”親鸞聖人の教えられた二河白道の譬え”から見る絶対の幸福
最近の親鸞会は、やたらと絶対の幸福を強調しています。大学の新入生を含めた非会員を意識しているのでしょうが、創価学会からのパクリ用語を未だに平気で使っているのですから、そのぶれない信念は尊敬に値します。
その絶対の幸福は、信後の境地として高森顕徹会長は説明していますが、親鸞聖人が信後の境地について教えられた話は、二河白道の譬えです。正確には善導大師の創られた譬え話ですが、5年前の講師部講義で、高森会長は突然に奇想天外な珍説を披露しました。
善導大師が、二河白道の譬えで「自力」だと教えられた「白道」を、親鸞聖人は「他力」と読まれた
その内容は、平成25年2月号の『顕真』にも紹介されています。
善導大師と親鸞聖人の教えられ方が違うと説明していることが間違いであることは、言うまでもありませんが、注目すべきは、
「白道」は、親鸞聖人が他力として教えられていることを高森会長が認めた
という事実です。
つまり、信後どのような境地になるのかを親鸞聖人が説明されたのが、二河白道の譬えだということになります。
したがいまして、二河白道の譬えを読めば、信後の境地である絶対の幸福なるものの本質が判る筈です。
”親鸞聖人の教えられた二河白道の譬え”では、水の河と火の河に挟まれ、二河の波のために細い細い白道が隠されて、旅人がなかなか進めない状態です。
念のため、『教行信証』信巻では
一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。
(現代語訳)
一つは火の河で南にあり、もう一つは水の河で北にある。その二つの河はそれぞれ幅が百歩で、どちらも深くて底がなく、果てしなく南北に続いている。その水の河と火の河の間に一すじの白い道がある。その幅はわずか四、五寸ほどである。水の河は道に激しく波を打ち寄せ、火の河は炎をあげて道を焼く。水と火とがかわるがわる道に襲いかかり、少しも止むことがない。
です。
ここは白道に乗る前の表現ですが、白道に乗った後も、この状態は変わっていませんので、親鸞聖人は『一念多念証文』で親鸞会でも有名な次の説明をされています。
「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば
白道に乗って白道を歩んでいる人のことを「無明煩悩われらが身にみちみちて…」と仰り、これが信後の境地と親鸞聖人が教えられている明確な根拠です。
では、高森会長の言う絶対の幸福とは、煩悩が身にみちみちて悩み煩い苦しんでいることをいうのなら辻褄があいますが、そんなつもりは毛頭ないでしょう。
要するに、絶対の幸福なんてものは、親鸞聖人の教えにはあり得ないものなのです。
次回は無碍の一道について、述べますので、高森会長も講師も会員も焦らず、まずはじっくり”親鸞聖人が他力で教えられた”二河白道の譬えを読んでみましょう。
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