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2017年5月21日 (日)

「念仏は無碍の一道なり」が判らず否定する高森顕徹会長

本日の講師部講義で、高森顕徹会長はまたまた面白い説明をしていました。

18願を「十方衆生を相手に信楽の身にしてみせる」とするいつもの解釈の説明として、今回は銀行の融資に譬えて、

全ての日本人に対して1億円の融資

と言っていたそうです。
頓珍漢というか、無茶苦茶な譬えです。

まず、なぜ融資なのか。融資とは借金です。当然返済しなければなりません。阿弥陀仏の救いを報恩で返済しろと言いたいのでしょうか。
次に、融資が誰にでも無条件で受けられることはあり得ない話で、どうしてもそう譬えたいのなら、19願の「十方衆生」とは切り離した譬えとすべきです。親鸞聖人の『尊号真像銘文』のお言葉からすると、18願は「五逆誹謗正法」という債務超過に陥っている人にも融資をするが、19願には「五逆誹謗正法」がないので、債務超過の人は融資対象から除かれているとしなければならないからです。
それに、以前の譬えは選挙公約の税金の話だった筈です。もし当選したら税金を撤廃する、あるいは税金を還付する、という公約で譬えていたのですが、これも19願の「十方衆生」との関連で、税金(特に所得税)は払っている人には関係があるが、元々払っていない人には関係ないと私が言ったことで、こっそり修正したつもりなのでしょう。

今までの話を修正するのは結構なことですが、より悪い方向に変えているようでは、話にもなりません。これが、会員に無二の善知識と呼ばせている高森会長の実態です。

さて、今回も絶対の幸福の強調をしていましたが、無碍の一道についてもう少し説明しておきます。

元々は『浄土論註』のお言葉ですが、それを親鸞聖人は『教行信証』行巻に引かれています。

いま〈速得阿耨多羅三藐三菩提〉といへるは、これはやく仏になることを得たまへるなり。〈阿〉をば無に名づく、〈耨多羅〉をば上に名づく、〈三藐〉をば正に名づく、〈三〉をば遍に名づく〈菩提〉をば道に名づく、統ねてこれを訳して、名づけて無上正遍道とす。
(中略)
道は無碍道なり。『経』(華厳経)にいはく、〈十方の無碍人、一道より生死を出でたまへり〉と。〈一道〉は、一無碍道なり。無碍は、いはく、生死すなはちこれ涅槃なりと知るなり。

(現代語訳)

いま<速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得られた>といっているのは、法蔵菩薩が速やかに阿弥陀仏になられたことをいう。<阿>は無と訳し、<耨多羅>は上と訳し、<三藐>は正と訳し、<三>は遍と訳し、<菩提>は道と訳す。まとめてこれを訳すと無上正遍道という。
(中略)
<道>とは、無礙道である。『華厳経』に<すべての世界の無礙人である仏がたは、ただ一つの道によって迷いを出られた>と説かれている。<ただ一つの道>とは、ただ一つの無礙の道のことである。<無礙>とは、迷いとさとりとが本来別なものではないとさとることである。

結論を言うと、無碍人である仏方は、ただ一つの道である念仏によって迷いを出られ仏になられたことを、無碍の一道と親鸞聖人は仰っているのです。

したがいまして、『歎異抄』第7条の

念仏者は無碍の一道なり

は本来の意味では

念仏は無碍の一道なり

であったのを、親鸞聖人が「念仏者は」と敢えて仰ったのか、それとも『歎異抄』の著者が「念仏は」を「念仏者は」と書き間違えたのか、或いは『歎異抄』の原本が残っていないので、書写される過程で間違ったのか、そこは明確にはなっておりません。

いずれにしましても、絶対の幸福なる意味が全くないどころか、高森会長が必死で否定する「ただ念仏」、つまり獲信も往生も成仏にも善が全く不要である根拠にしかならないのです。

高森会長も教えを修正するなら、まずは善の否定からでしょうが、それは教団存続のためには絶対にしないでしょう。そんな高森会長の強欲に振り回されて、同朋の里に映画館まで建てさせられる会員は、哀れとしか言い様がありません。

