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2016年12月

2016年12月25日 (日)

「若不生者」の「生」を”信楽に生まれさせる”とする解釈にまた戻りました

本日の講師部講義で、珍しく本願、本願成就文についての説明がありました。あれだけ避けていた本願と本願成就文ですが、極一部だけの会員の参加ということもあり、情報が洩れることもないし、会員に対する、本願文の説明も、根拠を出しての説明もしているぞ、とのパフォーマンスのつもりなのでしょう。

さてその内容はと言うと、これまでと何も変わっていない、間違いだらけの説明でした。こっそりと修正してくるのかと思いきや、何の修正もないので、拍子抜けです。高森顕徹会長も、間違いには気が付いているのですが、それでも修正しないのは、会員に救われてほしい、という気持ちの欠落を意味しています。

たとえば、本願の「若不生者」の「」を”信楽に生まれさせる”と言い続けて恥をかき、『なぜ生きる2』でこっそり”浄土に生まれさせる”と修正したものの、今日はまた”信楽に生まれさせる”と元に戻っています。

その「信楽」の説明も当然以前のままで、

後生明るい心、後生楽しい心

とか訳の判らない説明です。
言うまでもなく親鸞聖人の説明は違います。
『教行信証』信巻の信楽釈については何度か紹介しましたので、今回は『浄土文類聚鈔』を紹介します。

二つには信楽、すなはちこれ、真実心をもつて信楽の体とす。しかるに具縛の群萌、穢濁の凡愚、清浄の信心なし、真実の信心なし。このゆゑに真実の功徳値ひがたく、清浄の信楽獲得しがたし。
これによりて釈(散善義)の意を闚ふに、愛心つねに起りてよく善心を汚し、瞋嫌の心よく法財を焼く。身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して、頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒の善と名づく、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。この雑毒の善をもつてかの浄土に回向する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしくかの如来、菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修、みなこれ真実心中に作したまひしによるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。
如来、清浄真実の信楽をもつて、諸有の衆生に回向したまへり。

(現代語訳)

二つには信楽について、 この心はすなわち、 真実心を信楽の体とするのである。 ところが、 煩悩に縛られ濁りに満ちた世に生きる愚かな凡夫には、 清らかな信心がなく、 真実の信心がない。 だから、 真実の功徳にあうことができず、 清らかな信楽を得ることができないのである。
そこで、 『観経疏』のおこころを考えてみると、 貪りの心は常に善い心を汚し、 怒りの心はその功徳を焼いてしまう。 たとえ身を苦しめ心を砕いて、 昼夜を問うことなく、 ちょうど頭についた火を必死に払い消すように賢明に努め励んでも、 それはすべて毒のまじった善といい、 また、 いつわりの行というのであり、 真実の行とはいわないのである。 この毒のまじった善を回向しても、 阿弥陀仏の浄土に往生することはできない。

なぜかというと、 阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、 ほんの一瞬の間に至るまでも、 その身・口・意の三業に修められた行はみな、 真実心においてなされたからであり、 だからどのような疑いの心もまじることがない。
阿弥陀仏はその清らかな真実の信楽を、 すべての人々にお与えになるのである。

とあります。

親鸞聖人がここで仰っていることは、

凡夫には阿弥陀仏の報土に生まれることができるような善はできない。
それで阿弥陀仏が凡夫の代わりに修行なされた。
その清らかな真実の信楽をすべての人に与えてくださっている。

ということです。重要なことは、阿弥陀仏のなされた修行による因でわれらが報土往生という果を受けるということです。

後生暗い心が明るい心になった、後生苦しい心が楽しい心になった、という我々の心の変化ではなく、阿弥陀仏から与えられた信心を受け取るだけで、我々の心が変わる訳ではないということなのです。
言わば、高森流因果の道理を否定した、他因自果を仰ったのが「信楽」なのです。

『浄土文類聚鈔』ではこの後に

本願(第十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「諸有の衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せん」と。{抄出}
聖言、あきらかに知んぬ。いまこの心は、すなはちこれ、本願円満清浄真実の信楽なり、これを信心と名づく。信心はすなはちこれ大悲心なるがゆゑに、疑蓋あることなし。

(現代語訳)

本願 (第十八願) が成就したことを示す文は、 『大無量寿経』に次のように説かれている。 「すべての人々は、 その名号のいわれを聞いて信じ喜ぶ」
釈尊のお言葉により、 明らかに知ることができた。 この心は、 すなわち本願に誓われている功徳に満ちた清らかな真実の信楽であり、 これを信心というのである。 信心はすなわち大いなる慈悲の心であるから、 疑いの心があるはずはない。

