体失往生を否定しながら肯定する高森顕徹会長
追悼法要の演題は、また「白骨の章」だそうです。高森顕徹会長は、片手に余るレパートリーの同じ話を繰り返すことしかできないようで、会員もさぞや退屈でしょう。
さて、前回言及した体失不体失往生の諍論について、本当はどんな内容であったのかを説明したいと思います。
まず善恵房証空上人は不体失往生を教えていなかったのかといえば、そうではありません。
『定善義他筆抄』に
此世とは、即便往生を云ひ、後生とは、当得往生を云う也。
とあります。
死んだ後の「即便往生」と、平生の「当得往生」の2つを明言しています。高森会長の言う、死んでからの救いのみを教えられたのが証空上人であるということが全くのデタラメであることがこの一文ではっきりします。
一方で『女院御書』には
他力本願をたのみて、過去の罪をも、今生の罪をも懺悔して、仏かならず迎給へと思ひて念仏せば、かならず本願にも相叶ひて臨終には仏の来迎にもあづかるべきものなり。
とあるように、臨終来迎についての言及もあります。
ところが親鸞聖人は、臨終来迎については否定的にしか仰っていません。
たとば『末灯鈔』には
来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。
(中略)
この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。(現代語訳)
来迎は諸行往生すなわちさまざまな行を修めて浄土に往生しようとする人についていうのであり、 それは、 自力の行者だからです。 臨終の時に往生が定まるということは、 諸行往生の人についていうのであり、 それは、 まだ真実の信心を得ていないからです。 また十悪・五逆の罪を犯した人が、 臨終の時にはじめて善知識に出会い、 念仏を勧められる際にいうことなのです。 ^真実の信心を得た人は、 阿弥陀仏が摂め取ってお捨てにならないので正定聚の位に定まっています。 だから、 臨終の時まで待つ必要もありませんし、 来迎をたよりにする必要もありません。 信心が定まるとのときに往生もまた定まるのです。 来迎のための儀式を当てにする必要はありません。
(中略)
このような自力の行を修める人は、 来迎がないと辺地や胎宮や懈慢界などといわれる方便の浄土にさえ生れることができません。 だから第十九願に、 「さまざまな善を積み、 浄土に回向し、 往生したいと願う人が、 命を終えようとする時、 わたしはその人の前に現れて迎え取りましょう」 と誓われているのです。 臨終の時まで待つということと来迎により往生するということは、 このような定善や散善を修める人がいうことです。
このように、親鸞聖人は臨終来迎については、諸行往生であり、定散の機に限られるという解釈をなされています。
つまり、平生の往生を主張していたという点では、証空上人は親鸞聖人と同じではあったが、証空上人は臨終来迎に肯定的、親鸞聖人は否定的の違いがあります。
ここで、『口伝鈔』の法然上人の御言葉を見てみましょう。
善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。〈如来教法元無二〉なれども、〈正為衆生機不同〉なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。つぎに諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いづれも文釈ことばにさきだちて歴然なり
先ほどの『末灯鈔』の御言葉と共通するお言葉が出てきます。
「諸行往生」「第十九の願」「定心・散心の行者(=定散の機)」
そうなりますと、勘の良い方ならお判りでしょうが、
「臨終まつことと来迎往生」と「体失往生」とは同じ説明になっていますので、
臨終来迎=体失往生
となります。
要するに、体失不体失往生の諍論とは、臨終来迎を認めた証空上人と臨終来迎を認めない親鸞聖人の諍いだということなのです。
不体失往生を死んでからの往生と固定してしますと、親鸞聖人は死んでからの往生を否定された方になってしまいます。この世で往生を遂げてこの世で浄土に往く、と主張されたのが親鸞聖人だということになりますが、明らかな間違いです。
高森会長には、この単純な理屈が理解できないのでしょう。
高森会長の主張を簡単にまとめると
1.親鸞聖人は体失往生(死んだ後に浄土に往生すること)を否定された
2.往生には、不体失往生と体失往生の2つがある
これが矛盾だと気が付かないから、同じ間違った話を何度も何度もするのでしょう。
念のため、正しくはこうなります。
1.親鸞聖人は体失往生(臨終来迎)を否定された
2.往生とは、平生に往生が定まり、死んだ後に浄土に往生を遂げる
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コメント
なるほど。の一言でございます。
投稿: YGM | 2017年7月 8日 (土) 16時46分