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コメント

先日ほんと久しぶりに本屋に入って真宗関係の本を買ってみようと装丁のまともそうな本を手に取って買ったんですが家に帰ってよく見るとなんと1万年堂出版。
くそっ!やられたーと憤慨し本屋に戻って他の本に交換してもらいました。
よく見ると真宗コーナーの棚には親鸞会の本ばかり。強い近眼なので気が付きませんでした。
事業意欲の旺盛な団体ほどあ~やって世間にはびこり一般人が接触してしまう機会が多いんだなあと。
そして自分がかつて親鸞会に会った時のことを思い出し、あの時もそうだった、あの時点ではまともなものに見えていたからだったと引っ掛けられた原理を認識しました。

投稿: | 2017年5月28日 (日) 10時47分

昔は100万円をよこせば利子付けて返すなどと言ってましたねえ。
なにかにつけ教えをカネに換算しようとする。
会長は人間じゃない可能性があります。
カネゴンが人間に化けているのかもしれません。

投稿: | 2017年5月31日 (水) 08時00分

阿弥陀仏の正覚は我々のためのもの。
我々凡夫がなければ、阿弥陀仏もない。
我々は阿弥陀仏のスポンサー。

投稿: | 2017年6月 3日 (土) 00時42分

http://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20151201tadahongannomizo.htm

ただ念仏のみぞまことと書いてあるのに、本願のみぞと書き換える親鸞会
よほど念仏が嫌いと見える

投稿: | 2017年6月 6日 (火) 15時52分

名無し様

高森会長の考えでは、親鸞聖人が念仏と仰ったものは本願のこと、信前の諸善は勧めても信前の念仏は勧めない、で一貫しています。
念仏は、信心のオマケであり、称えなくてもよいもの、という認識しかないのでしょう。

投稿: 飛雲 | 2017年6月 6日 (火) 16時40分

Abcです。

飛雲さんが申されていることに関してコメントさせていただきたくこうして筆を執っている次第でございます。

予め申しておきますが、私自身が「飛雲さんのここが違う!!」と言いたいわけではないことをここで記しておきます。

>したがいまして、『歎異抄』第7条の

>念仏者は無碍の一道なり
>
>は本来の意味では
>
>念仏は無碍の一道なり
>
>であったのを、親鸞聖人が「念仏者は」と敢えて仰ったのか、そ>れとも『歎異抄』の著者が「念仏は」を「念仏者は」と書き間違>えたのか、或いは『歎異抄』の原本が残っていないので、書写さ>れる過程で間違ったのか、そこは明確にはなっておりません。

「歎異抄」は善信上人のとも同朋である唯円房が記されたものとされており原本は仰せの通りであります。

  念仏「者」は無碍の一道なり 
  (乃至) 信心の行者には、天神・地祇も敬伏し (云々)

ここで、飛雲さんが申されている「念仏は無碍の一道なり」を踏まえたうえで、私は次の「信心の行者には、天神・地祇も敬伏し」につなげるために敢えて「行者」の「者」を入れたのではを私は推察いたします。

  一向専念無量寿仏の教えに生きるもの(行者)は、
  無量寿仏(無碍光)がお作りになられた
  一道に生きるのである。 (中略)
  その一道に生きるものは、天の神も地の祇(地の神)も
  敬い伏し (後略)

上の書き下し分に関しては、私の考察が存分に盛り込まれていますので飛雲さんを始め、他の方々のご指摘があるものと存じますが、そのご指摘を今後の楽しみとして今回の私としての考察を終えさせていただきます。

 世尊(釈迦)はわれわれに一心に
 「さなざまなところに尽きることなく弘まる
  「無碍光(障碍なき光明(おちから))」に
  二心なくただ信心(念仏)のうちに
  帰命(南無)[帰命は震旦の語であり、
  南無は天竺の語である]し、
  願(本願力廻向)に依りて、
  安楽国(真仏浄土)に生まれよ。

  天親(世親)、「願生偈(浄土論 内)」に是を記す。

Abc

投稿: Abc | 2017年7月31日 (月) 23時14分

Abc様

これに関しては、いずれの説が正しいとは言っていませんし、特定できるものではないと考えています。

そういうつもりでエントリーに書きました。

投稿: 飛雲 | 2017年8月 1日 (火) 07時11分

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