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2017年1月23日 (月)

信楽と正定聚との関係も判らない高森顕徹会長の信心

昨日は複数の会員からコメントがありました。しかし、そのレベルには大きな差があります。私の先輩に当たる会員歴40年近い会員は、負け惜しみしか言えません。かと思えば、根拠を出して何とか反論しようという真面目な会員のコメントもあります。残念ながら前者は、見苦しいの一言ですし、当然ながら教えなどどうでもよい人です。後者は、信心を獲たいと思っているが、高森信心が強い人と想像できます。後者のコメントは大歓迎で、私も真面目に対応します。前者は、適当にあしらうだけです。

さて、昨日の講師部講義で出た話が体失不体失往生の諍論と『愚禿鈔』の

本願を信受するは、前念命終なり。
即得往生は、後念即生なり。

ですが、ここから「若不生者」のデタラメ解釈に繋がっていきますので、それについて解説します。

まず『愚禿鈔』のこの御文の元になったのが善導大師の『往生礼讃』にある

前念に命終して後念にすなはちかの国に生じ、長時永劫につねに無為の法楽を受く。

です。
ここでの前念と後念は、信楽を獲た人は肉体の命が終わって、死後に浄土に生まれるの意味です。つまり体失往生です。

ところが善導大師のこの御文を親鸞聖人は信一念、つまり不体失往生として意味を変えられたのが『愚禿鈔』の文です。

簡単に言うと、善導大師と証空上人は体失往生を教えられたのですが、親鸞聖人は不体失往生を教えられたということです。
親鸞会会員にとっては疑問符が10個くらい付く話になりますが、これが事実です。

元々往生とは体失往生のことでしか経典にも善導大師も教えられていないのを、親鸞聖人は不体失往生という新たな解釈で教えられたということです。この背景を知らない高森会長は、不体失往生とは、信楽の身になること言っていますが、それでは意味が判りません。前回も書きましたが、

信楽を獲たら、信楽の身になる

では文として成立しないのです。
親鸞聖人が仰った不体失往生の解釈を『愚禿鈔』を使って説明すると、

「信受本願」=信楽を獲る⇒「即得往生」=不体失往生(正定聚)

になります。
高森会長の説明と同じだと思われるかもしれませんが、違います。

「信楽を獲る」=「不体失往生(正定聚)」

「信楽を獲る」⇒「不体失往生(正定聚)

が同じだと思うのは自力の信心、違うとするのが他力の信心です。

高森会長はそんなこと言っていないと喚く会員のために『なぜ生きる2』の言葉を出しておきます。

親鸞聖人のお言葉

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。

を高森会長は

大悲の願船に乗じた者は、必ず現世で十種の幸せに生かされる。

としていますが、これが自力の信心の証拠です。

親鸞聖人が仰っていることは

信楽を獲たなら、現生で十種の利益(正定聚に入る益を含む)を獲る。

です。
信楽を獲ることと正定聚に入る益を獲ることがイコールではなく、因果関係にあるということです。これを言葉の遊び、屁理屈だと思うのであれば、それが自力の信心の証拠です。

更には、現生で正定聚に入ると教えられたのは、親鸞聖人独自の解釈です。元は、往生後に正定聚に入ると誓われた11願があり、それをそのまま教えられたのが高僧方ですが、その解釈とは異なることを親鸞聖人が仰ったのです。

ということは、

信楽を獲たなら、現生で正定聚に入る益を獲る。

とは七高僧方は仰っていないので、

信楽を獲ても、現生で正定聚に入る益を獲ると実感として知らされることはない。

ということです。親鸞聖人の理論で導きだされたことを、信心の内容と勘違いしているのが高森会長です。

以上は高森会長にも会員にもチンプンカンプンの内容だと思いますが、これが真宗学の常識です。

知らされる筈もない

大悲の願船に乗じた者は、必ず現世で十種の幸せに生かされる。

と平気で嘘をついている高森会長が、体験至上主義の異安心なのは言うまでもありません。

もう一つ、会員の頭が混乱することを言っておきますと、証空上人も不体失往生を教えられています。要するに、高森会長の体失不体失往生の諍論の説明も、デタラメだということです。

高森会長は二種深信の説明もまともにできない、現生正定聚の意味も背景も判っていない。それでも
高森先生の信心は親鸞聖人と同じ真実信心だ!
と会員が力んだところで、世間は麻原死刑囚信者と同類にしか見做しません。

