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2017年1月26日 (木)

教えも信心も嘘で塗り固めた高森顕徹会長の実態

真実信心かどうかは二種深信が立ったかどうかと説明しながら、退会者に対して二種深信以外の、これが知らされていないから自力の信心だ、あれが知らされていないから異安心だ、と平気で非難してきます。親鸞会の会員には、矛盾が矛盾と理解できていないようです。

親鸞聖人のお言葉で「まことに知んぬ」とあると、真実信心を獲たら必ず知らされることだと親鸞会は勘違いしていますが、単に高森顕徹会長の嘘に騙されているだけです。

たとえば、『教行信証』信巻の

まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。

ですが、これは二河白道の譬えの内容について「まことに知んぬ」です。真実信心を獲たからと言って、譬えが何を意味しているかを正確に知らされるはずがありません。ここで知らされたこととは、譬えの内容をこのように理解した、ということです。信心とは別の話です。

否、そんなことはない、真実信心を獲たからこそ知らされたことなんだ

と親鸞会会員は言いかねないので、この御文の内容を見ていきましょう。

現代語訳は

いま、まことに知ることができた。善導大師の二河の喩えの中に「四、五寸ほどの白い道」といわれているが、「白い道」の「白」という言葉は「黒」に対するものである。「白」とはすなわち、阿弥陀仏が因位のときにあらゆる行の中から選び取られた清らかな行であり、浄土往生のために如来より回向された清らかな行であることをいう。「黒」とはすなわち、無明に汚れた行であり、また、声聞や縁覚、人間や神々の修める煩悩のまじった善であることをいう。「道」という言葉は「路」に対するものである。「道」とはすなわち、第十八願の唯一信心の道であり、この上ないさとりを開くすぐれた道である。「路」とはすなわち、二乗・三乗の法、さまざまな行を修めなければならない劣った路である。「四、五寸」とはすなわち、衆生の心身を構成している四大・五陰にたとえたのである。

ですが、判り易い所で、高森会長が途中まで自力の道と主張している「白道」についてのみ見てみましょう。

白=選択摂取の白業、往相回向の浄業
道=本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道

つまり、「白道」とは本願他力の道の意味しかないのです。

ということは、白道は他力と知らされていない高森会長は真実の信心ではないということになります。あるいは高森会長は、白道を善導大師は自力で教えられたのを親鸞聖人が他力で教えられたとか珍説を言ったりしていますので、親鸞聖人の信心と善導大師の信心は違うことにもなります。
それとも、「まことに知んぬ」は、真実の信心を獲て知らされることではないと高森会長の説明を修正するのでしょうか。

いずれにしても矛盾です。

このようなちょっとのことでも、矛盾が噴出しているのが、高森会長の言っている教えです。

参考までに、「まことに知んぬ」と親鸞聖人が『教行信証』で仰っている箇所で、明らかに教えの理解と会員でも認めるであろう御文を挙げておきます。

これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。(行巻)

まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。(信巻)

しかれば大聖の真言、宗師の釈義、まことに知んぬ、この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。(信巻)

まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。(信巻)

しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。(証巻)

まことに知んぬ、これいましこの『経』に顕彰隠密の義あることを。(化土巻)

高森会長は、無知な上に、信心も偽装していることが明白です。
高森会長の嘘を信じて、親鸞聖人の仰せを否定するのは各々の勝手ですが、親鸞聖人の教えを正しく伝えていると吹聴している高森会長は大嘘つきだということくらいは知っておきましょう。

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コメント

>白道は他力と知らされていない高森会長は信心の信心ではない

白道は他力と知らされていない高森会長は「真実」の信心ではない

ですかな?

