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2017年4月

2017年4月26日 (水)

念仏往生の願の成就文に「念仏の意味はない」としか考えられない浅はかな高森顕徹会長

前回のエントリーについて、言葉が不足していて判りにくかったと思いますので、少し言葉を加えておきました。

さて、先日の講師部講義で18願成就文について強調していましたが、18願も判らないのに18願成就文の意味など高森顕徹会長に判るはずもないです。

基本的なこととして、存覚上人の『真要鈔』を紹介しておきます。

しかのみならず、おなじき第十八の願成就の文にいはく、「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」といへり。この文のこころは、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜し、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す」となり。こころは、「一切の衆生、無礙光如来の名をきき得て、生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべしと、よろこびおもふこころの一念おこるとき往生は定まるなり。これすなはち弥陀如来、因位のむかし、至心に回向したまへりしゆゑなり」となり。この一念について隠顕の義あり。顕には、十念に対するとき一念といふは称名の一念なり。隠には、真因を決了する安心の一念なり。これすなはち相好・光明等の功徳を観想する念にあらず、ただかの如来の名号をきき得て、機教の分限をおもひ定むる位をさすなり。されば親鸞聖人はこの一念を釈すとして、「一念といふは信心を獲得する時節の極促を顕す」と判じたまへり。

高森会長が最も拘っている「一念」について、「隠顕の義」があると仰っています。表面上に説かれていることは「称名の一念」、隠された部分が「安心の一念」だということです。重要なことは、「称名の一念」の意味があるということです。
なお、18願成就文の「信心」について存覚上人は「生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべし」と仰っています。
念仏と信心との関係が実によく判る箇所です。

では、親鸞聖人が18願成就文で「称名の一念」の義について仰っているところがあるのか、との疑問が生じるでしょうが、それは『浄土文類聚鈔』と『三経往生文類』にあります。

まず『浄土文類聚鈔』には

行といふは、すなはち利他円満の大行なり。すなはちこれ、諸仏咨嗟の願(第十七願)より出でたり。また諸仏称名の願と名づけ、また往相正業の願と名づくべし。しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相について大行あり、また浄信あり。大行といふは、すなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はあまねく一切の行を摂し、極速円満す。ゆゑに大行と名づく。このゆゑに称名はよく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはち憶念なり、憶念はすなはち念仏なり、念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。
願(第十七・十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳、不可思議にましますことを讃嘆したまふ。諸有の衆生、その名号を聞きて、信心歓喜し乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す」と。

とあります。行の説明に18願成就文を引かれています。
もう一つ『三経往生文類』にも

この如来の往相回向につきて、真実の行業あり。すなはち諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。称名の悲願は『大無量寿経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟しわが名を称せずは、正覚を取らじ」と。[文]
称名・信楽の悲願(第十七・十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳、不可思議なるを讃嘆したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜して乃至一念せん。至心回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するを除く」と。

とあります。同じく行の説明に18願成就文が引かれています。

簡単なことで、18願は念仏往生の願ですから、18願成就文は念仏往生の願成就文です。18願に信心と念仏が誓われているのと同様に、その成就文にも信心と念仏両方があります。なぜなら、「生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべし」が信心なのですから。

摩訶不思議な体験を信心と勘違いしているうちは、以上のことが永久に理解できないでしょう。

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2017年4月23日 (日)

教えを徹底的に捻じ曲げて、会員を騙すこと以外考えていない外道の親玉高森顕徹会長

本日の講師部講義では、驚くことを高森顕徹会長は言っていました。

木像や絵像は「人」、名号は「法」と教えられる。人は滅ぶが法は三世十方を貫く。

その根拠が釈尊の「法に依りて人に依らざれ」のお言葉だと。

木像と絵像がやがて滅びる人だというのもびっくりですが、釈尊のお言葉の使い方も全く違います。

こんな酷い話を誰かが助言して考えたのか高森会長が一人で思いついたのか知りませんが、ただただ驚嘆します。

まず、木像と絵像は、阿弥陀仏ですから、滅びる意味として人と表現すること自体が仏教徒として考えられない発想です。

親鸞聖人は『一念多念証文』で

この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり。

(現代語訳)

