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2016年12月 2日 (金)

念仏軽視の高森顕徹会長には理解できない蓮如上人の教え

念仏否定であった高森顕徹会長も、最近は信前の念仏を否定まではしなくはなったものの、念仏軽視の姿勢は未だ変わりません。
高森会長が念仏を軽視している根拠が蓮如上人のお言葉です。
『御文章』5帖目11通

それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。

がよく使われましたが、他にも同じ内容のお言葉はあります。

3帖目2通

されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。

3帖目4通

しかれば世のなかにひとのあまねくこころえおきたるとほりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、極楽に往生すべきやうにおもひはんべり。それはおほきにおぼつかなきことなり。

3帖目5通

まづ世間にいま流布してむねとすすむるところの念仏と申すは、ただなにの分別もなく南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、みなたすかるべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなきことなり。

ここで共通するのが、「おぼつかなき」です。不確実なことを意味しているのですが、往生できない、という断言ではなく、往生できるかどうか不確実である、ということに注意する必要があります。
逆に言うと、往生できるかもしれない、ということです。

結論を言うと、蓮如上人がここで仰っていることは、「口にただ称名ばかりをとなへ」ることを否定されているのではなく、「なにの分別もなく」という信心のないことを問題にされているということです。

それどころか「口にただ称名ばかりをとなへ」ることを推奨されているのが蓮如上人です。

蓮如上人が書かれた『正信偈大意』から見ていきます。

「印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機」といふは、印度西天といふは天竺なり、中夏といふは唐土なり、日域といふは日本のことなり。この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ、ことに釈尊出世の本懐は、ただ弥陀の本願をあまねく説きあらはして、末世の凡夫の機に応じたることをあかしましますといへるこころなり。

とあります。七高僧方が教えられたことについて、「念仏の一行をすすめ」です。一行ですから、他の行である善は勧められていないということです。

龍樹菩薩のところでは、

かの龍樹の『十住毘婆沙論』に、念仏をほめたまふに二種の道をたてたまふ。

天親菩薩のところでは、

この菩薩、大乗経によりて真実を顕す、その真実といふは念仏なり。

と仰っています。蓮如上人が仰っているのは、念仏なのです。

このようにいうと反論するのが、

念仏とは本願のことだ

とか、

念仏とは信後の念仏のことだ

とか文脈を無視して適当なことを言ってくるのが親鸞会です。

最も判りやすいのが曇鸞大師のところで

「三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦」といふは、かの曇鸞大師、はじめは四論宗にておはせしが、仏法のそこをならひきはめたりといふとも、いのちみじかくは、ひとをたすくることいくばくならんとて、陶隠居といふひとにあうて、まづ長生不死の法をならひぬ。すでに三年のあひだ仙人のところにしてならひえてかへりたまふ。そのみちにて菩提流支と申す三蔵にゆきあひてのたまはく、「仏法のなかに長生不死の法は、この土の仙経にすぐれたる法やある」と問ひたまへば、三蔵、地につばきを吐きていはく、「この方にはいづくのところにか長生不死の法あらん、たとひ長年を得てしばらく死せずといふとも、つひに三有に輪廻すべし」といひて、すなはち浄土の『観無量寿経』を授けていはく、「これこそまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」とのたまへば、曇鸞これをうけとりて、仙経十巻をたちまちに焼きすてて、一向に浄土に帰したまひけり。

とあります。菩提流支三蔵が曇鸞大師に勧めた内容が、「これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」です。
念仏して出離するのです。善をしてどうのこうのという説明はもちろんありません。

源信僧都のところでは、

専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。

とあります。
報土に往生する人とは、「専修正行になりきはまるかたの執心あるひと」ですから、「専修正行」つまり「口にただ称名ばかりをとなへ」と心が成り極まった信心の人です。

結局、蓮如上人が仰っているのは、中途半端な「口にただ称名ばかりをとなへ」という信心ではなく、「口にただ称名ばかりをとなへ」と「なりきはまるかたの執心あるひと」になりなさいというのことなのです。

