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2017年6月

2017年6月28日 (水)

体失往生を否定しながら肯定する高森顕徹会長

追悼法要の演題は、また「白骨の章」だそうです。高森顕徹会長は、片手に余るレパートリーの同じ話を繰り返すことしかできないようで、会員もさぞや退屈でしょう。

さて、前回言及した体失不体失往生の諍論について、本当はどんな内容であったのかを説明したいと思います。

まず善恵房証空上人は不体失往生を教えていなかったのかといえば、そうではありません。

『定善義他筆抄』に

此世とは、即便往生を云ひ、後生とは、当得往生を云う也。

とあります。
死んだ後の「即便往生」と、平生の「当得往生」の2つを明言しています。高森会長の言う、死んでからの救いのみを教えられたのが証空上人であるということが全くのデタラメであることがこの一文ではっきりします。

一方で『女院御書』には

他力本願をたのみて、過去の罪をも、今生の罪をも懺悔して、仏かならず迎給へと思ひて念仏せば、かならず本願にも相叶ひて臨終には仏の来迎にもあづかるべきものなり。

とあるように、臨終来迎についての言及もあります。

ところが親鸞聖人は、臨終来迎については否定的にしか仰っていません。
たとば『末灯鈔』には

来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。
(中略)
この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。

(現代語訳)

来迎は諸行往生すなわちさまざまな行を修めて浄土に往生しようとする人についていうのであり、 それは、 自力の行者だからです。 臨終の時に往生が定まるということは、 諸行往生の人についていうのであり、 それは、 まだ真実の信心を得ていないからです。 また十悪・五逆の罪を犯した人が、 臨終の時にはじめて善知識に出会い、 念仏を勧められる際にいうことなのです。 ^真実の信心を得た人は、 阿弥陀仏が摂め取ってお捨てにならないので正定聚の位に定まっています。 だから、 臨終の時まで待つ必要もありませんし、 来迎をたよりにする必要もありません。 信心が定まるとのときに往生もまた定まるのです。 来迎のための儀式を当てにする必要はありません。
(中略)
このような自力の行を修める人は、 来迎がないと辺地や胎宮や懈慢界などといわれる方便の浄土にさえ生れることができません。 だから第十九願に、 「さまざまな善を積み、 浄土に回向し、 往生したいと願う人が、 命を終えようとする時、 わたしはその人の前に現れて迎え取りましょう」 と誓われているのです。 臨終の時まで待つということと来迎により往生するということは、 このような定善や散善を修める人がいうことです。

このように、親鸞聖人は臨終来迎については、諸行往生であり、定散の機に限られるという解釈をなされています。

つまり、平生の往生を主張していたという点では、証空上人は親鸞聖人と同じではあったが、証空上人は臨終来迎に肯定的、親鸞聖人は否定的の違いがあります。

ここで、『口伝鈔』の法然上人の御言葉を見てみましょう。

善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。〈如来教法元無二〉なれども、〈正為衆生機不同〉なれば、わが根機にまかせて領解する条、宿善の厚薄によるなり。念仏往生は仏の本願なり、諸行往生は本願にあらず。念仏往生には臨終の善悪を沙汰せず、至心信楽の帰命の一心、他力より定まるとき、即得往生住不退転の道理を、善知識にあうて聞持する平生のきざみに治定するあひだ、この穢体亡失せずといへども、業事成弁すれば体失せずして往生すといはるるか。本願の文あきらかなり、かれをみるべし。つぎに諸行往生の機は臨終を期し、来迎をまちえずしては胎生辺地までも生るべからず。このゆゑにこの穢体亡失するときならでは、その期するところなきによりてそのむねをのぶるか。第十九の願にみえたり。勝劣の一段におきては、念仏往生は本願なるについて、あまねく十方衆生にわたる。諸行往生は、非本願なるによりて定散の機にかぎる。本願念仏の機の不体失往生と、非本願諸行往生の機の体失往生と、殿最懸隔にあらずや。いづれも文釈ことばにさきだちて歴然なり

