「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い1
信心と念仏について、異安心の高森顕徹会長と愉快な仲間たちが判る訳がないのですが、親鸞会でもヒントになることは一応言っています。
『教学聖典』にこんな問答があります。
(問)
念仏無間という狂人どもを破る根拠を三つ以上あげよ。(答)
○勿論、一切経に出ていない言葉である。
○それどころか「汝好くこの語を持て、この語を
持てとはすなわちこれ無量寿仏の名(念仏)を持
てとなり」と観無量寿経にある。
○釈尊が臨終の父王に念仏三昧を勧められる訳が
ない。 (観仏三昧経)
問いがカルトそのものですが、それはおいておくとして、釈尊が臨終の父親に勧められたことは、諸善ではなく念仏であると親鸞会でも認めているのです。
では自力の念仏を勧められたのかというと、そのような意味合いで親鸞聖人は教えられてはいません。
『教行信証』行巻に『安楽集』を引かれて
『安楽集』にいはく、「『観仏三昧経』にいはく、〈父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、《仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる》と。仏、父の王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる》と。
(以下略)(現代語訳)
『安楽集』にいわれている。
「『観仏三昧経』に、<世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、≪仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか≫とお尋ねした。
世尊は父の王に、≪仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです≫と仰せになった。
行巻の念仏は他力の念仏について教えられたところですので、親鸞聖人は、釈尊が最初から他力の念仏を浄飯王に勧められたと解釈なされていることが判ります。
ここで注目点はもう一つありまして、浄飯王に、なぜ諸善ではなく念仏を釈尊は勧められたのかです。それは、浄飯王には行じがたい諸善を勧めてもできないことを釈尊は判っておられたからです。
浄飯王は、善ができると自惚れていましたが、釈尊は「ではやってみなさい」とは仰らずに、「できないから念仏を勧めているのだ」と仰っています。
できないのにできると自惚れているから実際にやらせてみて、できないことを判らせる
そんな回りくどいことを釈尊はされず、最初から念仏を勧められていることの意味を親鸞会会員は考えるべきでしょう。
一応言っておきますが、浄飯王はこの時点では信心決定していません。信前です。信前の人に、釈尊は最初から念仏三昧を勧められていて、そのことを道綽禅師も親鸞聖人も、そのまま教えられているのですから、信前の人に何を勧めるのかの答えがこれだということです。
最初から他力の念仏を勧めるのはおかしい
とマインドコントロールのよく効いている親鸞会会員は反論するでしょうが、釈尊、道綽禅師、親鸞聖人がそのように教えられていますので、それが真宗においては正解なのです。
それでも
方便がどうのこうの
というのなら、釈尊、道綽禅師、親鸞聖人の教えられたことを信じていると言わないことです。高森教なり高森宗を名乗って、親鸞聖人・真宗と無関係であることを公言しましょう。
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コメント
>それでも
>方便がどうのこうの
>というのなら、釈尊、道綽禅師、親鸞聖人の教えられたことを信じていると言わないことです。高森教なり高森宗を名乗って、親鸞聖人・真宗と無関係であることを公言しましょう。
なかなかに辛口なコメント、ですが仰る通りです。
そろそろ「高森教」にしてみてはいかがでしょう。
「選択本願(弥陀18願)を弘められた」のは源空聖人で、聖人のもとに集まられた方々は360人あまりと聞き及んでいます。(この中に多念義、一念義、一向義など様々にわかれます。)
「念仏」という言葉に絞って、御聖教を開いてみますと、「選択集」「念仏往生之業」などのほかに飛雲さんも仰られている
>父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる
>父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです
や
>この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ
(正信偈大意(正信念仏偈の解説書)本願寺蓮如の著書)
などがあり、挙げると限りがありません。
(むしろ真宗は、「念仏成仏 これ真宗」といわれているように
ただただ念仏を申し(信前の方は自力の称名もふくむ)、
念仏の謂れを、ほかの方がたに申し上げるだけなのです。
Abc
投稿: Abc | 2017年8月26日 (土) 16時20分