この一実真如の大宝海からすがたをあらわし、 法蔵菩薩と名乗られて、 何ものにもさまたげられることなく衆生を救う尊い誓願をおこされた。 その誓願を因として阿弥陀仏となられたのであるから、 阿弥陀仏のことを報身如来というのである。 この如来を、 世親菩薩は尽十方無礙光仏とお名づけ申しあげられたのである。 この如来を南無不可思議光仏ともいう。 そして、 この如来を方便法身というのである。 方便というのは、 すがたをあらわし、 み名を示して、 衆生にお知らせくださることをいうのである。 すなわちそれが阿弥陀仏なのである。

と教えておられます。木像も絵像も、「方便法身」です。

親鸞会では「方便」を訳の判らない説明をしていますが、色も形もない真如を理解できない我らに、認識できるように表現されることを「方便法身」と言われ、それが阿弥陀仏であり、木像であり、絵像なのです。

参考までに『教行信証』証巻では『浄土論註』を引かれて

諸仏菩薩に二種の法身あり。一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同じかるべからず。

(現代語訳)

仏や菩薩がたには二種の法身がある。一つには法性法身であり、二つには方便法身である。法性法身によって方便法身を生じ、方便法身によって法性法身をあらわす。この二種の法身は、異なってはいるが分けることはできない。一つではあるが同じとすることはできない。

と説明なされています。木像も絵像という「方便法身によりて法性法身を出す」のです。

阿弥陀仏を誹謗していることさえ厭わない、この外道的発言に、怒りを感じない会員もまた外道の信者なのでしょう。

もう一つ、「法に依りて人に依らざれ」ですが、これは釈尊が涅槃に入られた後、どうすべきかを釈尊が仰ったお言葉なのですが、「」という釈尊の教えに従うのであって、教えを伝えている「」に従うのではない、ということなのです。もう少し判り易く言うと、聖教に従うのであって、善知識の言うことに従うのではない、ということです。詳しくは過去に

法に依りて人に依らざるべし

で書いていますので、そちらをご覧ください。

それにしても「法に依りて人に依らざれ」は、

「親鸞会教義の誤り」
善知識には無条件服従しなければならないのか 3

で初めて出てきた根拠ですので、「親鸞会教義の誤り」か当ブログのどちらかを高森会長がパクったことは疑う余地のないことです。

使えるものは、どんなに捻じ曲げてでも利用して会員を騙してやれ、との高森会長の徹底した姿勢に、仏教徒の欠片も感じられません。外道の親玉としか言いようがありません。

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2017年4月 7日 (金)

無常と罪悪にせめ立てられてマインドコントロールされた高森会会員

最近の親鸞会は、映画への拘りが異常です。会員と会員が誘った人しか見ていない映画を、ロングセラーだと言って会員に宣伝するその感覚も異常です。教義は高森顕徹会長が創るものであり、親鸞聖人の名前を単に借りただけとも、会員は気が付いているでしょう。それでも会員を続けざるを得ない精神状態に追い込まれている、まさにマインドコントロールです。それは何によってか、無常と罪悪にせめ立てられて

さて、無常観と罪悪観に関しては、今年の年頭所感に高森会長がこんなことを書いています。

 親鸞聖人が七高僧の一人に挙げられる、道綽禅師の『安楽集』に、こんな例話が説かれている。
「旅人が、果てしない荒野を一人で歩いていると、後ろから刀を振りかざす怨賊が、殺そうと追いかけて来る。
 一目散に逃げる前方には、大河があって進めない。そこで旅人は大いに迷う。
『あの河にぶつかったら、着物を脱いで渡ろうか、着たまま泳ごうか。脱いで渡ろうとすれば、堅く締まった帯が解けず、迫る危機に間に合わない。脱がずに飛び込めば、泳げぬから沈むだけ』
 そんな時、ただ大河を渡る方法だけを考えて外は何も考えない。
 弥陀の救いを求める時も同じこと。河の大事に一心専念して、外のことは一瞬として考えないのである」
 これは何を例えられたものなのか。
 旅人の後ろから、剣を抜き殺そうと追いかけてくる怨賊とは、刻々と我々に迫る激しい無常の嵐のことである。
 必死に逃げる前方には、怒涛逆巻く大河が現れて進めない。
 そこで旅人は、着物を脱いで渡ろうか、着たまま飛び込もうか、と大混乱する。
 着物を脱いで渡ろうとすれば、堅く締まって帯が解けず、危機に間に合わない。着たまま河に飛び込めば、泳げないから溺れ死ぬだけ。絶体絶命に追い込まれる。
 帯が堅く締まっていて着物が脱げないとは、重い罪悪に苦しんでいる様を例えられたものである。
 この旅人のように”無常と罪悪にせめ立てられて、仏法は聞きなさいよ”と教誡された道綽禅師の例えである。

