高森顕徹会長の解釈は、教え以前に国語の問題で躓いている
同朋の里に映画館を造るという話が出ているようですが、これは明らかに金集めの手段です。未だに各地に会館を建て続けていますが、そうしてまで強引な金集めをしなければ回らないほど、金銭的に逼迫していることが判ります。会員も年々酷くなる金集めに、退会者にまで愚痴を言いふらす程です。
さて、本日の高森顕徹会長の話は、予想通りと言いましょうか、単純といいましょうか、「若不生者」の「生」に絡んだ話でした。
当ブログを通して読まれている方ならお判りでしょうが、「若不生者」に関しては殆ど言及してきませんでした。昨年末になって初めてまともに言及したくらいですが、その理由は、他の邪義が余りにも酷過ぎることと、高森会長の「若不生者」の解釈は教えの間違いというよりも日本語の間違いという低レベルの話だからです。
一応復習しておきますと、「若不生者」について親鸞聖人の解釈は、『尊号真像銘文』の
至心信楽をえたるひと、わが浄土にもし生れずは
ちかひを信じたる人、もし本願の実報土に生れずは
と『唯信鈔文意』の
「来迎」といふは、「来」は浄土へきたらしむといふ、これすなはち若不生者のちかひをあらはす御のりなり。
で終わりです。
至心信楽をえたるひと、信楽にもし生れずは
では意味が判りません。二河白道の譬喩でも
信楽の心で念仏して浄土に生まれさせる
としかなりませんので、
信楽の心で念仏して信楽に生まれさせる
では文章にならないのです。
では現益の意味がないのかと言われれば、親鸞聖人は直接仰ってはいませんが、それも含められていると言ってもよい程度の話です。
しかし、現益でいうにしても、
至心信楽をえたるひと、信楽にもし生れずは
信楽の心で念仏して信楽に生まれさせる
には成りようがありません。国語の問題であって、教えの問題ではありません。ここで議論するのが馬鹿らしくなるレベルですから、これまで言及をしてこなかったのです。
そんな低レベルの話を、修正することもせずに、意地になって言い続ける高森会長の人格が知れるというものです。
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