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2016年12月11日 (日)

理解できるように書かれた聖教を繰り返し読むように勧められた善知識、誰も理解できないのだから読んではならないと禁止する悪知識高森顕徹会長

3年前に高森顕徹会長は『なぜ生きる2』を発刊しました。自信満々で会の内外に大々的に宣伝したものの、退会者から完膚なきまでに叩きのめされ、amazonのレビューでも法論に惨敗し続けた結果、親鸞会は『なぜ生きる2』を切り捨てました。新聞広告には二行程度の紹介しかしなくなり、売る気が全くありません。

高森会長の今の心情は、売れては困るが、宣伝していないと会員に突っ込まれても困るので、宣伝しない訳にもいかず、申し訳程度の紹介に留めているという実情です。

『なぜ生きる2』のメインテーマは三願転入です。三願転入は親鸞聖人の教えの根基だとまで言っていたのですが、その親鸞聖人の教えの根基である筈の三願転入さえ、最近は全く話をしません。高森会長の持っている辞書では急遽、根基の意味は、「話す必要がないこと」に書き換えられたようです。

親鸞会では、聖教は読みませんし、理解できるものではないと言います。理解できるのは世界中で高森顕徹会長ただ一人だと信じています。これでは善知識方の御著書は暗号で、それが解読できる奇特な人物だけに判れば良いという、完全な秘事法門になってしまいます。

実に奇妙な理屈ですが、本気で会員はそう信じ込まされていて滑稽です。

では親鸞聖人をはじめ、善知識方はなぜ著書を残されたのでしょうか。読んだら誤解するような書き方を敢えてなされたのでしょうか。判るように書かれなかった理由は何でしょうか。

少し考えれば判ることですが、善知識方はできるだけ多くの人に聖教を読んで理解してほしいと思われて、できるだけ判るように御苦労なされて著書を残されているのです。

当たり前すぎて、説明するのが馬鹿らしいことですが、この基礎的な思考さえ奪われてしまっているのが会員です。

親鸞聖人は『一念多念証文』と『唯信鈔文意』の最後に同じことを書かれています。

ゐなかのひとびとの文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとは、をかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、ひとのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるひとびとを、こころえやすからんとてしるせるなり。

(現代語訳)

都から遠く離れたところに住む人々は、 仏教の言葉の意味もわからず、 教えについてもまったく無知なのである。 だから、 そのような人々にもやさしく理解してもらおうと思い、 同じことを繰り返し繰り返し書きつけたのである。 ものの道理をわきまえている人は、 おかしく思うだろうし、 あざけり笑うこともあるだろう。 しかし、 そのように人からそしられることも気にかけず、 ただひたすら教えについて無知な人々に理解しやすいようにと思って、 書き記したのである。

親鸞聖人が、学の無い人にも理解できるようにと心を配られていることがよく判ります。

蓮如上人は『御一代記聞書』で次のように教えられています。

蓮如上人仰せられ候ふ。本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれと、対句に仰せられ候ふ。

(現代語訳)

蓮如上人は、「ご本尊は破れるほど掛けなさい、お聖教は破れるほど読みなさい」と、対句にして仰せになりました。

またこのようにも仰っています。

聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。

(現代語訳)

お聖教を拝読しても、ただぼんやりと字づらを追っているだけでは何の意味もありません。蓮如上人は、「ともかく繰り返し繰り返しお聖教を読みなさい」と仰せになりました。世間でも,書物は百遍,繰り返し読めば,その意味はおのずと理解できるというのだから、このことはよく心にとどめておかねければなりません。お聖教はその文面にあらわれている通りにいただくべきものです。その上で、師のお言葉をいただかなければならないのです。自分勝手な解釈は、決してしてはなりません。

親鸞会の会員のために仰ったような内容です。

聖教を繰り返し読めば、善知識方の御心も判ってくるというものです。

そしてもう一つ、聖教は同じ内容が書かれているということです。たとえば、蓮如上人の『正信偈大意』と『御文章』で書かれてある内容が違うと考える発想が根本的におかしいです。同じに決まっています。当然、親鸞聖人の仰せとも同じです。
ただし、手紙の場合には、手紙の相手に応じた表現になっていることがありますので、そのことを考慮する必要はあります。