先ほどの『末灯鈔』の御言葉と共通するお言葉が出てきます。

諸行往生」「第十九の願」「定心・散心の行者(=定散の機)」

そうなりますと、勘の良い方ならお判りでしょうが、

臨終まつことと来迎往生」と「体失往生」とは同じ説明になっていますので、

臨終来迎=体失往生

となります。

要するに、体失不体失往生の諍論とは、臨終来迎を認めた証空上人と臨終来迎を認めない親鸞聖人の諍いだということなのです。

不体失往生を死んでからの往生と固定してしますと、親鸞聖人は死んでからの往生を否定された方になってしまいます。この世で往生を遂げてこの世で浄土に往く、と主張されたのが親鸞聖人だということになりますが、明らかな間違いです。

高森会長には、この単純な理屈が理解できないのでしょう。

高森会長の主張を簡単にまとめると

1.親鸞聖人は体失往生(死んだ後に浄土に往生すること)を否定された
2.往生には、不体失往生と体失往生の2つがある

これが矛盾だと気が付かないから、同じ間違った話を何度も何度もするのでしょう。

念のため、正しくはこうなります。

1.親鸞聖人は体失往生(臨終来迎)を否定された
2.往生とは、平生に往生が定まり、死んだ後に浄土に往生を遂げる

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2017年6月25日 (日)

レベルが下がり続けて、言っていることが訳判らなくなった高森顕徹会長

最近の高森会長の話は、毎回同じ話の繰り返しです。18願と18願成就文を出して、

一念で絶対の幸福にしてみせると阿弥陀仏が約束しておられる

と相も変わらず愚かなことを言っています。会員が居眠りするのも当然でしょう。

本日の話で少しおもしろいのが、「往生」には「不体失往生」と「体失往生」の2つの意味があると説明したことでしょう。「体失往生」を間違いだと否定しなかったことです。要するに、「体失往生」を主張した善慧房証空上人は間違ったことを言ったのではないことを認めたのです。なぜ高森顕徹会長が「体失往生」を認めたのかは、私がそう書いたからでしょう。

信楽と正定聚との関係も判らない高森顕徹会長の信心

今頃修正したところで、アニメや著書で散々「体失往生」が間違いだと言ってきたことまでなかったことにできませんので、いつもの恥さらしです。

さて、何かの一つ覚えで言い続けている「一念」ですが、この意味も間違っています。
18願成就文の「乃至一念」は、元々は1回の念仏として、法然上人まで解釈されてきたのですが、親鸞聖人がそれを否定されたのではなくそこに信心の意味を加えられたということを

念仏往生の願の成就文に「念仏の意味はない」としか考えられない浅はかな高森顕徹会長

でも説明してきました。
ここの「一念」は、高森会長の大好きな「一瞬」「瞬間」という意味で親鸞聖人が直接仰っているのではありません。
『教行信証』信巻の

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。

を読めば判りますが、「信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。」つまりは念仏に一心になったことを仰っているのです。その説明を高森会長は絶対にしません。知らないからです。

一応言っておきますと、もちろん「一瞬」「瞬間」で頂ける信心ではありますから時剋の意味を含んではいますが、高森会長の意図としては、そんな深い御心ではなく、摩訶不思議な信心と会員に思わせることだけでしょう。

なお時剋の「一念」については、天台宗で教えられていて、真宗独自の教えではありません。天台宗や日蓮系の宗派では「一念三千」ということをよく言われますが、またもや創価学会のパクリがここでも露呈しています。

ちなみに、高森会長が最近毎回出す『口伝鈔』の

如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。

ですが、これは簡単にいうと、阿弥陀仏に救われるのに時間はかかりませんよ、ということで、

10年や20年聞いたくらいで判るものではない!
そんな簡単に救われることはない!
一生や二生で救われるものではない、多生の目的だ!

という親鸞会の教えを徹底的に否定されたお言葉なのです。

頭の鈍い会員はこう反論するでしょう。

救われるまでに時間が掛かるが、救われる時は一瞬ということだ!

