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2017年7月25日 (火)

念仏一行を勧めるのが善知識、念仏一行を否定するのが悪知識高森顕徹会長

前回のエントリーで、親鸞聖人は「念仏正因」と仰っていると書きましたので、「信心正因」との関係で、親鸞会の会員は頭が混乱していることと思います。しかし、当ブログを以前から読まれている退会者の皆さんなら、普通に理解されていることと思います。

簡単なことで、

信心とは、念仏1つで往生できると深く信じた心のことですから、

「信心正因」=「念仏正因」と深く信じた心が正因

ということです。
他力の信心に疎い高森顕徹会長と愉快な会員達には理解できないことですが、これだけのことです。

以前に同じようなことをエントリーで書いた時に、会員が挙げ足を取ったつもりでこのようなコメントしてきたことがあります。

念仏称えて助かると深く信じていますが、救われていないのはどうしてですか?

思考停止の会員らしいコメントですが、深く信じるとは深信、つまり真実の信心のことを指して親鸞聖人は仰っているのですから、会員のコメントを言い換えるなら、

真実の信心を獲ましたが、救われていないのはどうしてですか?

これなら思考停止の会員でもおかしさが理解できるのではないかと思います。深く信じるを自力だとかいう愚かさを恥じて、その会員はコメントしなくなりましたが、恥を知らずに同じようなことを未だに言っている会員もいるようで、呆れ果てます。

もう一度言いますと、真実の信心、他力の信心とは「念仏1つで往生できると深く信じた心」ですので、「念仏1つで往生できると浅く信じた心」が自力の信心になります。
共通しているのは「念仏1つで往生できると信じた心」で、違いは「深く」か「浅く」かです。

ここまで説明すれば、思考できる人ならお判りかと思いますが、「念仏1つで往生できると深く信じた心」の前には、通常「仏1つで往生できると浅く信じた心」がある筈です。「諸善をして往生しようと信じた心」をいくら積み重ねても、「念仏1つで往生できると深く信じた心」にはなれません。「諸善をして往生しようと信じた心」を自ら捨てさって、「念仏1つで往生できると浅く信じた心」になれば、「念仏1つで往生できると深く信じた心」になることはあります。

諸善をすれば、1つの善もできないことが知らされる

と本気で思っているのが会員ですが、善をしてもそんなことは永久に知らされません。

諸善をすれば、諸善がそれなりにできることが知らされる

です。
高森会長が詭弁でよく使う例えが、

親孝行をしようと真剣になれば本当の親孝行のできないことが知らされる

ですが、これを会員はまともに信じているから思考停止だというのです。
私が会員の時でも、これが詭弁であることは判っていました。
正しくいうなら、

親孝行をしようと真剣になれば、親孝行は他人よりもできるが、親を心から喜ばせるような本当の親孝行のできないことが知らされる

です。親孝行のできないことが知らされることなど、絶対にありません。

こんな簡単な詭弁に騙されて、未だに諸善だの宿善だの19願だの言っているから、他力の信心の1歩手間の「念仏1つで往生できると浅く信じた心」さえも馬鹿にして念仏軽視しているのです。

念仏1つで往生できると深く信じた心」とは異なる信心の高森会長を、善知識と思っているのは、鰯の頭を信じているのと何ら変わりがないのです。

今回は思考停止でも理解しやすいように根拠なしで説明しましたが、最後に一つだけ根拠を出しておきます。

『正信偈大意』

この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ

善知識は念仏の一行を勧められる方、悪知識は念仏の一行を否定する輩です。

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コメント

様々なところにコメントを書かせていただいてるAbcです。

少々、拙い文章ではございますが、少しお付き合いくださいませ。

>前回のエントリーで、親鸞聖人は「念仏正因」と仰っていると書きましたので、「信心正因」との関係で、親鸞会の会員は頭が混乱していることと思います。しかし、当ブログを以前から読まれている退会者の皆さんなら、普通に理解されていることと思います。

>簡単なことで、

>信心とは、念仏1つで往生できると深く信じた心のことですから、

>「信心正因」=「念仏正因」と深く信じた心が正因

そうなんです。「信心=念仏」と深く(もしかしたら浅くも)信じていないのが
かの会員であり高森会長なのです。

私がその際(会に属していた時に)説明した文言といたしましては、

  念仏=信心と言われる謂れとして、
  源空聖人が「念仏為本」と本願寺蓮如が「聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候」
  の2つを合わせれば容易に分かることですが、
  善信上人の著書に「正信念仏偈(正信偈)」と「念仏正信偈(本類偈)」という偈を作られていますが、
  これは「信心=念仏」であると偈頌されているのです。