前半は概ね正しいですが、高森会長の解説は間違いです。
まずは原文を見てみましょう。

 また問ひていはく、いま勧めによりて念仏三昧を行ぜんと欲す。 いまだ知らず、計念の相状はなににか似たる。
 答へていはく、たとへば人ありて空曠のはるかなる処において、怨賊の刀を抜き勇を奮ひてただちに来りて殺さんと欲するに値遇す。 この人ただちに走るに、一の河を度らんとするを視る。 いまだ河に到るに及ばざるに、すなはちこの念をなす。
「われ河の岸に至らば、衣を脱ぎて渡るとやせん、衣を着て浮ぶとやせん。 もし衣を脱ぎて渡らば、ただおそらくは暇なからん。 もし衣を着て浮ばば、またおそらくは首領全くしがたからん」と。
 その時、ただ一心に河を渡る方便をなすことのみありて、余の心想間雑することなきがごとし。 行者もまたしかなり。
 阿弥陀仏を念ずる時、またかの人の渡ることのみを念じて、念々あひ次いで余の心想間雑することなきがごとし。 あるいは仏の法身を念じ、あるいは仏の神力を念じ、あるいは仏の智慧を念じ、あるいは仏の毫相を念じ、あるいは仏の相好を念じ、あるいは仏の本願を念ず。 名を称することもまたしかなり。 ただよく専至に相続して断えざれば、さだめて仏前に生ず。

(現代語訳)

 また問うていう。 今、 勧めによって、 念仏三昧を行じようと思うが、 その念仏の相状はどのようであるか。
 答えていう。 たとえば、 人が広々とした所において、 恐ろしい賊が刀を抜き、 勇をふるってまっすぐに襲い来り殺そうとするのに値あうとする。 この人はただちに走って、 渡らねばならぬ一つの河があるのを見た。 まだ河に到らぬうちに、 こういう思いをした。 わたしは、 河の岸についたならば、 衣を脱いでわたろうか、 衣をきて泳ごうか。 もし衣を脱いで渡ろうとすれば、 恐らく暇がないであろう。 もし衣をつけたままで泳ごうとすれば、 またおそらく溺れるであろうと。 その時にはただ一心に河を渡る方法を考えるばかりで、 ほかの思いのまじわることがないようなものである。
 行者もまたそのとおりである。 阿弥陀仏を念ずる時も、 かの人が河を渡ることを思って念々に相続し、 ほかの思いをまじえないように、 あるいは仏の法身を念じ、 あるいは仏の威神力を念じ、 あるいは仏の智慧を念じ、 あるいは仏の白毫相を念じ、 あるいは仏の相好を念じ、 あるいは仏の本願を念じて称名する場合もそのとおりである。 ただよくもっぱら相続して絶えなかったならば、 まちがいなく仏の前に生れる。

道綽禅師が仰っていることは、念仏三昧を行じる上での相状、つまり心のことを仰ったものです。それは高森会長の言葉を使えば、「ただ大河を渡る方法だけを考えて外は何も考えない。」です。つまり、往生する方法だけを考えて外は何も考えない、状態の念仏が念仏三昧の相状だということなのです。

”無常と罪悪にせめ立てられて、仏法は聞きなさいよ”

の意味はありません。
道綽禅師の結論は

名を称することもまたしかなり。 ただよく専至に相続して断えざれば、さだめて仏前に生ず。

で、念仏に専念し相続すれば、浄土に往生できます、ということです。言葉を換えると、念仏一行と一心になりなさい、と道綽禅師が勧められている内容なのです。

日頃使わない根拠を出して、得意満面なのかもしれませんが、高森会長の主張を破邪する根拠でしかないのです。大沼法竜師の著書をパクって、『会報』にも載せていますが、意味も意図も判らず恥さらしを再現しているところが、無知の高森会長らしいところです。

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