学のない高森会長にも判るように善知識方は苦心なされてはいますが、聖教を全く読もうとしない高森会長には善知識方の御心は理解できるはずもありません。高森会長自身も理解するつもりもありません。

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コメント

「繰り返しお聖教を読みなさい」の仰せは、まことにその通りだと思います。


あと、きちんと読んでいただいている人であれば理解されていると思いますが、

七祖と祖師と蓮師の「教えの内容」が違うとは誰も言っていません。

「教え方」が違うのです。

では蓮如上人はどうして、信心の説明において、念仏称えて往生できると疑いなく信じるという「教え方」をされていないのか。

それは称名正因の異安心を破り、一心不乱に念仏称えて往生しようと信じる真門を離れて、不可称・不可説・不可思議の名号の大功徳を獲得させるためです。

「念仏称えて往生できると深く信じる」では、真実の信心と、称名正因の異安心と、一心不乱に念仏称えて往生しようと信じる真門の信心との違いが明確にならないから、その違いを明確にするために、念仏称えて往生できると疑いなく信じるという「教え方」を避けておられるのです。

「私は念仏称えて往生できると深く信じています」という人がいても、その方の信心が真実の信心か、異安心か、仮の信心かは、それだけでは明らかになりません。そして報土往生できるのは、真実の信心を獲得した人だけです。蓮如上人はすべての人に報土往生して欲しいと願われ、お聖教を読み破るほど読まれて、そういう「教え方」をされているのです。

御再興と仰がれるゆえんです。

投稿: | 2016年12月14日 (水) 22時02分

名無し様

私も概ね同意見です。
ただ、親鸞会はそうは考えていないです。

投稿: 飛雲 | 2016年12月14日 (水) 22時07分

聖教を読むことよりも、法話で高森会長が言ったことばかり事細かに覚えなければならないのが非常に疑問で苦痛でした。

投稿: | 2016年12月14日 (水) 23時30分

親鸞会と称名正因の異安心なら、称名正因の異安心の方が18願に近いんじゃないかな。

投稿: | 2016年12月15日 (木) 18時14分

蓮如上人は正信念仏偈を正信偈で表し、お勤めの重要性を説かれています。また正信偈大意も表わされています。ここでも念仏を省いているのは、称名正因の異安心を意識してからなのでしょうか。

意味もあまり解らず念仏称えることは、そんなに価値ないことでしょうか。

名号即称名(念仏)、称名(念仏)即信心、名号即信心ともいわれるように、阿弥陀仏の第十八願を信じていることにもなります。なにせ本願力回向のみ法ですから。

信心獲得という表現なんかは、なかなか他力回向のみ法にはそぐわないと感じています。私が出ていくみ教えでないから。

石・瓦・礫の一般人に難しいことは必要ないです。

法然上人がしのばれます。  なんまんだぶ なんまんだぶ ありがたい

投稿: | 2016年12月15日 (木) 22時13分

私の周りには親鸞会に洗脳されている人が何人かいます。
信心決定したら、5分おきに銀の棒が繰り返し見えるなどと言っています。
また、寺は念仏か信心かどちらを勧めるのかなどと言って聞かない人もいます。
私がいくら言葉を尽くしても全く耳を傾けてはくれません。
でもお念仏を称える身になってくださいと言い続けるつもりです。

