”親鸞聖人の教えの根基”の話をしない高森顕徹会長
最近は、”親鸞聖人の教えの根基”である三願転入についての話がありません。高森顕徹会長は”親鸞聖人の教えの根基”の抜けた話しかしていません。
この状況を会員はどう考えているのか訊いてみたいです。
もう一度いいますが、”親鸞聖人の教えの根基”の話をしないことについてどう思っているのか。
高森会長が話をしなくなった理由は簡単です。”親鸞聖人の教えの根基”だと思っていた三願転入の教えが、親鸞聖人の教えではなかったと、高森会長が認めざるを得なくなったからです。
どんな詭弁を使おうが、どんな超飛躍的論理を用いようが、親鸞聖人の御著書では、三願転入の教えなるものは完全に否定されているのですから当然です。
七高僧のどなたも三願転入について仰っていませんし、19願自体を殆ど無視されています。蓮如上人も、三願転入についても19願についても、何一つ仰っていません。
この状態で”親鸞聖人の教えの根基”とか言い切ることの無謀さを、高森会長はようやく理解しただけのことです。
mixiでの法論で大惨敗した時点で、”親鸞聖人の教えの根基”である三願転入の教えを引っ込めておけば、『なぜ生きる2』を出版することもなく、真宗史上最悪の知識が定着することも防げたのかもしれませんが、既に時遅しです。
ところで、高森会長がこのように悲惨な教義を生み出した出発点は、信心と念仏との関係が全く判っていなかったことによるのでしょう。念仏は信心のオマケ、信前の念仏は信心獲得するのに無意味、との異安心から、宿善だの三願転入だのと真宗とはかけ離れた教義へ向かったのだと思われます。
信心と念仏との関係が良く判るのが、『教行信証』で行巻と信巻の二回も引かれている
深心はすなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく
です。
真実の信心とは、自分の修した善程度では出離できず、「名号を称すること下至十声聞等」によって往生できると信知したことです。
『末灯鈔』ではもっと判り易く、
弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。
と仰っています。
真実の信心とは、「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じ」たことです。
要するに、念仏を称えて往生できると深く信じたことが真実の信心ですから、信前に念仏を疎かにしてもよいと考えることはあり得ませんし、信後に未だ命があるのに、念仏を称えなくても良い、などという考えがでてきようもありません。
念仏と諸善とは対極関係にありますので、善が信心に何らかの関わりがあるのかという発想も、真実信心からは出てきません。
この単純な話も、高森会長には理解できないでしょうし、”親鸞聖人の教えの根基”を話しない高森会長に疑問を持たないマインドコントロールのよく効いた会員には、チンプンカンプンなことでしょう。
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コメント
信心正因、称名報恩とよくいわれています。これに若干引っかかってましたが、親鸞聖人の第十八願の五願開示をを教えられて判りました。
正信念仏偈に「本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」とあり、
第十七願は諸仏に対して、第十八願は十方衆生に対してですから、しかも「為因」ですから
念仏称えたら救われるはおかしくなり、第十八願(至心信楽願)を因として、そして念仏称えたら、往生成仏ができる、となります。
第十八願文とその成就文の比較からでは、この区分けは出てきません。(三心の中に十念を入れるとまでは言いますが)
そこをよく見ておられた蓮如上人の卓見は、中興の祖と言われるだけあり、その手腕は驚嘆のほかありません。その上人が「雑行を捨てて、後生助けたまえと一心に弥陀(南無阿弥陀仏)をたのめ」といわれてますところをみても、法然上人の仰られる”聞きやすく、称えやすく、保ちやすい”お念仏は
五濁悪時、悪世界、邪見、驕慢の悪衆生にとって、これ忘れてどうなるのでしょうか?
無眼人・無耳人を、大悲の願船にそのまま乗せてくれるなら、本願を信じただけなら、忘れ物があることになります。
なんまんだぶ ありがたい
投稿: 念仏大好き | 2017年7月22日 (土) 21時00分
第十七願で名号が出来て、その名号により第一八願で念仏往生が成就。 (弥陀の両袖)
ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして(御文)
投稿: | 2017年7月23日 (日) 19時12分