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2017年2月16日 (木)

高森秘事の二河白道の譬え話

信前信後で、何が変わって何が変わらないのかがよく判る話が、二河白道の譬喩です。この譬喩が、高森顕徹会長が話している内容とはかなり違うことを、これまで何度も述べてきました。

高森会長は、白道についての私の非難に反論するために、善導大師と親鸞聖人とは教えられた方が違うとか、おもしろいことを言ったこともありますが、言うまでもなく御二方の譬え話は同じです。

信前信後の話に絞って言いますと、三定死を迎えるのは、東の岸にいる時であり、西の岸にいる人の喚び声を聞くのも東の岸にいる時です。したがいまして、信前信後の違いは、東の岸にいるか白道に乗ったかの違いです。ここで、白道に乗ったこと以外に何かが変わったかどうかです。

・旅人の姿は変わらない。
・東の岸も変わらない。
・白道は四五寸のまま変わらない。
・水の河と火の河も変わらない。
・群賊悪獣悪知識も変わらない。
・東の岸と西の岸の距離も変わらない。
・西の岸も変わらない。
・東の岸の人も変わらない。
・西の岸の人も変わらない。
・西の岸の人から新たな喚び声はない。

要するに、白道に乗ったこと以外には、何も変わらないということです。
そうなると、救われてハッキリするのは、白道に乗ったこと、つまり他力の信心を頂いたことだけで、他にはハッキリすることが何もないということになります。

これは前回の『執持鈔』と同じです。思慮の浅い親鸞会会員は、信後は西の岸が見えるではないか、と反論するかもしれませんが、それは東の岸にいた時と同じ見え方です。

結局、往生一定といっても、白道に乗ったこと、つまりは阿弥陀仏の喚び声に従う以上でも以下でもないということです。善導大師、親鸞聖人が二河白道の譬喩でそのように教えておられるのですから、これ以上屁理屈のつけようがありません。

善導大師、親鸞聖人の譬え話そのままでも、信前信後はこの違いしかないのですが、高森会長のいう白道の途中で信前信後が分かれるとなると、信前信後には違いが何もないことになります。白道の途中で西の岸の人が新たな喚び声を出されていませんし、白道も変わりませんので、何も変化がない、つまりは何一つハッキリすることがないことになります。高森秘事の譬え話では、信前信後の水際がハッキリすることなどない曖昧なものにしかなりません。

高森会長の言っている驚天動地の変化を言いたいのなら、せめて

・白道の四五寸が広い広い大道に変わった。
・水の河と火の河が白道を隠すことがなくなった。
・西の岸が光り輝いてよく見えるようになった。

くらいの大胆な改竄をして言わないと辻褄が合いません。尤もこれに近いことを高森会長は過去に言ったこともありましたので、善導大師、親鸞聖人の譬え話とは大きく異なったオリジナルの譬え話を高森会長が創作したのだといえます。まあ、創作をしたというよりは、寧ろ、善導大師、親鸞聖人の譬え話を知らなくて、適当なことを言っただけでしょう。

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コメント

広い大道に変わったという譬えは人づてに聞いたことがあります。お聖教を見ても対応する記載が無いな?と思っていましたが、やはり創作だったのですね、さすがはインチキ教祖様です。

投稿: | 2017年2月18日 (土) 22時16分

「随喜同業」というのを親鸞会でよく聞きましたね。他人が殺生しているのを見て喜ぶというネガティブな説明だったとおもいます。

しかし検索しても親鸞会関係でしか出てこない。
「随喜」なら、「他人のなす善を見て、これに従い、喜びの心を生じること。」というように全く反対の良い意味の説明で多く出てきます。
これなんかも捏造なんでしょう。

