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2017年2月

2017年2月26日 (日)

高森顕徹会長の解釈は、教え以前に国語の問題で躓いている

同朋の里に映画館を造るという話が出ているようですが、これは明らかに金集めの手段です。未だに各地に会館を建て続けていますが、そうしてまで強引な金集めをしなければ回らないほど、金銭的に逼迫していることが判ります。会員も年々酷くなる金集めに、退会者にまで愚痴を言いふらす程です。

さて、本日の高森顕徹会長の話は、予想通りと言いましょうか、単純といいましょうか、「若不生者」の「」に絡んだ話でした。

当ブログを通して読まれている方ならお判りでしょうが、「若不生者」に関しては殆ど言及してきませんでした。昨年末になって初めてまともに言及したくらいですが、その理由は、他の邪義が余りにも酷過ぎることと、高森会長の「若不生者」の解釈は教えの間違いというよりも日本語の間違いという低レベルの話だからです。

一応復習しておきますと、「若不生者」について親鸞聖人の解釈は、『尊号真像銘文』の

至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは

ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは

と『唯信鈔文意』の

「来迎」といふは、「来」は浄土へきたらしむといふ、これすなはち若不生者のちかひをあらはす御のりなり。

で終わりです。

至心信楽をえたるひと、信楽にもし生れずは

では意味が判りません。二河白道の譬喩でも

信楽の心で念仏して浄土に生まれさせる

としかなりませんので、

信楽の心で念仏して信楽に生まれさせる

では文章にならないのです。

では現益の意味がないのかと言われれば、親鸞聖人は直接仰ってはいませんが、それも含められていると言ってもよい程度の話です。
しかし、現益でいうにしても、

至心信楽をえたるひと、信楽にもし生れずは
信楽の心で念仏して信楽に生まれさせる

には成りようがありません。国語の問題であって、教えの問題ではありません。ここで議論するのが馬鹿らしくなるレベルですから、これまで言及をしてこなかったのです。

そんな低レベルの話を、修正することもせずに、意地になって言い続ける高森会長の人格が知れるというものです。

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2017年2月16日 (木)

高森秘事の二河白道の譬え話

信前信後で、何が変わって何が変わらないのかがよく判る話が、二河白道の譬喩です。この譬喩が、高森顕徹会長が話している内容とはかなり違うことを、これまで何度も述べてきました。

高森会長は、白道についての私の非難に反論するために、善導大師と親鸞聖人とは教えられた方が違うとか、おもしろいことを言ったこともありますが、言うまでもなく御二方の譬え話は同じです。

信前信後の話に絞って言いますと、三定死を迎えるのは、東の岸にいる時であり、西の岸にいる人の喚び声を聞くのも東の岸にいる時です。したがいまして、信前信後の違いは、東の岸にいるか白道に乗ったかの違いです。ここで、白道に乗ったこと以外に何かが変わったかどうかです。

・旅人の姿は変わらない。
・東の岸も変わらない。
・白道は四五寸のまま変わらない。
・水の河と火の河も変わらない。
・群賊悪獣悪知識も変わらない。
・東の岸と西の岸の距離も変わらない。
・西の岸も変わらない。
・東の岸の人も変わらない。
・西の岸の人も変わらない。
・西の岸の人から新たな喚び声はない。

要するに、白道に乗ったこと以外には、何も変わらないということです。
そうなると、救われてハッキリするのは、白道に乗ったこと、つまり他力の信心を頂いたことだけで、他にはハッキリすることが何もないということになります。

これは前回の『執持鈔』と同じです。思慮の浅い親鸞会会員は、信後は西の岸が見えるではないか、と反論するかもしれませんが、それは東の岸にいた時と同じ見え方です。

結局、往生一定といっても、白道に乗ったこと、つまりは阿弥陀仏の喚び声に従う以上でも以下でもないということです。善導大師、親鸞聖人が二河白道の譬喩でそのように教えておられるのですから、これ以上屁理屈のつけようがありません。

善導大師、親鸞聖人の譬え話そのままでも、信前信後はこの違いしかないのですが、高森会長のいう白道の途中で信前信後が分かれるとなると、信前信後には違いが何もないことになります。白道の途中で西の岸の人が新たな喚び声を出されていませんし、白道も変わりませんので、何も変化がない、つまりは何一つハッキリすることがないことになります。高森秘事の譬え話では、信前信後の水際がハッキリすることなどない曖昧なものにしかなりません。

