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2017年5月14日 (日)

無碍の一道と絶対の幸福の違い

昨日と今日の降誕会では、「白骨の章」の話だったそうですが、無常観という真実の自己がハッキリと知らされないと救われないとか高森顕徹会長は言って、当ブログへの反論を試みたようです。もちろん、そんな根拠はありません。
また『なぜ生きる』を「平成の教行信証」と呼ばせて、高森顕徹会長は御満悦な様子で、良くできた落語のようです。

さて相変わらず、絶対の幸福の連呼をしていますが、絶対の幸福は「無碍の一道」の言い換えと妄想を膨らませているとしか言いようがありません。

まずは『歎異抄』第7条

念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと[云々]。

ここの「信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなき」ですが、これは二河白道の譬えの白道に乗った後の話と同じ内容です。

”親鸞聖人の教えられた”二河白道の譬えでは、

この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、

(現代語訳)

この人は、もはや、こちらの岸から<行け>と勧められ、向こうの岸から<来るがよい>と喚ばれるのを聞いた以上、その通りに受けとめ、少しも疑ったり恐れたり、またしりごみしたりもしないで、ためらうことなく、道をたどってまっすぐ西へ進んだ。そして少し行った時、東の岸から、盗賊などが、<おい、戻ってこい。その道は危険だ。とても向こうの岸までは行けない。間違いなく死んでしまうだろう。俺たちは何もお前を殺そうとしているわけではない>と呼ぶ。しかしこの人は、その呼び声を聞いてもふり返らず、わき目もふらずにその道を信じて進み、

です。
譬えの解説部分では、

〈あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚び回す〉といふは、すなはち別解・別行・悪見の人等、みだりに見解をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失すと説くに喩ふるなり。

(現代語訳)

<少し行くと盗賊などが呼ぶ>というのは、本願他力の教えと異なる道を歩む人や、間違った考えの人々が、<念仏の行者は勝手な考えでお互いに惑わしあい、また自分自身で罪をつくって、さとりの道からはずれ、その利益を失うであろう>とみだりに説くことをたとえたのである。

です。
絶対の幸福と言えるような特別な境地の幸福感が獲られるのではなく、親鸞会的に言うなら、信心が金剛の心になったということを例えられただけです。
その証拠にこの二河白道の譬えの前に

この心、深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。

(現代語訳)

この心は金剛のようにかたい信であるから、本願他力の教えと異なるどのような人々によっても、乱されたり砕かれたりすることはない。

とありように、信心が「動乱破壊」されないことを説明する譬えなのです。重要なのは「信心が」です。「信心以外のことが」「動乱破壊せられず」ではありません。

話を戻しますと「無碍の一道」に出た人の説明だと高森会長が言っている「信心の行者」とは、要するに、「深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。」のことであって、大安心大満足というような、特殊な幸福感とは異質のものだと言うことです。

信心の内容が理解できないでいる高森会長にはチンプンカンプンで、会員には頭が混乱する内容かもしれませんので、まとめると、

『歎異抄』第7条の「何物も障りとならない」とは信心についてのことであって、他のことについては障りだらけで、信のない人と何も変わらない

ということです。

引用の根拠が殆どない『なぜ生きる』を、膨大な引文で埋め尽くされた『教行信証』と同列に考えるようなオカルトチックな感覚では、根拠を多用する当ブログ自体を理解できなくて当然でしょうが、信後の境地とはこういうことです。

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コメント

親鸞会は出す根拠が少なくてその範囲しか見させないから、会長の勝手な解釈がもっともらしく聞こえて洗脳されるんだろな。こうして他の御文を見れば誤りなのは明白なのに

投稿: | 2017年5月15日 (月) 21時54分

飛雲様

飛雲様が出される根拠等、非常に参考になります。親鸞会にいた時(30年前から10年ほど)は親鸞会発行の本しか読みませんでした。
結婚を機に訳あって親鸞会をやめましたが、どうしても弥陀の本願念仏まではやめることができず、朝夜は電車の中で心でお勤め、昼間も思い出したときには念仏を唱える毎日でした。
そうした中で田中さんと親鸞会の法論がたまたま目に入ったこと、そして清森講師の除名の報を見聞きし、過去にやめた親鸞会に対する不信感が募り、今は飛雲で正しい真宗の教えを勉強させていただいているところです。