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正定聚」カテゴリの記事

コメント

これは難解ですね。
そもそも、若不生者の生まれるを信楽と思い込んでいる時点で一切が分からなく成ります。
かりに普通に仏になると理解していても、その前に、信心決定で大安心、大満足という夢物語が頭の中にある限り理解できないでしょう。
まず、第18願は一切の衆生を仏にすると誓われているのです。
その前提条件として、今生で信楽に身にならせて頂かなければならないのです。
その信楽の身になったところで、仏に成るには七高僧的には死んで、阿弥陀様のお浄土に行くわけです。次に正定聚の位に入り、そして、いよいよ仏の悟りを開くのです。
これは阿弥陀様のお浄土の順番であって、ほかの仏様はまた違うのです。
だから、信楽の意味を議論しても高森顕徹会(以後親鸞聖人に申し訳ありませんのでこう呼びます)の会員ではこれらの言葉が一切入ってこないと思います。
だから生まれるの現益と当益の話をしてもちんぷんかんぷんになるのです。
高森会長は飛雲さんが指摘するとおり真宗学をまったく理解していないと思いますね。
また、親鸞聖人は、かりにも比叡山で天台の教学を修めた方です。
しれば知るほどとんでもない人なんです。
それを自分の体験のみで説明しようとしても絶対出来ません。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2017年1月23日 (月) 23時52分

根気よく対応している飛雲さんや、とくよしみねさんのように別視点からフォローされるようなコメントといい、陰ながら応援しています。南無阿弥陀仏。

投稿: とんきち | 2017年1月24日 (火) 00時43分

「信楽を獲ても、現生で正定聚に入る益を獲ると実感として知らされることはない。」
と「大悲の願船に乗じた者は、必ず現世で十種の幸せに生かされる。」とでは全然違った信心になりますね。
正定聚の位に入るのと正定聚の悟りを開くのとは全く違うものだと思います。
阿弥陀仏の救いは「そのまま」なので、煩悩具足の凡夫は凡夫のままで、正定聚の悟りを開く事はないと思います。
つまり、実感として知らされる事はないという事なのでしょうか。
獲信して絶対の幸福になり、現世で幸せに生かされるという事はないという事なのでしょうか?

投稿: | 2017年1月24日 (火) 14時57分

名無し様

>つまり、実感として知らされる事はないという事なのでしょうか。
>獲信して絶対の幸福になり、現世で幸せに生かされるという事はないという事なのでしょうか?

正定聚の位に入ったと知らされることはありません。絶対の幸福は創価学会用語のパクリであり、そのようなものは存在しません。
現世で幸せになるというのは、死んだ後に対するはからいがなくなった、つまり、どこに行こうが阿弥陀仏に全てをおまかせしているという気楽さはありますが、それ以上のものではありません。

投稿: 飛雲 | 2017年1月24日 (火) 15時04分

有難うございました。まったくその通りであると思います。弥陀に任せて後生暗い心は完全になくなりますね。
一つお聞きしたいのは、聞即信の一念の体験についてですが、大沼和尚はハッキリとした体験だと仰います。
出離の縁が一つもない実機と深く信じて称名念仏すれば報土に往生できる事が間違いないという事がハッキリすると言います。
それは、自力で信じる信心ではなく、弥陀より賜る他力の信心だからです。いつとはなしにではないと思います。
親鸞会が大沼和尚のパクリだとしても、大沼和尚のいう一念の信心はハッキリとした体験であるというのは本当だと思います。
教学の知識がないのでその根拠は出せませんが、その点についてはどの様に思われますか?一念とは時刻の極速とか聞きました。
大沼和尚は真実の信心を頂いている方だと思います。

投稿: 火の人 | 2017年1月24日 (火) 16時47分

火の人様

体験に関しましては、人それぞれということだと思います。大沼師のようにハッキリした体験の人もあり、そうでない人もある、そういうことだと思います。といいますのは、自力と他力の水際は、自力がなくなったことだけですので、そこに劇的なことはおこりません。二河白道の譬えでいうなら、白道に乗ったか乗らないかであり、他は何も変わりません。もしそこに劇的な変化があるとするなら、善導大師はそれを表現されるでしょうし、親鸞聖人も補足説明があるはずですがありません。
ハッキリした体験のある人は、自力が表面上強かった、自力がなくならないことに焦って苦しんでいた人でしょう。そうすると自力がなくなったらハッキリします。しかし、自力が表面上強く現われていない、自力がなくならないことに焦りを感じるまで苦しんでいないと、自力がなくなったことにすぐに気付くものではありません。
私はそのように理解しています。

投稿: 飛雲 | 2017年1月24日 (火) 16時58分

有難うございました。
親鸞会では、一貫して信心決定はハッキリとした体験だと強調されます。その根拠が大沼和尚だと思います。
聞即信の一念肝要なり、今こそ明らかに知られたり、ああ弘誓の強縁は、等々一念の体験や信前と信後を重要視しています。
何時とはなしにぼんやりとじわじわと分かるような寝とぼけた信心ではないと断言しています。
その一方で「暗雲が次第に晴れてきた」とか華光会の体験談で語っていたそうです。証拠も出てきました。
聞即信の一念はハッキリしたものなのか、ぼんやりしたものなのか、という質問でしたが本題からそれてしまいましたので、
後ほど改めて詳しく開顕されます事を宜しくお願い致します。
信心決定が親鸞会がいう様に信前信後でガラリと生まれ変わる不思議な体験ではない事は十分に理解できました。
聞即信の一念の体験は不可思議な体験だと思います。弥陀から他力の信心を賜る一念の体験ですから。

