「若不生者」の「生」を”信楽に生まれさせる”とする解釈にまた戻りました
本日の講師部講義で、珍しく本願、本願成就文についての説明がありました。あれだけ避けていた本願と本願成就文ですが、極一部だけの会員の参加ということもあり、情報が洩れることもないし、会員に対する、本願文の説明も、根拠を出しての説明もしているぞ、とのパフォーマンスのつもりなのでしょう。
さてその内容はと言うと、これまでと何も変わっていない、間違いだらけの説明でした。こっそりと修正してくるのかと思いきや、何の修正もないので、拍子抜けです。高森顕徹会長も、間違いには気が付いているのですが、それでも修正しないのは、会員に救われてほしい、という気持ちの欠落を意味しています。
たとえば、本願の「若不生者」の「生」を”信楽に生まれさせる”と言い続けて恥をかき、『なぜ生きる2』でこっそり”浄土に生まれさせる”と修正したものの、今日はまた”信楽に生まれさせる”と元に戻っています。
その「信楽」の説明も当然以前のままで、
後生明るい心、後生楽しい心
とか訳の判らない説明です。
言うまでもなく親鸞聖人の説明は違います。
『教行信証』信巻の信楽釈については何度か紹介しましたので、今回は『浄土文類聚鈔』を紹介します。
二つには信楽、すなはちこれ、真実心をもつて信楽の体とす。しかるに具縛の群萌、穢濁の凡愚、清浄の信心なし、真実の信心なし。このゆゑに真実の功徳値ひがたく、清浄の信楽獲得しがたし。
これによりて釈(散善義)の意を闚ふに、愛心つねに起りてよく善心を汚し、瞋嫌の心よく法財を焼く。身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して、頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒の善と名づく、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。この雑毒の善をもつてかの浄土に回向する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしくかの如来、菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修、みなこれ真実心中に作したまひしによるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。
如来、清浄真実の信楽をもつて、諸有の衆生に回向したまへり。(現代語訳)
二つには信楽について、 この心はすなわち、 真実心を信楽の体とするのである。 ところが、 煩悩に縛られ濁りに満ちた世に生きる愚かな凡夫には、 清らかな信心がなく、 真実の信心がない。 だから、 真実の功徳にあうことができず、 清らかな信楽を得ることができないのである。
そこで、 『観経疏』のおこころを考えてみると、 貪りの心は常に善い心を汚し、 怒りの心はその功徳を焼いてしまう。 たとえ身を苦しめ心を砕いて、 昼夜を問うことなく、 ちょうど頭についた火を必死に払い消すように賢明に努め励んでも、 それはすべて毒のまじった善といい、 また、 いつわりの行というのであり、 真実の行とはいわないのである。 この毒のまじった善を回向しても、 阿弥陀仏の浄土に往生することはできない。
なぜかというと、 阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、 ほんの一瞬の間に至るまでも、 その身・口・意の三業に修められた行はみな、 真実心においてなされたからであり、 だからどのような疑いの心もまじることがない。
阿弥陀仏はその清らかな真実の信楽を、 すべての人々にお与えになるのである。
とあります。
親鸞聖人がここで仰っていることは、
凡夫には阿弥陀仏の報土に生まれることができるような善はできない。
それで阿弥陀仏が凡夫の代わりに修行なされた。
その清らかな真実の信楽をすべての人に与えてくださっている。
ということです。重要なことは、阿弥陀仏のなされた修行による因でわれらが報土往生という果を受けるということです。
後生暗い心が明るい心になった、後生苦しい心が楽しい心になった、という我々の心の変化ではなく、阿弥陀仏から与えられた信心を受け取るだけで、我々の心が変わる訳ではないということなのです。
言わば、高森流因果の道理を否定した、他因自果を仰ったのが「信楽」なのです。
『浄土文類聚鈔』ではこの後に
本願(第十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「諸有の衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せん」と。{抄出}
聖言、あきらかに知んぬ。いまこの心は、すなはちこれ、本願円満清浄真実の信楽なり、これを信心と名づく。信心はすなはちこれ大悲心なるがゆゑに、疑蓋あることなし。(現代語訳)
本願 (第十八願) が成就したことを示す文は、 『大無量寿経』に次のように説かれている。 「すべての人々は、 その名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ」
釈尊のお言葉により、 明らかに知ることができた。 この心は、 すなわち本願に誓われている功徳に満ちた清らかな真実の信楽であり、 これを信心というのである。 信心はすなわち大いなる慈悲の心であるから、 疑いの心があるはずはない。
と続きます。
「信楽」は阿弥陀仏から与えられた信心であるから疑いの心があるはずがない、ということです。
高森会長の言う”信楽に生まれさせる”との解釈における最大の問題点は、我々の心が阿弥陀仏の清らかな信心に生まれ変わると錯覚していることです。清らかな信心を頂くことと、清らかな信心に生まれ変わることとは全く違うことです。
判り易くいうなら、報土往生する因(信楽)そのものを受け取るのではなく、報土往生という果だけを受け取るのです。ですから「若不生者」の「生」は”浄土に生まれさせる”でないと話が通じないのです。
それが摩訶不思議体験至上主義である高森会長には到底理解できないのでしょう。
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