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2017年4月23日 (日)

教えを徹底的に捻じ曲げて、会員を騙すこと以外考えていない外道の親玉高森顕徹会長

本日の講師部講義では、驚くことを高森顕徹会長は言っていました。

木像や絵像は「人」、名号は「法」と教えられる。人は滅ぶが法は三世十方を貫く。

その根拠が釈尊の「法に依りて人に依らざれ」のお言葉だと。

木像と絵像がやがて滅びる人だというのもびっくりですが、釈尊のお言葉の使い方も全く違います。

こんな酷い話を誰かが助言して考えたのか高森会長が一人で思いついたのか知りませんが、ただただ驚嘆します。

まず、木像と絵像は、阿弥陀仏ですから、滅びる意味として人と表現すること自体が仏教徒として考えられない発想です。

親鸞聖人は『一念多念証文』で

この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり。

(現代語訳)

この一実真如の大宝海からすがたをあらわし、 法蔵菩薩と名乗られて、 何ものにもさまたげられることなく衆生を救う尊い誓願をおこされた。 その誓願を因として阿弥陀仏となられたのであるから、 阿弥陀仏のことを報身如来というのである。 この如来を、 世親菩薩は尽十方無礙光仏とお名づけ申しあげられたのである。 この如来を南無不可思議光仏ともいう。 そして、 この如来を方便法身というのである。 方便というのは、 すがたをあらわし、 み名を示して、 衆生にお知らせくださることをいうのである。 すなわちそれが阿弥陀仏なのである。

と教えておられます。木像も絵像も、「方便法身」です。

親鸞会では「方便」を訳の判らない説明をしていますが、色も形もない真如を理解できない我らに、認識できるように表現されることを「方便法身」と言われ、それが阿弥陀仏であり、木像であり、絵像なのです。

参考までに『教行信証』証巻では『浄土論註』を引かれて

諸仏菩薩に二種の法身あり。一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同じかるべからず。

(現代語訳)

仏や菩薩がたには二種の法身がある。一つには法性法身であり、二つには方便法身である。法性法身によって方便法身を生じ、方便法身によって法性法身をあらわす。この二種の法身は、異なってはいるが分けることはできない。一つではあるが同じとすることはできない。

と説明なされています。木像も絵像という「方便法身によりて法性法身を出す」のです。

阿弥陀仏を誹謗していることさえ厭わない、この外道的発言に、怒りを感じない会員もまた外道の信者なのでしょう。

もう一つ、「法に依りて人に依らざれ」ですが、これは釈尊が涅槃に入られた後、どうすべきかを釈尊が仰ったお言葉なのですが、「」という釈尊の教えに従うのであって、教えを伝えている「」に従うのではない、ということなのです。もう少し判り易く言うと、聖教に従うのであって、善知識の言うことに従うのではない、ということです。詳しくは過去に

法に依りて人に依らざるべし

で書いていますので、そちらをご覧ください。

それにしても「法に依りて人に依らざれ」は、

「親鸞会教義の誤り」
善知識には無条件服従しなければならないのか 3

で初めて出てきた根拠ですので、「親鸞会教義の誤り」か当ブログのどちらかを高森会長がパクったことは疑う余地のないことです。

使えるものは、どんなに捻じ曲げてでも利用して会員を騙してやれ、との高森会長の徹底した姿勢に、仏教徒の欠片も感じられません。外道の親玉としか言いようがありません。

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コメント

人は滅びゆくもの、法は永遠に残るもの、こういう違いがあるそうです。
確かに木像や絵像はいつか滅びます。いやいや紙である名号も滅びますよ、と何人かは思ってたはずです。
そして阿弥陀仏を滅びゆく人と同じように扱うなんて、思っても口に出せないのでしょう。
こういう時、会員は、たとえは一部を表しているだけで全部をあらわしているわけではないから、そういう理解をするのは間違い、正しい本尊は名号で、人と法が全然違うということだけ理解していればいいんだ、といい聞かせられます。

投稿: | 2017年4月23日 (日) 23時59分

名無し様

たとえが根本的におかしいのですが、人に依りて法に依らざれ、の親鸞会会員は高森会長を基として法を曲げて忖度するので、今回のエントリーも理解できないでしょう。

投稿: 飛雲 | 2017年4月24日 (月) 21時48分

頓珍漢過ぎる解釈で空いた口が塞がりません。洗脳とは恐ろしい

投稿: | 2017年4月24日 (月) 22時07分

安心論題に「所帰人法」というのがありますが、その場合の「人」は阿弥陀仏のことです。勧学寮から出ている『安心論題綱要』をご覧ください。阿弥陀仏を「人」と呼称するのは恐らく二河譬に基づいているのでしょう。他方「法に依りて人に依らざれ」を本尊論に持ってくる論法には、あきれ果てて言うべき言葉がありません。真宗学の知識がないという以前に、大学生レベルの基礎学力の欠如を感じます。

投稿: | 2017年4月26日 (水) 16時36分

最後の名無し様

コメント有難うございます。
仰りたいことはよく判りました。ただし、今問題としているところは、最初の名無しさんも書かれているように、滅びる存在としての「人」とたとえていることです。
二河白道の譬えなどで、阿弥陀仏を「人」として譬えることはよくありますが、その「人」は形状としての「人」です。滅びる存在としての「人」ではありませんので、そこを分けて考える必要があります。私の言葉足らずのところもあったと思いますので、言葉を加えておきました。

投稿: 飛雲 | 2017年4月26日 (水) 16時49分

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