何も難しい話ではありませんが、信心と念仏の関係が全く判らない高森会長には理解できないでしょうし、親鸞会会員にも理解しがたい内容かもしれません。

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唯念仏」カテゴリの記事

コメント

有難う御座います。
ようこそ ようこそ 御教化くださいました。
合掌 唯々 称名念仏 なんまんだぶつ・・・・・・

投稿: とくま | 2016年12月 3日 (土) 02時09分

『御文章』は「念仏称えるのは大前提」で書かれているってことですかね。

投稿: | 2016年12月 3日 (土) 09時04分

名無し様

当時の状況は、そうだったと思います。ただし、念仏という行を重視していて、信心が抜けていたためにあのような書き方をされているのだと想像しています。

投稿: 飛雲 | 2016年12月 3日 (土) 09時09分

お返事感謝します。

投稿: | 2016年12月 3日 (土) 17時03分

「"信心”が抜けていた」とは具体的にどういう意味なんでしょうか。
心に何を信じている状態を指すのでしょうか。わかっているようで、自分には良く分かりません。
南無阿弥陀仏のみ心ですか、弥陀の本願ですか、「雑行を捨て、後生助けたまえと、一心に弥陀をたのめ」ですか、
”信心”は曲者で、多くの人が悩まされてきたわけです。そういうことを察してくれるのが善知識と思います。いかがでしょうか。

投稿: | 2016年12月 4日 (日) 08時55分

最後の名無し様

>報土に往生する人とは、「専修正行になりきはまるかたの執心あるひと」ですから、「専修正行」つまり「口にただ称名ばかりをとなへ」と心が成り極まった信心の人です。

このように書きましたが、信心とは

「口にただ称名ばかりをとなへ」と心が成り極まった

ことを言います。
これまで何十回と書いてきたことです。

判りやすい言葉でいうと、

念仏一つで往生できると深く信じる心

です。

投稿: 飛雲 | 2016年12月 4日 (日) 09時02分

すっきりしました。
こう書ける方は居そうでいません。
なんまんだ なんまんだ なんまんだ なんまんだ なんまんだ なんまんだ なんまんだ・・・

投稿: | 2016年12月 5日 (月) 08時19分

最近の顕正新聞には勤行について次のように書いています。
五正行の中心は「称名」。

称名正行は、「南無阿弥陀仏」と口で称えること(念仏)、となっています。
教学聖典には、称名正行は、阿弥陀仏の御名(念仏)を称えること、となっています。

五正行の中心で、最も大事な行は、南無阿弥陀仏と声に出して称える。
となっております。

今後どうなっていくのかな?

投稿: | 2016年12月 7日 (水) 20時52分

蓮如上人は、念仏を否定されているのではなく、信心のないことを問題にされているということは、まことにその通りだと思います。

ただその信心の説明は、蓮如上人の御心ではありません。

蓮如上人は『御文章』5帖目11通に、こう仰せです。

それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。
善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。


蓮如上人は信心をとるとは、南無阿弥陀仏のこころをよくしりたること、すなわちもろもろの雑行をすてて疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつる(一心に弥陀を帰命する)衆生を、阿弥陀仏がやうもなくたすけたまえるというのが南無阿弥陀仏の体とこころえわけたることと明らかにしておられます。

『中途半端な「口にただ称名ばかりをとなへ」という信心ではなく、「口にただ称名ばかりをとなへ」と「なりきはまるかたの執心あるひと」になりなさい』と言われているわけではありません。

蓮如上人の御心を正しく理解していただきたいと思います。

投稿: | 2016年12月 7日 (水) 23時42分

私が、『御文章』のその御文を知らないとでも思われたのなら、お粗末です。

南無阿弥陀仏のいわれとは、念仏を称えるものを往生させると誓われた18願のことです。
それを知るとは、念仏称えて往生できると知る、信じることです。
一心に弥陀に帰命するとは、念仏往生の願に帰命する、つまり、念仏を称えて往生できると疑いなく信じることです。