投稿: | 2017年1月27日 (金) 06時45分

名無し様

ご指摘ありがとうございます。
間違いですので、修正しました。

投稿: 飛雲 | 2017年1月27日 (金) 06時49分

善導大師の二河白道の譬えを読み、親鸞会の二河白道の譬えと違う点について講師に質問した事がありますが、親鸞聖人がその様に読み変えられたと答えました。この「まことにしんぬ」の言葉からは善導大師の譬えている事が分かったという意味ですね。
高森先生の珍説は非常に分かりやすいと思います。此岸で三定死になったのを白道の途中に持って来た事により、どの様に信心決定まで進むのかと内容が大きく変わっています。信の一念で白道が金の道になると元と違う事を言ってますが、聞即信の一念で難度海を度する大船に乗る事と解釈すれば金の道が妥当だと思います。三定死までは自力の求道心だとこれまた違った珍説を説いていますが、自力だと思っていたのが実は弥陀の調熟の光明に照らされて三定死まで導き出されたとハッキリ知らされますので、白道は最初から最後まで他力という事になります。全ては弥陀の一人働きであったと高森先生は信前も信後も他力だと何度もハッキリと言っています。
親鸞会の説法をこの様に聞いて来ましたが、間違いない事だと思います。残念ながら味わいの世界でありお聖教の根拠はありません。
大沼和尚の味わいでいうと、聞即信の一念はハッキリとする。煩悩具足で真実の心が一つもない凡夫を何とかして救いたいという弥陀の大慈悲心により白道を一歩づつ嫌々ながら三定死まで歩かされているという事になります。

投稿: 火の人 | 2017年1月27日 (金) 11時53分

>自力だと思っていたのが実は弥陀の調熟の光明に照らされて三定死まで導き出されたとハッキリ知らされますので、白道は最初から最後まで他力という事になります。

意味がよく判りません。
根拠のない味わいということでしたら、そのように味わってください。
ただし、親鸞聖人の教えとは違いますので、そのことだけは、知っておいてください。

投稿: 飛雲 | 2017年1月27日 (金) 19時36分

火の人さま

味わいはいくらでも言っていいですが、親鸞聖人の教えと違うことは大きな問題です。
なぜなら、未信の人は信後の人の言葉に振り回されるのです。そのために今生の後生の解決をしくじるかもしれないのです。
それは貴方が思っているより大変な影響があるのです。
ご信心を頂いたと思った人は、自分が世界の中心にいるような気になる人が結構います。
自分の思いがすべてだから、そこから抜け出せないのです。
ところが仏教の教え、浄土真宗の教えは深遠です。
われわれ凡夫では計り知れない世界なのです。
だから、ご信心を頂いたと思っても2,3年は自分の信心が本物なのかどうかを徹底的に検証する必要があるのです。
そのためにご聴聞は本当に大事なのです。
どうか、自分勝手な思いに陥ること無く、聞法を続けて下さい。
ほったらかしにすると高森顕徹会長と同じになる恐れがあります。
以前もコメントしましたが、親鸞聖人のお言葉は、かりにも比叡山で天台の教学を修めた方です。
しれば知るほどとんでもない人なんです。
自分の体験や高森顕徹会で学んだ教学などゴミです。
そんなゴミのご信心で、自分の体験のみで浄土真宗を説明しようとしても絶対出来ません。
よろしくお願いします。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏


投稿: とくよしみね | 2017年1月27日 (金) 22時15分

弥陀の光明は調熟の光明と摂取の光明があるのは理解できると思います。
真実の本願18願を聞かない自力の心があります。蓋のある心です。
その蓋を取る為に、色々と善巧方便で機を整えて下さるのが調熟の光明ですね。
この光明に照らされて弥陀の浄土に行きたいと思って念仏したり、聴聞したりと自力で真剣に求道します。
それが二河白道の求道心に譬えられます。
自分で求めているから白道は自力だと言うのが普通ですが、この求める心も本願力だとしたら求道心も他力です。
本心は聞く耳持たずで最初から最後まで仏教を何も聞いてません。聞く耳は一つもありません。
聞法心が無い奴が何で弥陀の報土を望んで求道できるのか?それは調熟の光明に照らされて求める心も頂いているからです。
実機を見れば、テレーキョトンボーとしており、食いたい飲みたい楽がしたいという心しかありません。
自力の親玉はいくら念仏しても素直に本願を信受する事が出来ません。無明業障の恐ろしき病だと諸仏に見捨てられました。

投稿: 火の人 | 2017年1月27日 (金) 23時19分

仏教を信じる前に、他の宗教を信じていたなら、それは18願まで導かんとする阿弥陀仏の本願力だとしたら、他の宗教を信じていたことも調熟の光明の働きとなり、他力ですか?

