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2017年8月

2017年8月31日 (木)

「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い3

最近の高森顕徹会長の話は、ほとんど同じ話、同じ内容のために、会員も飽き飽きしてきて、イライラが募っているようです。

さて、高森会長と愉快な仲間たちには、真実の信心がどういったものか判らずに、

信心一つで救われる、聞く一つで救われる

と言っているだけですので、肝心要のない話をいくら聞いても、”求道”上は題目を唱えているのと同じ効果でしょう。

何度も言っていますが、信心とは二種深信でも、あるいは『末灯鈔』の

弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。

でも教えられている通りで、念仏称えて極楽に往生できると疑いなく信じたことです。
したがって、他力の信心、真実の信心とは、念仏の信心のことです。念仏を行と信心に分けて、信心の部分を他力の信心、真実の信心と親鸞聖人が仰っているだけなのです。

親鸞聖人も蓮如上人も、念仏の行よりも念仏の信心を強調されただけで、念仏の行を疎かにされることなど少し考えたらあり得ないと判りそうなものですが判らないのでしょう。18願は念仏往生の願と親鸞聖人も蓮如上人も仰っているのですから、念仏の抜けた念仏往生の願とは何ぞやという話です。

親鸞聖人の直接の師匠である法然上人も、そしてその前の高僧方も、念仏だけを勧められて、その教えの通りに親鸞聖人は救われられていますので、親鸞聖人が念仏の行を軽視したり、疎かにしたり、はたまた自力の念仏を貶めることはあろう筈がありません。

ところが高森会長もその信者の愉快な仲間達も、自力の念仏を嫌って、貶め、謗っているのですから、その信心が念仏の信心でないことは明々白々で、彼らの言う信心は、念仏と無関係な外道の信心と言わざるとえません。自力の念仏を称えていても無間地獄だと言って、念仏無間の創価学会のまねをしている信心が、真宗とは何の関係もありません。

ここまで言っても理解も信用もしないでしょうから、親鸞聖人の教えを凝縮された『正信偈』とそれを解説なされた蓮如上人の『正信偈大意』を通して今後説明していきます。

印度西天の論家、中夏日域の高僧、大聖興世の正意を顕し、如来の本誓、機に応ぜることを明かす

ここを蓮如上人は

この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ、ことに釈尊出世の本懐は、ただ弥陀の本願をあまねく説きあらはして、末世の凡夫の機に応じたることをあかしましますといへるこころなり。

と教えられています。

七高僧方は「念仏の一行をすすめ」です。日本語の問題ですが、「念仏をすすめ」と「念仏の一行をすすめ」では意味が違います。
念仏をすすめ」は、念仏を勧められていても、他の行も勧められている可能性はあることになりますが、「念仏の一行をすすめ」は、他の行を勧められていないので、「一行」なのです。勧められる行は念仏のみ、これが歴代の善知識方の共通した教えです。

当然のことで言うまでもないことですが、思考停止の会員のために敢えて言っておきますと、信前の人に対して「念仏の一行をすすめ」です。
要するに、行としては念仏以外には勧められていないのが七高僧であり、親鸞聖人も蓮如上人もそれに倣われているのです。蓮如上人は、往生の業である念仏が信後には報謝の念仏になると言われているのを、信前の念仏を排除されたのだと勘違いして、信前に念仏を勧めるのは間違いだという創価学会並みの教義を振りまわすのが親鸞会です。

なお、親鸞聖人の教えに善の勧めがあるのかないのか、という超愚問を投げかけた高森某という人物がいましたが、七高僧方が「念仏の一行をすすめ」られていますので、親鸞聖人も当然「念仏の一行をすすめ」であり、善の勧めなどある筈もない超恥さらしであったことも付け加えておきます。

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2017年8月28日 (月)

「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い2

昨日の高森顕徹会長の話は、

どうすれば絶対の幸福になれるのか、それは聞く一つだ

というような内容でした。
相も変わらず、絶対の幸福の連呼ですが、絶対の幸福を連呼する狙いは、真宗関係者や退会者から突っ込まれにくいからです。仏語ではないので、説明が違うともいえません。したがって大元の創価学会が突っ込まない限り、高森会長はこの路線をひた走ることになるのでしょう。

さて、絶対の幸福はさておき、聞く一つで助かるということ自体は、間違いではありませんが、問題は何を聞くのかです。もちろん阿弥陀仏の本願であり、高森会長もそのことは言ってはいますが、内容がおかしいです。

高森会長お得意の、正しくはお得意だった二河白道の譬えに答えがあります。
これも『教学聖典』で、二河白道の譬えの中にある西岸上の人の喚び声について

汝―――十方衆生
一心――至心・信楽・欲生
正念――乃至十念
直来――若不生者
護汝――不取正覚
不畏――唯除

と言っています。

なんぢ一心正念にしてただちに来れ。 われよくなんぢを護らん。 すべて水火の難に堕することを畏れざれ

肝心な「一心正念にしてただちに来れ」は、18願文では「至心・信楽・欲生 乃至十念 若不生者」です。
親鸞聖人はこの解説を詳しくなされています。
『愚禿鈔』には、

「一心」の言は、真実の信心なり。「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。

とあります。

18願文の「若不生者」に当たる「直ちに来れ」について、遠回りである聖道門や19願・20願を捨てて、近道である18願に帰し、「報土に還来せしめんと欲してなり」と教えられています。ですから、「」は浄土に生まれさせるという意味になり、「信楽」の身に生まれさせるという意味にはなりえません。ましてや「絶対の幸福」の身に生まれさせるは、絶対にあり得ません。