そういう人が、念仏を称えて往生できると信じることが間違いであるような認識をもたれることは私には耐えられないのです。
冷静さ失っていたことは認めて謝ります。

あと、名号と信心の関係を明確に明言されている御文は、第一帖十五通などを拝読されることをお勧めします。ごきげんよう

投稿: 田舎者 | 2016年12月16日 (金) 19時36分

飛雲さんと名無しさんのやりとりを見ました。

>ただ、親鸞会はそうは考えていないです。

自分は親鸞会で一応話を聞いていますが、七高僧と親鸞聖人と蓮如上人とで教えの内容が違うとは聞いたことがないですよ。

釈尊は阿弥陀仏の本願一つを説かれ、七高僧がその弥陀の本願を正しく親鸞聖人まで伝えられた。そして親鸞聖人は弥陀の本願一つを明らかにされ、蓮如上人もその本願を正確に、多くの人に伝えられたといつも聞いていますし。

あと、信心の説明でも、蓮如上人の教え方と同じで、「念仏称えて往生できると深く信じる」とは聞いたことがありません。

「親鸞会はそうは考えていないです。」と言われる意味も根拠もよく分かりませんね。

投稿: | 2016年12月16日 (金) 20時45分

>あと、信心の説明でも、蓮如上人の教え方と同じで、「念仏称えて往生できると深く信じる」とは聞いたことがありません。

親鸞聖人は、信心を「念仏称えて往生できると深く信じる」と説明されていますが、名無しさんも聞かれたことないと言われている通りで、その理由は、「親鸞会はそうは考えていない」からです。

善知識方は異口同音に信心の説明をされていますが、親鸞会では、善知識方の信心の説明とは違う説明をします。正確に言うと、善知識方と同じ説明をしているつもりで、違っています。理由は、聖教を読んでいないからです。

高森会長の信心の説明は、地獄行き間違い無しと極楽参り間違い無しが同時にある、とか言いますが、二種深信が理解できていない証拠です。

投稿: 飛雲 | 2016年12月16日 (金) 20時58分

>親鸞聖人は、信心を「念仏称えて往生できると深く信じる」と説明されています
とありますが、正しくは「念仏称えて往生できると深く信じる」と【も】説明されています、ですね。
親鸞聖人がそのようにしか教えておられないように誤解させる不適切な表現です。


>善知識方は異口同音に信心の説明をされていますが、親鸞会では、善知識方の信心の説明とは違う説明をします。

飛雲氏も概ね同意見と言っていた名無し様によれば、蓮如上人は七高僧とは「教え方」が異なり、信心の説明において、念仏称えて往生できると疑いなく信じるという「教え方」をされていません。
飛雲氏は、蓮如上人は善知識ではないという認識だということが分かります。

投稿: | 2016年12月17日 (土) 20時36分

>親鸞聖人がそのようにしか教えておられないように誤解させる不適切な表現です。

では、他の教えられ方を親鸞聖人のお言葉を挙げて下さい。

1.教えられ方が違う

2.教えられた内容が違う

この二つは、異なります。
1は、教えられた内容は同じですが、表現が違うということです。
私が言っているのは、1です。

あなたの言われている意味が2ならば、完全な間違いです。

蓮如上人は、念仏という行だけに固執している人に対して、あのような表現をされただけで、仰る意味は同じです。

七高僧も同じですから、異口同音と言いました。

>念仏称えて往生できると疑いなく信じるという「教え方」をされていません。

二種深信は、念仏を称えて往生できると疑い無く信じることとそのまま仰ってます。
一枚起請文もそうです。

私を非難するのは結構ですが、根拠を出して下さい。断章取義、教えが聖教によって変わるとかいう、ヘンテコ思考はやめた上でですが。

投稿: 飛雲 | 2016年12月17日 (土) 20時49分

蓮如上人以降の歴代の御相伝として、真実信心とは念仏称えて往生できると疑いなく信じる(深く信じる)という教え方をされていないのは、御再興の蓮如上人がそういう教え方をされていないからです。

その理由は、私が前述した通りで、「念仏称えて往生できると疑いなく信じる(深く信じる)」では、真実の信心と、称名正因の異安心と、一心不乱に念仏称えて往生しようと信じる真門の信心との違いが明確にならないから、その違いを明確にするために、念仏称えて往生できると疑いなく信じるという「教え方」を避けておられるのです。