高森会長の言っている驚天動地の変化を言いたいのなら、せめて

・白道の四五寸が広い広い大道に変わった。
・水の河と火の河が白道を隠すことがなくなった。
・西の岸が光り輝いてよく見えるようになった。

くらいの大胆な改竄をして言わないと辻褄が合いません。尤もこれに近いことを高森会長は過去に言ったこともありましたので、善導大師、親鸞聖人の譬え話とは大きく異なったオリジナルの譬え話を高森会長が創作したのだといえます。まあ、創作をしたというよりは、寧ろ、善導大師、親鸞聖人の譬え話を知らなくて、適当なことを言っただけでしょう。

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2017年2月12日 (日)

邪義を修正してもやはり邪義にしかならない

本日の高森顕徹会長の話は、救われたらどう変わるのかについてでしたが、高森会長は言葉上ではまともなことを言っていたようです。ただし、薄っぺらい内容でした。退会者からの激しい批判に晒されて、かなり修正をしてきて、往生一定という言葉を出して説明していましたが、往生一定がどういうことか、高森会長はよく理解できていないみたいです。

覚如上人は親鸞聖人のお言葉を『執持鈔』の中で紹介されています。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。(中略)
そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

(石田瑞磨著『親鸞全集 別巻』による現代語訳)

浄土に生れるという、これほどの一大事について、愚かなものがさかしらな才覚をめぐらしてはならない、ただ一すじに如来におかませしなければならない。総じて愚かなひとに限らず、次の世に仏となってあらわれることが約束された弥勒菩薩をはじめとして、仏の智慧の不思議になまじいの才覚をしてはならない。まして愚かなひとの浅はかな智慧には、当然許されない。ねんごろに如来の智慧のお誓いにおまかせをしなければならない。これを、仏にすべてを託した、真実の信心をえたひとというのである。
だから自分から、浄土に行くことができそうだとも、また地獄に堕ちるかもしれないとも、決めてはならない。なくなられた上人<黒谷の源空、法然上人のことばである>の仰せられた言葉として、「源空の生れるところへ行こうとお考えになってください」ということをたしかにうけたまわったうえは、たとえ地獄であっても、なくなられた上人のおいでになるところへ行かなければならない、と思うのである。(中略)
その理由は、智慧の勝れた師にお逢いしないで終ってしまうならば、かならず悪道に行くはずの身だから、というのである。ところが、正しい教えの師にだまされて悪道に行くならば、そのときはひとりで行くはずがない。かならず師と一緒に堕ちて行くだろう。だから、ただ地獄に堕ちるほかない、といっても、なくなった上人のおいでになるところへ参ろうと決心したのであるから、生れるさきの善し悪しはわたしのきめるところではない、というのである。これが自力を捨てて他力にすべてをまかせる姿である。

ここで仰っていることで、ポイントは

  • 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
  • われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
  • 源空があらんところへゆかんとおもはるべし
  • 善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

です。
死んだ後にどこにいくかを自分ではからって決めてはならないということです。救われた後もです。要するに、往生一定とは、自分の往生がハッキリと判ることではないのです。
では真実の信心とは何かについて、

  • 如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
  • 善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

と仰っています。死んだ後のことを自分でどうこう決めるのではなく、阿弥陀仏におまかせをするのです。
つまり、浄土往生を誓われた阿弥陀仏におまかせをしたのだから、往生は一定となるのです。浄土往生がハッキリすることは救われる前も後もありません。しかし、浄土往生は間違いないと仰る阿弥陀仏におまかせをしたから、浄土往生は間違いない、となり、それが救われたということなのです。

高森会長の話は、いつも核心を突いていません。まともらしきことを言っている時は、大沼法竜師や伊藤康善師などの言葉をそのまま使っているだけですので、中身が伴わず言葉が軽いのです。そして、親鸞聖人の仰ることと高森会長の説明とには矛盾も生じるのです。

トンデモ邪義連発だったここ数年のことを思うと、最近の邪義は落ち着いてきた感はありますが、元が邪義ですから、落ち着いてもやはり邪義でしかないのです。

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