と続きます。

信楽」は阿弥陀仏から与えられた信心であるから疑いの心があるはずがない、ということです。

高森会長の言う”信楽に生まれさせる”との解釈における最大の問題点は、我々の心が阿弥陀仏の清らかな信心に生まれ変わると錯覚していることです。清らかな信心を頂くことと、清らかな信心に生まれ変わることとは全く違うことです。

判り易くいうなら、報土往生する因(信楽)そのものを受け取るのではなく、報土往生という果だけを受け取るのです。ですから「若不生者」の「」は”浄土に生まれさせる”でないと話が通じないのです。

それが摩訶不思議体験至上主義である高森会長には到底理解できないのでしょう。

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2016年12月11日 (日)

理解できるように書かれた聖教を繰り返し読むように勧められた善知識、誰も理解できないのだから読んではならないと禁止する悪知識高森顕徹会長

3年前に高森顕徹会長は『なぜ生きる2』を発刊しました。自信満々で会の内外に大々的に宣伝したものの、退会者から完膚なきまでに叩きのめされ、amazonのレビューでも法論に惨敗し続けた結果、親鸞会は『なぜ生きる2』を切り捨てました。新聞広告には二行程度の紹介しかしなくなり、売る気が全くありません。

高森会長の今の心情は、売れては困るが、宣伝していないと会員に突っ込まれても困るので、宣伝しない訳にもいかず、申し訳程度の紹介に留めているという実情です。

『なぜ生きる2』のメインテーマは三願転入です。三願転入は親鸞聖人の教えの根基だとまで言っていたのですが、その親鸞聖人の教えの根基である筈の三願転入さえ、最近は全く話をしません。高森会長の持っている辞書では急遽、根基の意味は、「話す必要がないこと」に書き換えられたようです。

親鸞会では、聖教は読みませんし、理解できるものではないと言います。理解できるのは世界中で高森顕徹会長ただ一人だと信じています。これでは善知識方の御著書は暗号で、それが解読できる奇特な人物だけに判れば良いという、完全な秘事法門になってしまいます。

実に奇妙な理屈ですが、本気で会員はそう信じ込まされていて滑稽です。

では親鸞聖人をはじめ、善知識方はなぜ著書を残されたのでしょうか。読んだら誤解するような書き方を敢えてなされたのでしょうか。判るように書かれなかった理由は何でしょうか。

少し考えれば判ることですが、善知識方はできるだけ多くの人に聖教を読んで理解してほしいと思われて、できるだけ判るように御苦労なされて著書を残されているのです。

当たり前すぎて、説明するのが馬鹿らしいことですが、この基礎的な思考さえ奪われてしまっているのが会員です。

親鸞聖人は『一念多念証文』と『唯信鈔文意』の最後に同じことを書かれています。

ゐなかのひとびとの文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとは、をかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、ひとのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるひとびとを、こころえやすからんとてしるせるなり。

(現代語訳)

都から遠く離れたところに住む人々は、 仏教の言葉の意味もわからず、 教えについてもまったく無知なのである。 だから、 そのような人々にもやさしく理解してもらおうと思い、 同じことを繰り返し繰り返し書きつけたのである。 ものの道理をわきまえている人は、 おかしく思うだろうし、 あざけり笑うこともあるだろう。 しかし、 そのように人からそしられることも気にかけず、 ただひたすら教えについて無知な人々に理解しやすいようにと思って、 書き記したのである。

親鸞聖人が、学の無い人にも理解できるようにと心を配られていることがよく判ります。

蓮如上人は『御一代記聞書』で次のように教えられています。

蓮如上人仰せられ候ふ。本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれと、対句に仰せられ候ふ。

(現代語訳)

蓮如上人は、「ご本尊は破れるほど掛けなさい、お聖教は破れるほど読みなさい」と、対句にして仰せになりました。

またこのようにも仰っています。

聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。

(現代語訳)

お聖教を拝読しても、ただぼんやりと字づらを追っているだけでは何の意味もありません。蓮如上人は、「ともかく繰り返し繰り返しお聖教を読みなさい」と仰せになりました。世間でも,書物は百遍,繰り返し読めば,その意味はおのずと理解できるというのだから、このことはよく心にとどめておかねければなりません。お聖教はその文面にあらわれている通りにいただくべきものです。その上で、師のお言葉をいただかなければならないのです。自分勝手な解釈は、決してしてはなりません。

親鸞会の会員のために仰ったような内容です。

聖教を繰り返し読めば、善知識方の御心も判ってくるというものです。

そしてもう一つ、聖教は同じ内容が書かれているということです。たとえば、蓮如上人の『正信偈大意』と『御文章』で書かれてある内容が違うと考える発想が根本的におかしいです。同じに決まっています。当然、親鸞聖人の仰せとも同じです。
ただし、手紙の場合には、手紙の相手に応じた表現になっていることがありますので、そのことを考慮する必要はあります。