信前を自力、信後を他力とするのも、間違いということですか?

紛らはしいので、こう言います。

白道は信後の意味しかないのに、高森会長は信前の意味があると言っているので、完全な間違い。

投稿: 飛雲 | 2017年1月27日 (金) 23時28分

火の人さん
貴方は、善導大師の二河譬を否定するのですね。
そして、根拠の無い自分の考えを肯定するのですね。
それは浄土真宗ではありません。
そんな、ご信心はありません。
残念ながら、高森顕徹教の教えです。
非常に残念ですね。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2017年1月28日 (土) 02時07分

「衆水の海に入りて一味なるがごとし」という様に、
邪教を信じている人は邪教が、聖道門の人は聖道門が一番だと思っています。
それらの衆や信前の衆は当然自力しかありません。自分が一番だと思って離れられません。
それら難儀の衆をどうにか弥陀の深海まで導こうというのが本願力であり、調熟の光明は平等に働いています。
19願が聖道門の行者を真実に導く為に立てられたと仰られた通りです。
白道が最初から最後まで他力の道でなかったら、自力しかない衆生は白道を歩いて行く事は絶対にできません。
なので、求道心は自力だ自力だと信じて白道を苦労して何とか歩いて行けるのも弥陀の本願力あればこそとなります。
一念の信心を獲るまでは信前であり、信前の人の一番の関心事は、どうしたら信心を獲る事ができるのかという事です。
二河白道の譬えを信前の人に合わせて分かりやすい話に上手に作り変えてあると言いたいのです。
誰がその様に作り替えたのかは問題ではありません。全部ウソの作り話ではないと言っているのです。
個人的な、ただの味わいだと思って下さい。しかし、重要な事です。

投稿: 火の人 | 2017年1月28日 (土) 08時52分

南無阿弥陀仏が願行具足していることを知らない人のコメントです。これは味わいではなく、計らいです。計らいを捨てるのは重要です。

投稿: ななっしー | 2017年1月28日 (土) 09時30分

善導大師の二河白道の譬えでは確かに信心を獲てから白道を歩みます。
信心決定したら金の王道を絶対の幸福に生かされて生きるという様な華やかな道ではありません。
欲と怒りと愚痴の煩悩はそのままで何も変わりません。耳四郎は盗人のまま生涯盗人稼業を続けます。
因果の道理は阿弥陀仏でも変える事が出来ないという事です。転悪成善といえども良い行いをしないと善果はなく、悪行は悪果になる。
因果の道理が変わる訳ではありません。仏智を頂いても勉強しないと教学も身につかないし、床松同行が聖人にはなれません。
高森先生は先生なので勉強しないと生徒にも教える事が出来ないし、影で悪い事も平気で行います。
たまたま生徒が、キャバレーで先生が酒を飲み女といちゃついてる姿を目撃して、「見ちゃた見ちゃった」と軽蔑します。
勉強しない先生よりも、一生懸命に勉強した生徒の方が優秀になり、先生よりも物知りになり、何も知らないダメ先生だと軽蔑する。
問題は教員免許があるのかないのかであり、免許があればダメ先生でも先生であり、ダメ医者でも先生と呼ばれます。