ではどのようにして来なさい、と仰っているのかというと、「一心正念にして」です。簡単に言うと真実の信心で念仏して、です。

二河白道の譬えですから、信前の人に対して阿弥陀仏が仰ったのは、

真実の信心で念仏して浄土に来なさい

判り易く言うと

Q.どうすれば救われますか?
A.真実の信心で念仏して(最初から他力の念仏)

要するに信心と念仏はセットです。信前にセットで勧められています。
ここは信後の報謝の念仏について仰っているのではなく、信前の人が救われるための念仏です。

更には、この「一心正念」について『浄土文類聚鈔』でより詳しく解説なされています。

しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ無上心なり。無上心はすなはちこれ淳一相続心なり。淳一相続心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心を獲れば、この心三不に違す、この心三信に順ず。この心はすなはちこれ大菩提心なり。大菩提心はすなはちこれ真実信心なり。真実信心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。
度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心はすなはちこれ畢竟平等心なり。この心はすなはちこれ大悲心なり。この心作仏す。この心これ仏なり。これを「如実修行相応」と名づくるなり、知るべし。

正念」は念仏ですが、問題は「一心」の内容です。18願文の「信楽」にあたる「一心」の言い換えをたくさん出されていますが、図式にすると

信楽
=一心
=深心
=堅固深信
=真心
=金剛心
=無上心
=淳一相続心
=大慶喜心
=三信に順ず
=大菩提心
=真実信心
=願作仏心
=度衆生心
=衆生を摂取して、安楽浄土に生ぜしむる心
=畢竟平等心
=大悲心
=作仏す
=仏なり

となります。
詳しい説明はしませんが、「信楽」とは、最後にある仏のはたらきそのものになりますから、軽々しく、「信楽」の身に生まれ変わるなどというものではありません。我々の煩悩に汚れた心が、仏の心になるのではないことは、少し考えれば判ると思います。
信楽」を頂くことと、「信楽」の心になることの違いは、明らかです。

絶対の幸福だとか、念仏は信後に限るなどとの高森教の教えを聞いて、阿弥陀仏に救われることはありませんので、富山に行くことが無駄どころか救いの障害になっていることを会員も気が付きましょう。

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2017年8月24日 (木)

「どうすれば救われるのか」真宗と高森教との決定的な違い1

信心と念仏について、異安心の高森顕徹会長と愉快な仲間たちが判る訳がないのですが、親鸞会でもヒントになることは一応言っています。

『教学聖典』にこんな問答があります。

(問)
 念仏無間という狂人どもを破る根拠を三つ以上あげよ。

(答)
 ○勿論、一切経に出ていない言葉である。
 ○それどころか「汝好くこの語を持て、この語を
  持てとはすなわちこれ無量寿仏の名(念仏)を持
  てとなり」と観無量寿経にある。
 ○釈尊が臨終の父王に念仏三昧を勧められる訳が
  ない。                 (観仏三昧経)

問いがカルトそのものですが、それはおいておくとして、釈尊が臨終の父親に勧められたことは、諸善ではなく念仏であると親鸞会でも認めているのです。
では自力の念仏を勧められたのかというと、そのような意味合いで親鸞聖人は教えられてはいません。

『教行信証』行巻に『安楽集』を引かれて

『安楽集』にいはく、「『観仏三昧経』にいはく、〈父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、《仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる》と。仏、父の王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる》と。
(以下略)

(現代語訳)

『安楽集』にいわれている。
「『観仏三昧経』に、<世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、≪仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか≫とお尋ねした。
 世尊は父の王に、≪仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです≫と仰せになった。

行巻の念仏は他力の念仏について教えられたところですので、親鸞聖人は、釈尊が最初から他力の念仏を浄飯王に勧められたと解釈なされていることが判ります。

ここで注目点はもう一つありまして、浄飯王に、なぜ諸善ではなく念仏を釈尊は勧められたのかです。それは、浄飯王には行じがたい諸善を勧めてもできないことを釈尊は判っておられたからです。
浄飯王は、善ができると自惚れていましたが、釈尊は「ではやってみなさい」とは仰らずに、「できないから念仏を勧めているのだ」と仰っています。

できないのにできると自惚れているから実際にやらせてみて、できないことを判らせる

そんな回りくどいことを釈尊はされず、最初から念仏を勧められていることの意味を親鸞会会員は考えるべきでしょう。
一応言っておきますが、浄飯王はこの時点では信心決定していません。信前です。信前の人に、釈尊は最初から念仏三昧を勧められていて、そのことを道綽禅師も親鸞聖人も、そのまま教えられているのですから、信前の人に何を勧めるのかの答えがこれだということです。

最初から他力の念仏を勧めるのはおかしい

とマインドコントロールのよく効いている親鸞会会員は反論するでしょうが、釈尊、道綽禅師、親鸞聖人がそのように教えられていますので、それが真宗においては正解なのです。

それでも

方便がどうのこうの

というのなら、釈尊、道綽禅師、親鸞聖人の教えられたことを信じていると言わないことです。高森教なり高森宗を名乗って、親鸞聖人・真宗と無関係であることを公言しましょう。

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