたまへり。

と教えられました。
道綽禅師が教えひろめられたことは「ひとへに西方の行をひろめたまひき」です。「西方の行」です。もちろん念仏という「」のことです。信心をひろめられたという言い方はされていません。

この後

万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。

については、

万善は自力の行なるがゆゑに、末代の機、修行することかなひがたしといへり。円満の徳号は他力の行なるがゆゑに、末代の機には相応せりといへるこころなり。

です。
ここでも「他力の行」ですから念仏という「」です。

次に善導大師のところでは

慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲

を蓮如上人は

一心念仏の行者、一念慶喜の信心さだまりぬれば、韋提希夫人とひとしく、喜・悟・信の三忍を獲べきなり。

と解説なされています。「一心念仏の行者」は、今回最初に私が言った内容と合致します。信心を「一念慶喜」と表現されただけではなく、「一心念仏」とも仰っていることが重要です。
なお、「一心念仏」にも自力の「一心念仏」と他力の「一心念仏」がありますので、普通に考えれば、自力の「一心念仏の行者」が「一念慶喜の信心さだまり」、他力の「一心念仏の行者」となるのです。

では、自力の念仏を称えていれば、他力になるということか!

と親鸞会は短絡的な反論をしてくるでしょうが、私が言っていることは、雑行の行者がいきなり「一念慶喜の信心さだま」った後に他力の「一心念仏の行者」になるのではないということです。

親鸞会では未だに、

雑行を捨てよとは、善をするな、ではない、自力の心を捨てよだ

と寝惚けた妄言を吐いていますが、自ら選択して念仏一行一心念仏になってからの自力と他力の話になるのです。諸善にしがみついて形の上でさえ念仏一行になっていない者が、他力を語ること自体が片腹痛いというものです。

七高僧も、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人も「念仏の一行をすすめ」られたのに、それを徹底的に排斥して、雑行に邁進させる高森会長と邁進されられる愉快な仲間達に明るい未来はやってこないでしょう。

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2017年9月 3日 (日)

「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い4

いつもいつも間違った同じ話を聞かされて、親鸞会の会員は難行を強いられています。

では前回の続きで念仏の一行をすすめられた七高僧方が、具体的にどう教えられたのかを龍樹菩薩から順に見ていきます。

『正信偈』の

難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ

を蓮如上人は『正信偈大意』で

かの龍樹の『十住毘婆沙論』に、念仏をほめたまふに二種の道をたてたまふ。一つには難行道、二つには易行道なり。その難行道の修しがたきことをたとふるに、陸地のみちを歩ぶがごとしといへり、易行道の修しやすきことをたとふるに、水のうへを船に乗りてゆくがごとしといへり。

と解説されています。
龍樹菩薩は、「難行道」という諸善と「易行道」という念仏を対比されて、「易行道」の念仏を褒め称えておられると仰ったのです。「修しやすき」ですから、行です。「念仏をほめたまふ」であって、「本願をほめたまふ」「信心をほめたまふ」と仰っていないところが重要です。

天親菩薩のところでは

修多羅によりて真実を顕して、横超の大誓願を光闡す。

を蓮如上人は

この菩薩、大乗経によりて真実を顕す、その真実といふは念仏なり。横超の大誓願をひらきて

と解説されています。

真実といふは念仏なり」であって、「真実といふは本願なり」「真実といふは信心なり」とは仰っていません。この後の「横超の大誓願」と「念仏」は区別されています。

次に曇鸞大師のところでは

三蔵流支、浄教を授けしかば、仙経を梵焼して楽邦に帰したまひき

という曇鸞大師がどのようにして救われられたのかを蓮如上人は詳しく

かの曇鸞大師、はじめは四論宗にておはせしが、仏法のそこをならひきはめたりといふとも、いのちみじかくは、ひとをたすくることいくばくならんとて、陶隠居といふひとにあうて、まづ長生不死の法をならひぬ。すでに三年のあひだ仙人のところにしてならひえてかへりたまふ。そのみちにて菩提流支と申す三蔵にゆきあひてのたまはく、「仏法のなかに長生不死の法は、この土の仙経にすぐれたる法やある」と問ひたまへば、三蔵、地につばきを吐きていはく、「この方にはいづくのところにか長生不死の法あらん、たとひ長年を得てしばらく死せずといふとも、つひに三有に輪廻すべし」といひて、すなはち浄土の『観無量寿経』を授けていはく、「これこそまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」とのたまへば、曇鸞これをうけとりて、仙経十巻をたちまちに焼きすてて、一向に浄土に帰したまひけり。

と解説なされています。
曇鸞大師が菩提流支から言われたことは、「これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」です。信前の曇鸞大師に勧められたのは、「念仏すれば」です。
これを簡単に言うと、

Q.どうすれば救われますか?

A.念仏すれば

こういうことになります。
善の勧めもなく、いきなりの念仏の勧めです。

龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師の教えられたことは、念仏です。もちろん、信心の伴った念仏であることは言うまでもありません。

高森顕徹会長は『なぜ生きる2』でこう書いています。

無仏無法の人でさえ悪を慎み善に励んでいるのに、尊い仏縁に恵まれながら”善根を積む必要がない、念仏さえ称えていれば良いのだ”と、平気で悪性を発揮しているから真宗が廃れるのは当然である。

七高僧、親鸞聖人、蓮如上人と正反対のことを言っていることを、思考停止の会員は知らないと、死後は大変なことになりますよ。今も、搾取されて大変なことになっているでしょうけど。

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