真宗は学問ではないとは知りつつも、
教行信証を自分の力で読んで親鸞聖人のみこころを正しく理解したいと思いが日に日に増しております。
初心者でも親鸞聖人の教えを体系的に学べる本でお薦めのものはありますでしょうか。

古文の知識も必要かと思いますが、それ以前に体系的な知識整理ができていないと、読んでも理解したと言えないかと思いますのでご教示お願いします。

投稿: 親鸞会元会員 | 2017年5月16日 (火) 09時33分

親鸞会元会員様

梯実圓師の書かれたものが、先哲の説を紹介しながら解説されているので、体系的な理解には最適かと思います。先哲の解釈が分かれているところも知った上で、聖教を読まれるとよろしいのではないかと思います。梯師を含めてどの説が正しいというのではなく、聖教理解の基礎を学ぶことが重要です。
高森説が論外以上に検討にも値しない解釈であることは、言うまでもありませんが。

投稿: 飛雲 | 2017年5月16日 (火) 10時49分

飛雲様

ご回答いただきありがとうございます。
梯実圓師の著書また読んでみたいと思います。

以前別のサイトのコメント欄に師の著書をお薦めする書き込みを見て興味を持ち立ち読みしましたが、基礎知識の不足から読むのを諦めました。師にはたくさんの著作がありますので、まずは本願のこころ、歎異抄から読み始めたいと思います。

投稿: 親鸞会元会員 | 2017年5月18日 (木) 07時56分

「ブッタのことば スッタニパータ 中村元訳」 岩波文庫p193 に、会長のことのような一節がありました。

世の学者たちはめいめいの見解に固執して互いに異なった執見を抱いて争い自ら真理への熟達者であると称して、さまざまに論ずる。
「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人であると」と。
かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人ではない」と言う。
これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真実なのであろうか?
もしも論敵の教えを承認しない人が愚者であって、低級な者であり、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて各自の偏見を固執しているのであるから、
かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。
またもしも自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。
かれらの見解はその点で等しく完全であるからである。
諸々の愚者が相互に他人に対して言うことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。
かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。
それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。
或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその見解をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」という。
このようにかれらは異なった執見をいだいて論争をする。
何故に諸々の道の人は同一のことを語らないのであろうか?
真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない。
かれらはめいめい異なった真理をほめたたえている。
それ故に諸々の道の人は同一のことを語らないのである。
みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか?
かれらは種々異なった真理を他人から聞いたのであるか?あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?
世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。
かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考究を行って、「わが説は真理である」「他人の説は虚妄である」と二つのことを説いているのである。
偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して他の説を蔑視し、自己の学説の断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。
反対者を愚者であると見なすととともに、自己を真理に達した人であるという。
かれはみずから自分を真理に達した人であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。
かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずから心のうちでは自分を賢者だと自認している。
かれのその見解は、かれによればそのように完全なものだからである。
もしも、他人が自分を愚劣だと呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その呼ぶ人自身は相手とともに愚劣な者となる。
またもしも自分でヴェーダの達人・賢者と称し得るのでのであれば、諸々の道の人のうちに愚者は一人も存在しないことになる。
「このわが説以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、不完全な人である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。
かれらは自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。
ここわが説にのみ清浄があると説き、ほかの諸々の教えには清浄がないと言う。
このように一般の諸々の徒はさまざまに執着し、かの自分の道を堅くたもって論ずる。
自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。
他の説を、「愚かである」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。
一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。
一切の哲学的断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

これらのこれらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、かれらはすべて他人からの非難を招く。
また、それについて一部の人々から称賛を博するだけである。
たとい称賛を得たとしてもそれは僅かなものであって、平安を得ることはできない。
論争の結果は称賛と非難の二つだけである、とわたくしは説く。
この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。
すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。
かれは見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。
かれはそもそもどんなこだわりに赴くのであろうか?
戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、誓戒を受けている。
「われらはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、真理に達した者と称する人々は、流転する迷いの生存に誘き込まれている。
もしも彼が戒律や誓戒を破ったならば、かれは戒律や誓戒のつとめにそむいて、おそれおののく。
それのみならず、かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。
たとえば隊商からはぐれた商人が隊商をもとめ、家から旅立った旅人が家をもとめるようなものである。
一切の戒律や誓いをも捨て、世間の罪過あり或いは罪過なきこの宗教的行為をも捨て「清浄である」とか「不浄である」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。
安らぎを固執することもなく。


投稿: | 2017年5月20日 (土) 03時35分

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