投稿: 火の人 | 2017年1月28日 (土) 09時46分

高森先生は大沼和尚の教科書で教員免許をとって親鸞会で先生をやってます。
当然教え方も大沼和尚と同じになります。
六法全書や医学大辞典を持ち出して、これは間違いだと言われても知らない事は知らないのでしょう。
問題は信心を獲て説法しているのか、カンニングして知ったかぶりで話しているのか?という事です。
先生の信心については誰も知りません。ただ先生を信じて聞いているのが会員だと思います。
学費が高いから辞めたという人が現れてもそれは人それぞれの事だと思います。

投稿: | 2017年1月28日 (土) 10時08分

 そもそも、今度一七箇日報恩講のあひだにおいて、多屋内方もそのほかの人も、大略信心を決定したまへるよしきこえたり。めでたく本望これにすぐべからず。さりながら、そのままうちすて候へば、信心もうせ候ふべし。細々に信心の溝をさらへて、弥陀の法水を流せといへることありげに候ふ。(御文章)
南無阿弥陀仏

投稿: | 2017年1月28日 (土) 10時09分

信楽受持甚以難
信楽受持すること甚だ以て難し
他力の信心は受けて、たもつことが甚だ難しい。

投稿: ななっしー | 2017年1月28日 (土) 10時31分

だから、高森先生を親鸞聖人の様な凄い人だ人格者だと信じ込んで聞いてきた善知識頼みの高森教の信者は、
煩悩まみれの先生の本当の姿を見たものならば、騙された・親鸞会はカルトだったと言って辞めてしまうのは実に納得できます。
高森教を深く信じていた講師の人は、愚痴の心で怒り恨み弁念の様に激しく激怒するのも当然の事だと思います。
その様な人は、善導大師の二河白道の譬えをよくよく読み返してみてください。
親鸞聖人も智慧が法然上人と同じになれるとは言ってません。まして高森先生が親鸞聖人と同じ学者や人格者になれる訳がありません。

投稿: 火の人 | 2017年1月28日 (土) 11時37分

火の人様

いろいろ味わいを書かれてますが、基本的なことだけ。
18願は、白道
19願は、白路
信前は、東岸

投稿: 飛雲 | 2017年1月28日 (土) 12時09分

万善諸行の小路なりという解釈ですね。
白路という事は他力(調熟の光明)が関係しているという事ですか。
自力の求道心だと思って聞き求めている聞即信の一念までの道のりが白路であると解釈できます。
東岸は仏とも法とも知らずに浮世の世界でさ迷っている人だと言えますね。

投稿: 火の人 | 2017年1月28日 (土) 13時04分

調熟の光明と言ったら、外道も入りますし、聖道門も入りますから、その発想はやめた方が良いです。味わいなら、勝手にどうぞ。
あとの2つも、教えとは関係ない個人的な味わいですから、ご自由にどうぞ。

投稿: 飛雲 | 2017年1月28日 (土) 13時14分

外道や聖道門の人にも万遍なく平等に働いているのが調熟の光明という事ですよね。黒の人にも平等に。
白なので、往相回向の浄業は阿弥陀仏の本願名号ですね。他力ですか。
路は、二乗・三乗の法、さまざまな行を修めなければならない劣った路という事で、親鸞会がやっている事ですか。
白路は親鸞会の会員が苦労している求道もどきという事ですか。これが19願の白路という事ですね。
組み合わせれば、聞即信の一念までは19願の白路であり、信後の白道は18願の唯一信心の道という事になりますね。
これで白道は一つに繋がりました。
今度は味わいではなく、飛雲氏の出された根拠を元に親鸞会のいう二河白道の譬えを表現できました。

投稿: 火の人 | 2017年1月28日 (土) 14時17分

勝手な組合せの味わいです。

投稿: 飛雲 | 2017年1月28日 (土) 14時27分

勝手ではなく、親鸞聖人が善導大師の二河白道の譬えをこの様に味わったと聞きました。
その裏付けが「教行信証」の言葉で結びついたのでコメントしました。
それを認めると、7年間飛雲氏が否定し続けてきた三願転入に穴があく恐れがあるので認めたくないだけだと思います。
だから、勝手な味わいだの一言で終わらせたいだけの事だと思います。