投稿: 火の人 | 2017年1月24日 (火) 19時13分

>聞即信の一念はハッキリしたものなのか、ぼんやりしたものなのか

阿弥陀仏の方ではハッキリしています。しかし、それを認識する智慧がありませんので、我々の方でハッキリ認識することはできません。ぼんやりでもなく、聞即信の一念はわからないでしょう。
ただし、先程書いたように、自力の現われに強い弱いがありますので、間接的に認識することができ、感じ方認識の仕方に差があるということです。つまり、ハッキリする人もあるし、ぼんやりする人もあるということです。

投稿: 飛雲 | 2017年1月24日 (火) 20時22分

鈴水法琛師:極促とはいへども一瞬一弾指刹那の時にはあらず、唯事究竟の速なるを時尅の極促とのたまふなり。又、実時とは時尅の極促とは実際に信心の治定するのは時尅分秒を以ていふべからざる程の短促中の至極なりという。

カミソリで瞬間に切られても、その瞬間は痛いとも思いません。あるいは紙に触れて切れることもあります。
あとで切れているのが分かり痛いと思います。
「時尅の極促」は切られたことさえ分からない早さと言うことです。
ということは、切られてもしばらく経たないと分からない人もいるということです。
しかし、切られたと言うことは分かります。
それが自力が廃ったということです。
よく言われるのは、救われれば分かると言うことです。
そこはハッキリします。
ただ、高森顕徹会で言われる、大安心、大満足の世界を体験できるとは限らないと言うことです。
ひとそれぞれ、これがなかなか納得できないのですけど。

南無阿弥陀仏、波阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2017年1月24日 (火) 21時33分

とくよしみね様

鈴水法琛師の話は、初めて知りました。有難うございます。

投稿: 飛雲 | 2017年1月25日 (水) 08時22分

訂正です。
鈴水法琛師ではなく鈴木法琛師(すずきほうちん)でした。
失礼しました。

投稿: とくよしみね | 2017年1月26日 (木) 07時51分

自力であっても自力が自力だと分かりません。自力が何なのか全く分かりません。助かりたい・他力だと思う心が自力です。
前念に命終して後念にすなはちかの国に生じ、長時永劫につねに無為の法楽を受く。は確かに体失往生です。
本願を信受するは、前念命終なり。即得往生は、後念即生なり。これが聞即信の一念の事だと聞いていました。
信楽を獲たなら、現生で正定聚に入る益を獲る。これは良く理解できました。現世十種の益を知る智慧が無いのも理解できます。
自力自力と自力で求め、自力とは何なのかと自力の壁にぶち当たり、三定死で苦悩しなければ、弥陀の「そのままだぞ」の呼び声は絶対に聞こえてこないと思います。その呼び声を聞く聞即信の一念がハッキリと分からない訳はないと思います。
大沼和尚の味わいであり、お聖教の根拠が出せずに御免なさい。

投稿: 火の人 | 2017年1月26日 (木) 11時04分

火の人様

>その呼び声を聞く聞即信の一念がハッキリと分からない訳はないと思います。

そのはからいが自力です。
二種深信以外に知らされることはありません。自力を捨てて他力に帰した、それだけで、それ以上ではありません。

『執持鈔』

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

投稿: 飛雲 | 2017年1月26日 (木) 11時27分

即答有難うございます。飛雲さま。
なぜ「ハッキリする」と書いたのは、「そのままだそ゛」と直の呼び声を聞く事が出来たからです。
残念ながら、大沼和尚の味わいであり、お聖教の根拠が出せずに御免なさい。

投稿: 火の人 | 2017年1月26日 (木) 13時33分

火の人様

そのような体験のある人もない人もあるということです。
そのような体験がないと救われたことにならないという教えはどこにもありません。

投稿: 飛雲 | 2017年1月26日 (木) 13時40分

もう一つ味わいでいいですか。根拠は何もありません。
自力が無くなり他力になったというよりは、自力はそのままで聞即信の一念でなくなりました。
浄土を願っての善も聴聞も念仏も計らいも無くなりました。後生は全て弥陀にまかせられました。
飛雲氏の言う様に、煩悩や性格や生活は何も変わらず、絶対の幸福に生かされるとか信楽の心に生まれ変わるという事はありません。
大驚喜の心は起こりましたが、毎日日本晴れの心とは言えません。暁が正解です。

投稿: 火の人 | 2017年1月26日 (木) 15時12分

南無阿弥陀仏

投稿: | 2017年1月26日 (木) 20時00分

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