学のない高森会長にも判るように善知識方は苦心なされてはいますが、聖教を全く読もうとしない高森会長には善知識方の御心は理解できるはずもありません。高森会長自身も理解するつもりもありません。

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2016年12月 2日 (金)

念仏軽視の高森顕徹会長には理解できない蓮如上人の教え

念仏否定であった高森顕徹会長も、最近は信前の念仏を否定まではしなくはなったものの、念仏軽視の姿勢は未だ変わりません。
高森会長が念仏を軽視している根拠が蓮如上人のお言葉です。
『御文章』5帖目11通

それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。

がよく使われましたが、他にも同じ内容のお言葉はあります。

3帖目2通

されば世間に沙汰するところの念仏といふは、ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、たすかるやうにみな人のおもへり。それはおぼつかなきことなり。

3帖目4通

しかれば世のなかにひとのあまねくこころえおきたるとほりは、ただ声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、極楽に往生すべきやうにおもひはんべり。それはおほきにおぼつかなきことなり。

3帖目5通

まづ世間にいま流布してむねとすすむるところの念仏と申すは、ただなにの分別もなく南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、みなたすかるべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなきことなり。

ここで共通するのが、「おぼつかなき」です。不確実なことを意味しているのですが、往生できない、という断言ではなく、往生できるかどうか不確実である、ということに注意する必要があります。
逆に言うと、往生できるかもしれない、ということです。

結論を言うと、蓮如上人がここで仰っていることは、「口にただ称名ばかりをとなへ」ることを否定されているのではなく、「なにの分別もなく」という信心のないことを問題にされているということです。

それどころか「口にただ称名ばかりをとなへ」ることを推奨されているのが蓮如上人です。

蓮如上人が書かれた『正信偈大意』から見ていきます。

「印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機」といふは、印度西天といふは天竺なり、中夏といふは唐土なり、日域といふは日本のことなり。この三国の祖師等、念仏の一行をすすめ、ことに釈尊出世の本懐は、ただ弥陀の本願をあまねく説きあらはして、末世の凡夫の機に応じたることをあかしましますといへるこころなり。

とあります。七高僧方が教えられたことについて、「念仏の一行をすすめ」です。一行ですから、他の行である善は勧められていないということです。

龍樹菩薩のところでは、

かの龍樹の『十住毘婆沙論』に、念仏をほめたまふに二種の道をたてたまふ。

天親菩薩のところでは、

この菩薩、大乗経によりて真実を顕す、その真実といふは念仏なり。

と仰っています。蓮如上人が仰っているのは、念仏なのです。

このようにいうと反論するのが、

念仏とは本願のことだ

とか、

念仏とは信後の念仏のことだ

とか文脈を無視して適当なことを言ってくるのが親鸞会です。

最も判りやすいのが曇鸞大師のところで

「三蔵流支授浄教 焚焼仙経帰楽邦」といふは、かの曇鸞大師、はじめは四論宗にておはせしが、仏法のそこをならひきはめたりといふとも、いのちみじかくは、ひとをたすくることいくばくならんとて、陶隠居といふひとにあうて、まづ長生不死の法をならひぬ。すでに三年のあひだ仙人のところにしてならひえてかへりたまふ。そのみちにて菩提流支と申す三蔵にゆきあひてのたまはく、「仏法のなかに長生不死の法は、この土の仙経にすぐれたる法やある」と問ひたまへば、三蔵、地につばきを吐きていはく、「この方にはいづくのところにか長生不死の法あらん、たとひ長年を得てしばらく死せずといふとも、つひに三有に輪廻すべし」といひて、すなはち浄土の『観無量寿経』を授けていはく、「これこそまことの長生不死の法なり、これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」とのたまへば、曇鸞これをうけとりて、仙経十巻をたちまちに焼きすてて、一向に浄土に帰したまひけり。

とあります。菩提流支三蔵が曇鸞大師に勧めた内容が、「これによりて念仏すれば、はやく生死をのがれて、はかりなきいのちを得べし」です。
念仏して出離するのです。善をしてどうのこうのという説明はもちろんありません。

源信僧都のところでは、

専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。

とあります。
報土に往生する人とは、「専修正行になりきはまるかたの執心あるひと」ですから、「専修正行」つまり「口にただ称名ばかりをとなへ」と心が成り極まった信心の人です。

結局、蓮如上人が仰っているのは、中途半端な「口にただ称名ばかりをとなへ」という信心ではなく、「口にただ称名ばかりをとなへ」と「なりきはまるかたの執心あるひと」になりなさいというのことなのです。

何も難しい話ではありませんが、信心と念仏の関係が全く判らない高森会長には理解できないでしょうし、親鸞会会員にも理解しがたい内容かもしれません。

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