投稿: 火の人 | 2017年1月28日 (土) 15時19分

そのように味わってください。
聖教にない味わいについて議論するつもりもないし、まともに相手にするつもりもありません。
聖教に基づいた、聖教に書かれてあることの議論をするつもりがないのなら、終わりです。

投稿: 飛雲 | 2017年1月28日 (土) 15時33分

「まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。」
                                                           教行信証信巻
18願は、白道   本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。         称名念仏して極楽に往く人  
19願は、白路   路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。      真剣に聴聞する親鸞会の会員
信前は、東岸  黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。  外道・邪教の人

お聖教を根拠に見比べてみるとこの様になります。  ただし、親鸞聖人が高森先生が教える様に味わったのかは不明です。

投稿: 火の人 | 2017年1月28日 (土) 16時11分

火の人「これは根拠のない味わいです」
飛雲「味わいはご自由に」
火の人「根拠のない味わいでも筋が通っている」
飛雲「味わいはご自由に」
火の人「この味わいを基にすると、お聖教の根拠もこのように味わえます」
飛雲「味わいはご自由に」
火の人「筋が通った味わいだから正しい」
飛雲「味わいはご自由に」
火の人「正しい味わいを基にすると、全て正しい」
飛雲「聖教に基づかない議論はしません」
火の人「味わいを基にして根拠との整合性をはかると筋が通る」

こういうことで、根本的な思考力が欠けていると思われます。
ある程度の思考力がないと議論する意味がありませんので、そのように御理解下さい。

投稿: 飛雲 | 2017年1月28日 (土) 16時22分

>勝手ではなく、親鸞聖人が善導大師の二河白道の譬えをこの様に味わったと聞きました。

どなたが言われたか知りませんが、味わいと教えは別です。
つくづく残念ですね。
阿弥陀様の本願がどうして短命の根機をお目当てとしているのか。
三願転入は救いを遠ざける一番悪い教えですね。
人の後生をどう考えておられるのでしょうか。
結局、高森顕徹教が正しいと言いたいのですか。
高森顕徹会の人はいつ救われるのでしょう。
還暦過ぎて講師を辞めさせられてもまだ、高森顕徹教に縛られ救われずにいる人に三願転入だと教えるわけですね。
火の人さん、あなたは本当にもったいない。

ひとつ私の味わい。
三願転入は救われた人にはそう思える場合もあるでしょう。
貴方の言われることも分かりますが、残念ですが私はそうは思いません。
19願の修行も何も出来ない私が救われるには、18願しかありませんでした。
現在、ただ今、落ちる私がお目当ての本願。
これでなければ私は救われませんでした。
すべて阿弥陀様のお力。救いは阿弥陀様。こちらは逃げる。
だから、貴方の二河の譬えは私には合わない。
私は阿弥陀様から逃げっぱなしだったのですから。
自力無効、全分他力。
高森顕徹会にいたときも逃げっぱなしの私。つまり、19願など一切通らずそのまま18願に引きずりこまれました。
親鸞会にいたのが19願で、そこから出たのが20願で、と勝手に自分が思う考え方もありますが、そもそもそれでは本願成就文を否定しています。
さらに、19願の修行も軽くみています。どこどこまでも自惚れの煩悩具足の自分です。
とても19願の修行など出来る自分ではありません。
これが、私の味わいです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2017年1月28日 (土) 20時36分

訂正
親鸞会→高森顕徹会

失礼しました。

投稿: とくよしみね | 2017年1月28日 (土) 21時32分

それは、道というのは浄土への一本道。路は枝分かれした路地。辿っても浄土には行けない。
目的地には行かない路地にわざわざ入り込んで何道草食ってる?
早く本道に移るべき。ということじゃないんですか。

投稿: | 2017年1月28日 (土) 23時06分

こうしてネット対策員は今日も玉砕しましたとさ

投稿: | 2017年1月29日 (日) 18時41分

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