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2017年6月

2017年6月25日 (日)

レベルが下がり続けて、言っていることが訳判らなくなった高森顕徹会長

最近の高森会長の話は、毎回同じ話の繰り返しです。18願と18願成就文を出して、

一念で絶対の幸福にしてみせると阿弥陀仏が約束しておられる

と相も変わらず愚かなことを言っています。会員が居眠りするのも当然でしょう。

本日の話で少しおもしろいのが、「往生」には「不体失往生」と「体失往生」の2つの意味があると説明したことでしょう。「体失往生」を間違いだと否定しなかったことです。要するに、「体失往生」を主張した善慧房証空上人は間違ったことを言ったのではないことを認めたのです。なぜ高森顕徹会長が「体失往生」を認めたのかは、私がそう書いたからでしょう。

信楽と正定聚との関係も判らない高森顕徹会長の信心

今頃修正したところで、アニメや著書で散々「体失往生」が間違いだと言ってきたことまでなかったことにできませんので、いつもの恥さらしです。

さて、何かの一つ覚えで言い続けている「一念」ですが、この意味も間違っています。
18願成就文の「乃至一念」は、元々は1回の念仏として、法然上人まで解釈されてきたのですが、親鸞聖人がそれを否定されたのではなくそこに信心の意味を加えられたということを

念仏往生の願の成就文に「念仏の意味はない」としか考えられない浅はかな高森顕徹会長

でも説明してきました。
ここの「一念」は、高森会長の大好きな「一瞬」「瞬間」という意味で親鸞聖人が直接仰っているのではありません。
『教行信証』信巻の

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。

を読めば判りますが、「信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。」つまりは念仏に一心になったことを仰っているのです。その説明を高森会長は絶対にしません。知らないからです。

一応言っておきますと、もちろん「一瞬」「瞬間」で頂ける信心ではありますから時剋の意味を含んではいますが、高森会長の意図としては、そんな深い御心ではなく、摩訶不思議な信心と会員に思わせることだけでしょう。

なお時剋の「一念」については、天台宗で教えられていて、真宗独自の教えではありません。天台宗や日蓮系の宗派では「一念三千」ということをよく言われますが、またもや創価学会のパクリがここでも露呈しています。

ちなみに、高森会長が最近毎回出す『口伝鈔』の

如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。

ですが、これは簡単にいうと、阿弥陀仏に救われるのに時間はかかりませんよ、ということで、

10年や20年聞いたくらいで判るものではない!
そんな簡単に救われることはない!
一生や二生で救われるものではない、多生の目的だ!

という親鸞会の教えを徹底的に否定されたお言葉なのです。

頭の鈍い会員はこう反論するでしょう。

救われるまでに時間が掛かるが、救われる時は一瞬ということだ!

それを多念と覚如上人は仰っているのです。

一応解説しておきます。

「救われるまでに時間が掛かる」が「多念」
「救われるまでに時間が掛からない」が「一念」

これでも判らないなら、小学校で国語の勉強をし直しましょう。

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2017年6月 4日 (日)

”絶対の幸福”は還相回向の話であることも当然知らない高森顕徹会長

本日も高森顕徹会長は、毎度毎度の創価学会亜流の話をしていたそうです。絶対の幸福の連呼です。
高森会長は、自らの無知を曝し続けていることが判らないほど呆けているのか。あるいは親鸞会の存亡がかかっているため恥など気にしておれないのか。いずれにしても親鸞聖人の教えとはかけ離れた話です。

高森会長は知る由もないでしょうから、親鸞聖人が3種の楽しみについて教えておられることを少し紹介しておきます。

『教行信証』証巻に『浄土論註』を引かれてこうあります。

楽に三種あり。一つには外楽、いはく五識所生の楽なり。二つには内楽、いはく初禅・二禅・三禅の意識所生の楽なり。三つには法楽楽、いはく智慧所生の楽なり。この智慧所生の楽は、仏の功徳を愛するより起れり。これは遠離我心と遠離無安衆生心と遠離自供養心と、この三種の心、清浄に増進して、略して妙楽勝真心とす。妙の言はそれ好なり。この楽は仏を縁じて生ずるをもつてのゆゑに。勝の言は三界のうちの楽に勝出せり。真の言は虚偽ならず、顛倒せざるなり。

(現代語訳)

<楽>に三種がある。一つには外楽、すなわち五識による楽しみである。二つには内楽、すなわち禅・第二禅・第三禅の禅定の意識による楽しみである。三つには法楽楽、すなわちさとりの智慧による楽しみである。この智慧による楽しみは、阿弥陀仏の功徳を願い求めることからおこるのである。自分自身に執着する心を遠く離れ、衆生を安らかにすることのない心を遠く離れ、自分自身を供養し敬愛する心を遠く離れるという、この三つが清らかに進展して一つの妙楽勝真心となる。妙とは、よいという意味である。この楽は阿弥陀仏を縁としておこるからである。勝とは、迷いの世界の楽しみに超えすぐれていることである。真とは、いつわりでなく真実にかなっていることをいうのである。

外楽」とは、五識を喜ばせる楽しみで、高森会長が言う相対の幸福と言ってもよいでしょう。
内楽」とは、精神的な楽しみですが、未だ迷いの楽しみですから、これも相対の幸福と言っていいかもしれません。
最後の「法楽楽」は、「智慧所生」とあり、無漏の智慧より生ずる楽で、説法等の音声を聞く楽しみのことです。

これが絶対の幸福だ

ともし言うのであれば、これは無漏の智慧ですから、獲信したといっても有漏の智慧しか持ち合わせていない凡夫がなれる境地ではありません。
その証拠に
遠離我心と遠離無安衆生心と遠離自供養心と、この三種の心、清浄に増進して、略して妙楽勝真心とす
と教えられています。
自分の執着心を遠く離れ、他人のことに無頓着でどうでもいいという心を遠く離れ、自分のため自分のためという心を遠く離れた楽のことです。またここは、親鸞聖人が還相回向について説明されているところで引かれていますので、浄土往生後に仏となってからの話です。

要するに、「法楽楽」とは浄土往生する前のことではありませんので、当ブログをパクって、

親鸞聖人が外楽・内楽と教えられていることを相対の幸福、法楽楽と教えられていることを絶対の幸福と言い換えただけだ

と高森会長が突如言い始めたとしても、その”絶対の幸福”は浄土往生の前にはなれないことを親鸞聖人が教えられたのですから、高森会長の間違いを証明する根拠になります。

私の予想では、それほど遠くない時期に、外楽・内楽・法楽楽の話が出ると思います。その際には、今回のエントリーを参照して、高森会長のパクリ根性を皆で指摘してあげてください。

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