それを多念と覚如上人は仰っているのです。

一応解説しておきます。

「救われるまでに時間が掛かる」が「多念」
「救われるまでに時間が掛からない」が「一念」

これでも判らないなら、小学校で国語の勉強をし直しましょう。

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2017年6月 4日 (日)

”絶対の幸福”は還相回向の話であることも当然知らない高森顕徹会長

本日も高森顕徹会長は、毎度毎度の創価学会亜流の話をしていたそうです。絶対の幸福の連呼です。
高森会長は、自らの無知を曝し続けていることが判らないほど呆けているのか。あるいは親鸞会の存亡がかかっているため恥など気にしておれないのか。いずれにしても親鸞聖人の教えとはかけ離れた話です。

高森会長は知る由もないでしょうから、親鸞聖人が3種の楽しみについて教えておられることを少し紹介しておきます。

『教行信証』証巻に『浄土論註』を引かれてこうあります。

楽に三種あり。一つには外楽、いはく五識所生の楽なり。二つには内楽、いはく初禅・二禅・三禅の意識所生の楽なり。三つには法楽楽、いはく智慧所生の楽なり。この智慧所生の楽は、仏の功徳を愛するより起れり。これは遠離我心と遠離無安衆生心と遠離自供養心と、この三種の心、清浄に増進して、略して妙楽勝真心とす。妙の言はそれ好なり。この楽は仏を縁じて生ずるをもつてのゆゑに。勝の言は三界のうちの楽に勝出せり。真の言は虚偽ならず、顛倒せざるなり。

(現代語訳)

<楽>に三種がある。一つには外楽、すなわち五識による楽しみである。二つには内楽、すなわち禅・第二禅・第三禅の禅定の意識による楽しみである。三つには法楽楽、すなわちさとりの智慧による楽しみである。この智慧による楽しみは、阿弥陀仏の功徳を願い求めることからおこるのである。自分自身に執着する心を遠く離れ、衆生を安らかにすることのない心を遠く離れ、自分自身を供養し敬愛する心を遠く離れるという、この三つが清らかに進展して一つの妙楽勝真心となる。妙とは、よいという意味である。この楽は阿弥陀仏を縁としておこるからである。勝とは、迷いの世界の楽しみに超えすぐれていることである。真とは、いつわりでなく真実にかなっていることをいうのである。

外楽」とは、五識を喜ばせる楽しみで、高森会長が言う相対の幸福と言ってもよいでしょう。
内楽」とは、精神的な楽しみですが、未だ迷いの楽しみですから、これも相対の幸福と言っていいかもしれません。
最後の「法楽楽」は、「智慧所生」とあり、無漏の智慧より生ずる楽で、説法等の音声を聞く楽しみのことです。

これが絶対の幸福だ

ともし言うのであれば、これは無漏の智慧ですから、獲信したといっても有漏の智慧しか持ち合わせていない凡夫がなれる境地ではありません。
その証拠に
遠離我心と遠離無安衆生心と遠離自供養心と、この三種の心、清浄に増進して、略して妙楽勝真心とす
と教えられています。
自分の執着心を遠く離れ、他人のことに無頓着でどうでもいいという心を遠く離れ、自分のため自分のためという心を遠く離れた楽のことです。またここは、親鸞聖人が還相回向について説明されているところで引かれていますので、浄土往生後に仏となってからの話です。

要するに、「法楽楽」とは浄土往生する前のことではありませんので、当ブログをパクって、

親鸞聖人が外楽・内楽と教えられていることを相対の幸福、法楽楽と教えられていることを絶対の幸福と言い換えただけだ

と高森会長が突如言い始めたとしても、その”絶対の幸福”は浄土往生の前にはなれないことを親鸞聖人が教えられたのですから、高森会長の間違いを証明する根拠になります。

私の予想では、それほど遠くない時期に、外楽・内楽・法楽楽の話が出ると思います。その際には、今回のエントリーを参照して、高森会長のパクリ根性を皆で指摘してあげてください。

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