投稿: | 2017年2月18日 (土) 22時59分

随喜同業も捏造です。

投稿: 飛雲 | 2017年2月19日 (日) 06時54分

…まずはお詫びから。前回のコメントでお返事をいただいたのに、お礼を失念しておりました。失礼致しました。

>随喜同業も捏造です。

不躾な言い方になってしまいますが、まるっきりの「捏造」なのですか?確かその前にあった
「自殺(自ら手にかけて殺すこと)」「他殺(他人に命じて殺させること)」
とかいうのも含めてでしょうか(教学テキストの内容はあまり覚えていないのですが…。)?
私はてっきり例によって大沼師か誰かの著書、或いは「絶対の幸福」などと同様創価学会の本からパクってきたのかと
思っていたのですが…(確認したわけではないので何とも言えませんが)。
しかし、捏造だとしたら、その捏造の文章を真面目に覚え、そして信じていた私やその他の多くの元会員の方々は一体…。
本当に、以前も述べたように、組織の不正や腐敗を知ったときも幻滅しましたが、教義の間違いを知ったときの衝撃や虚しさの方がずっと大きかったです。そのくせ、会長や講師部員達はそれをまるで認める気がないようで、全く理解に苦しみます。いや、そもそもあの人達は自分で自分の説いている教えの内容を信じているんでしょうか?自分達が広めているのが「親鸞聖人の真実の御教え」だと本気で思っているのでしょうか?その点からしてもう疑問符がついてしまっています。私の中では…。

投稿: あずきあらい | 2017年2月23日 (木) 23時36分

随喜同業

高森親鸞会で、何故か発刊中止になった「会報1集」等に、

 仏教では殺し方によって、自殺、他殺、随喜同業の三種に分けるが、共に怖るべき殺生罪とする。

とありますが、多分『般舟讃』を解釈した談義本か何かから、意味も判らずに語句だけ切り出して写したのかもです。写したのを誤魔化す為に少し語句を変えていたのかも。
『般舟讃』には、

 あるいは故殺・ 誤殺・戯笑殺・自殺・教他殺・随喜殺・相続殺・無間殺・愛憎違順殺・放逸殺・貪味為財殺、かくのごとき等の殺の罪無量無辺なり。いま道場の凡聖に対 して発露懺悔す。永く尽して余なからん。懺悔しをはりて、心を至して阿弥陀 仏に帰命したてまつる。p.577

とあり、ここの「随喜殺」を随喜同業と変えたのでしょう。
ここでは懺悔行を説いているのであり、主題は「心を至して阿弥陀 仏に帰命したてまつる」なのですが、切文で語るから騙りになるのでした。

称仏六字 即嘆仏即懺悔

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%B3%95%E4%BA%8B%E8%AE%83_(%E4%B8%83%E7%A5%96)#P--577

投稿: 林遊@なんまんだぶ | 2017年2月24日 (金) 15時24分

あずきあらい 様

捏造というのは、高森会長が創作したということではないです。確証はありませんが、大沼師か誰かの本からの盗作と想像しています。

林遊 様

解説有難うございます。ただ、高森会長が『般舟讃』を読んでいることはありえないので、どこからかの盗作と思っています。

投稿: 飛雲 | 2017年2月24日 (金) 17時44分

飛雲様、林遊様

ありがとうございます。

…やはりそんなところですか。このブログやその他のところでいろんな話を聞く限り、高森会長という人には一から創作する程の知識も
根性(?)もないように感じられたので、「これもどうせまたどこかからパクったんだろうな…」みたいに思ってしまったのでした。
こんな事を言えば会長も会員も怒るでしょうが、違うというなら、飛雲さんやその他の皆さんから申し込まれている法論にきちんと応じて、自分の言葉で、
何もパクらないで明確に答えてみせればいいのです。それも出来ずに「唯一無二の善知識」と言われても…。

投稿: あずきあらい | 2017年2月25日 (土) 00時06分

そういえば「親切」の語源を親を切るほど難しい、などというきちがいじみたことも言ってました。

検索すると
http://gogen-allguide.com/si/shinsetsu.html

『親切は「親を切る」という意味ではない。
「親」は「親しい」「身近に接する」という意味で、「切」は刃物をじかに当てるように
「身近である」、「行き届く」と言う意味がある。
つまり、身近に寄り添い、行き届くようにすることが「親切」の意味である。』

カルト宗教は子供を家族から引き離し家庭崩壊させる特性がある。
「親切」の説明も高森会のカルト性の表れでしょう。

投稿: | 2017年3月 1日 (水) 20時58分

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