こういいますと「確認してみます」という方もいましたが、一方では「善信上人という方はいない」や「上人号をつけ間違っているのではないか」、「念仏無間だ!!」という方もいらっしゃいました。

どうやら、高森教では真宗でない別の教えが蔓延っていて、「念仏1つで往生できると浅く信じた心」すらない教えのようです。

Abc

投稿: Abc | 2017年7月28日 (金) 23時44分

連投申し訳ございません

添削
「念仏正信偈(本類偈)」→「念仏正信偈(文類偈)」ですので
ここで修正しておきます。

自分としては上人号は間違った覚えはないのですが、彼らにとっては間違いらしいです。

投稿: Abc | 2017年7月28日 (金) 23時58分

Abc様

親鸞会では、念仏はおまけであり、善以下の位置付けですから、高森教なのです。

投稿: 飛雲 | 2017年8月 1日 (火) 07時08分

善知識というとあの会では親鸞聖人や蓮如上人のような救世主のような存在と刷り込まれてましたが、善知識なんてのは山ほどいるんですね。
善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。ですから、本願寺の僧侶などは善知識ですわね。
ただ「真の知識」はこの人なら地獄だろうとどこだろうとついて行けるという人で法然上人や親鸞聖人などのお方。これはめったにお出会いすることはできない。

投稿: | 2017年8月 8日 (火) 23時54分

歎異抄後序の
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、万のことみなもって、そらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」を、
板書では
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、万のことみなもって、そらごと、たわごと、まことあることなし。」で説明されます。
どうも釈然としません。

御文章五帖め十六通の
人間のはかなきことは、老少不定のさかいなれば、だれのひともはやく後生に一大事を心にかけて
阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。

では
阿弥陀仏が、阿弥陀仏の本願に、念仏は、お礼の念仏になると、
参詣者から、当然お念仏の声はほとんど聞こえませんね。
正信念仏偈の後であれだけご和讃と念仏が唱えられるのに、
会場に念仏が響かないのは不思議です。

親鸞聖人も、顕浄土真実教行証文類後序に
法然上人の「南無阿弥陀仏 往生の業 念仏為本」をきしておられます。これは御礼の念仏だけではありません。

本師源空聖人のもとで、他力回向の信心喜ぶ身になられた親鸞聖人は、念仏を重視していたと思わないほうがよくわかりません。
なんまんだぶ ありがたい

投稿: | 2017年8月 9日 (水) 20時42分

Abcです。

8月9日 20:42 に書かれた方へ

そうですよね、善信上人(親鸞聖人)は、「念仏と信心は表裏一体であり、切り離すことはできない」と上人のお記しになられた書物の題名から読み取れます。

ただ、私は「正信念仏偈」「念仏正信偈」と懇ろに申してはいますが、
本願寺の方がたは「正信偈」「文類偈」と申され、この表題から教えを説かれることは
ほぼなくなってしまいました。

ただ、本願寺の中興上人(慧灯大師 蓮如房 兼寿)が、
>人間のはかなきことは、老少不定のさかいなれば、だれのひともはやく後生に一大事を心にかけて阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。

人間のいのちは老少不定の境であり儚いものであるから、どのような方も速やかに「後生の一大事」を強くこころに持ち、阿弥陀佛をよくよく頼んで、お念仏をいいなさい。

と仰せになられているように、
決して、「念仏」は親鸞会でいわれているような「ついでのもの」なのではないのです。

なもあみだぶつ

Abc

投稿: Abc | 2017年8月23日 (水) 22時11分

親鸞会では、確か、本願文(第十八願)の乃至十念を説明される時、念仏は10回でも、五回でも、1回でも、または0回でもよいと教えられました(乃至の説明から)。これが基本ですし、十八願を「どんな人をも、必ず助ける、絶対位の幸福に」と教えています。その18願成就文には、念仏が省略されており信心に含まれている、と教えられていますから、”お念仏”なんて出てくる隙間はありません。それが根本理由だと思われます。なんまんだぶ ありがたい

投稿: | 2017年8月24日 (木) 15時32分

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