蓮如上人御一代記聞書(53)
一 御文のこと、聖教は読みちがへもあり、こころえもゆかぬところもあり。御文は読みちがへもあるまじきと仰せられ候ふ。御慈悲のきはまりなり。これをききながらこころえのゆかぬは無宿善の機なり。

(現代語訳)
 御文章について、蓮如上人は、「お聖教というものは、意味を取り違えることもあるし、理解しにくいところもある。だが、この文は意味を取り違えることもないだろう」と仰せになりました。
わかりやすく書かれた御文章は、お慈悲のきわまりです。
これを聞いていながら、信じ受け取ることのできないものは、仏法を聞く縁がまだ熟していない人なのです。


同(177)
一 御文はこれ凡夫往生の鏡なり。御文のうへに法門あるべきやうに思ふ人あり。大きなる誤りなりと[云々]。

(現代語訳)
 蓮如上人の御文章は、凡夫が浄土に往生する道を明らかに映しだす鏡である。
この御文章の他に浄土真宗のみ教えがあるように思う人がいるが、それは大きな誤りである。


意味を取り違えることもないだろうと仰り、これ以外に浄土真宗のみ教えがあると思うのは間違いと仰る御文章において、「念仏称えて往生できると疑いなく信じる(深く信じる)」という教え方をされず、あえて七高僧方と違う教え方をされた蓮如上人の御心を、このブログを読まれている方にはよく理解していただきたいと思います。

投稿: | 2016年12月18日 (日) 10時35分

>その理由は、私が前述した通りで、「念仏称えて往生できると疑いなく信じる(深く信じる)」では、真実の信心と、称名正因の異安心と、一心不乱に念仏称えて往生しようと信じる真門の信心との違いが明確にならないから、その違いを明確にするために、念仏称えて往生できると疑いなく信じるという「教え方」を避けておられるのです。

教え方が違うことと、教えている内容が違うこととは別だということはお判りでしょうか?教え方が違うのには同意しますが、教えている内容が違うとは思いません。

蓮如上人の時代には、無信単称の念仏という行に固執して信心を疎かにするものが多かったので、信心が抜けた念仏では駄目だということをしきりに仰っているのです。

ですから、「おほきにおぼつかなき」なのです。「不可なり」ではないです。
なぜなら、「口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり」で信心の有無を判断できないので、「おほきにおぼつかなき」なのです。

「おほきにおぼつかなき」なら意味を取り違えることもないだろうと思われて、何度も「おほきにおぼつかなき」と仰っているのです。

それ、弥陀如来の念仏往生の本願(第十八願)と申すはいかやうなることぞといふに、在家無智のものも、また十悪・五逆のやからにいたるまでも、なにのやうもなく他力の信心といふことをひとつ決定すれば、みなことごとく極楽に往生するなり。
(中略)
ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとはおほやうなり、それは極楽には往生せず。この念仏のいはれをよくしりたる人こそほとけにはなるべけれ。(3帖目3通)

「念仏のいはれをよくしりたる」が、念仏称えて往生するという念仏往生の願を信じる、信心のことです。

蓮如上人の愛読書であった『安心決定鈔』に信心の説明があります。

下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。阿弥陀仏の凡夫の願行を成ぜしいはれを領解するを、三心ともいひ、三信とも説き、信心ともいふなり。阿弥陀仏は凡夫の願行を名に成ぜしゆゑを口業にあらはすを、南無阿弥陀仏といふ。かるがゆゑに領解も機にはとどまらず、領解すれば仏願の体にかへる。名号も機にはとどまらず、となふればやがて弘願にかへる。かるがゆゑに浄土の法門は、第十八の願をよくよくこころうるほかにはなきなり。

「阿弥陀仏の凡夫の願行を成ぜしいはれを領解する」ことが信心で、
「第十八の願をよくよくこころうる」ことは、「阿弥陀仏は凡夫の願行を名に成ぜしゆゑを口業にあらはすを、南無阿弥陀仏といふ。」という念仏を領解することです。

投稿: 飛雲 | 2016年12月18日 (日) 10時49分

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