蓮如上人の仰っていることは、『御文章』も『正信偈大意』も同じことです。

高森会長のように、矛盾のあることは、仰っていません。

念のため言っておきますが、親鸞聖人も同じことしか仰っていません。
念仏を称えて往生できると深信したのが、信心です。

投稿: 飛雲 | 2016年12月 8日 (木) 06時01分

『正信偈大意』の内容を、無視している時点でアウトですね。
『御文章』の意味が、『正信偈大意』で分かりやすくなったと考えることができないのは、マイコンのなせる技でしょう。

投稿: 師走 | 2016年12月 8日 (木) 07時41分

たしかに蓮師の御心を正しく理解できていないというのは同感です。

蓮師は、七高僧方が「念仏の一行をすすめ」られていることを熟知した上で(そこは飛雲氏が、南天、北天、雁門、横川の説明を出されているとおり。)、『御文章』の信心の説明には、念仏称えて往生できると疑いなく信じるとは一切言われていません。

称名正因の異安心を排斥し、一心不乱に念仏称えて往生しようと信じる真門を離れて、不可称・不可説・不可思議の名号の大功徳を獲得しなさいと心砕かれている蓮師の御心をありがたく拝察せずにおれません。

投稿: | 2016年12月10日 (土) 13時44分

飛雲様いつもありがとうございます。いつも有り難く拝見しております。

蓮如上人の御心とやらをいう人は何でしょうかね。

まさか、七高僧方や御開山聖人と違うことを仰せであるとでも言いたいのですか?

もろこし・わが朝に、もろもろの智者達の沙汰しまうさるる観念の念にもあらず。
また、学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。
ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して、疑いなく往生するぞと思いとりて申すほかには別の子細候はず。
ただし三心・四修と申すことの候ふは、みな決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふうちに籠り候ふなり。
このほかにおくふかきことを存ぜば、二尊のあはれみにはづれ、本願にもれ候ふべし。
念仏を信ぜん人は、たとひ一代の報をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがら
に同じくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。

為証以両手印

浄土宗の安心・起行 この一紙に至極せり。源空が所存、このほかにまつたく別義を存ぜず。滅後の邪義をふせがんがために、所存を記しをはりぬ。

建暦二年正月二十三日

源空(花押)

『一枚起請文』

源空聖人と蓮如上人の信心が違うとでも言いたいのでしょうね。

顔を洗って出直していらっしゃいと言いたいですな。

南無阿弥陀仏にて往生すると信じてお念仏させていただきます。
なんまんだぶ なんまんだぶ


投稿: 田舎者 | 2016年12月11日 (日) 19時27分

田舎者様

飛雲さんも概ね同意見と言ってくれていますが、

「私は念仏称えて往生できると深く信じています」と念仏称えていても、その信心が真実の信心か、異安心か、仮の信心かは、分からないですよ。

そして報土往生できるのは、真実の信心を獲得した人だけです。
異安心だったら往生はできません。

善知識方は私たちが報土往生することを願われ、真実の信心を勧められています。

投稿: | 2016年12月16日 (金) 21時32分

真実の信心とは、
念仏を称えて往生できると疑い無く信じること
です。
この信心を善知識方は勧められています。

投稿: 飛雲 | 2016年12月16日 (金) 21時42分

飛雲様の言われる通り、
念仏称えて往生できると疑い無く信じる心になってください。

投稿: | 2016年12月16日 (金) 22時58分

みなさん、ありがとうございます。私に信心らしいものは何も用意はできませんが、阿弥陀様のご用意くださったお念仏におまかせして、お浄土に参らせていただきす。なんまんだぶ、なんまんだぶ

投稿: 田舎者 | 2016年12月17日 (土) 15時00分

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