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2016年11月 6日 (日)

変な譬え話が更に変になり、真宗教義の欠片もなくなった高森教

親鸞会は、聖教上の御文を使わなくなり高森教と化して久しいのですが、これまで言ってきた変な譬え話までも変化しています。

映画のメインになった幼稚な話、大海に放り出された人が浮かんだ丸太や板切れに掴る云々ですが、その人が何を考えているかについて、どう泳ぐのか、泳ぎ方のことだけだ、と高森顕徹会長が尤もらしく話をしています。

丸太や板切れについては、以前におかしいことを指摘しましたが、益々おかしな説明になりました。皆さんは、気が付かれたでしょうか。どう泳ぐ、泳ぎ方、を考えるのは、泳げる人です。溺れている人ではありません。泳ぐことのできる善人についての譬えであって、泳げない溺れている悪人は、この譬えでは除外されているのです。昔は、溺れて水飲んで苦しんでいる人だと説明していたので、変なりにも許容範囲だったかもしれませんが、今は完全に逸脱しています。

当然ですが、高森会長には18願の根本が判っていないし、浄土門の基礎の基礎がない証拠です。

善導大師は『玄義分』に有名なお言葉を残しておられます。

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。 また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。

(現代語訳)

ところで、 仏の大悲は苦しむ者に対するのであって、 そのお心はひとえにいつも迷いに沈んでいる衆生をあわれみたもうのである。 そこで浄土に帰するよう勧められる。 また水に溺れているような人は、 いそいで特に救わねばならないが、 岸の上にいる者はどうして救う必要があろうか。

高森会長も、以前は時々口に出して言ったことのある一説ですが、お得意のパクリで意味も判らず使っていただけなのでしょう。

どう泳ぐか、泳ぎ方ばかりを考えているという高森会長の説明は、どこをどう贔屓目に見ても、浄土門ではなく、聖道門に近い発想です。もちろん聖道門でもないですから高森教としか言いようがありません。

浄土真宗の教えは、本願力回向の教えです。阿弥陀仏が兆載永劫の御修行によって成就された功徳を衆生に与えられることをいいます。つまり、往生のために衆生の側で何かを加えたり添える必要がないということです。高森会長が知らない真宗の超常識です。

高森会長が、泳ぎ方を考えるとか、因果の道理から善を勧めれば勧めるほど、本願力回向を否定することになります。なぜなら、阿弥陀仏が兆載永劫の御修行による功徳では足りないと言っていることになるからです。
高森会長自身だけではなく、会員にも仏智不思議の本願力回向を疑わせる恐ろしい罪を造らせているのです。親鸞聖人は、御著書の中で何回もそのことを誡められ、高森会長の説を完全に否定されています。最も判りやすいのが、『正像末和讃』誡疑讃の

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

です。大海に放り出されて、泳ぎ方を常に考えている人のことを仰ったものです。罪福の因果の道理を信じて善を行っている人は、本願力回向を疑っているから、本願力回向によって往ける報土ではなく、その人の自業自得で、七宝の獄という化土に往くことになる、と教えられたています。

親鸞聖人の教えの肝心要の本願力回向というお言葉は、『教行信証』信巻にあります。

「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。

親鸞会の会員も退会者も、「本願力の回向の大信心海」を獲たいと思うのであれば、本願力回向と反する高森会長の説く聖道門もどきの発想を頭から消し去ることです。善ができるとか善をしようとおもっているとか、因果の道理がどうのこうのという泳ぎ方もです。もっと言えば、「本願力の回向の大信心海」を獲るために努力するのではなく、本願力回向を否定する努力を止めることです。

泳ごうとするな

これが会員に伝えたいメッセージです。高森教の教祖には、このメッセージは理解できないと思います。

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18願」カテゴリの記事

コメント

南无阿彌陀佛

何時もいつも お忙しいなか ご感謝申し上げます。

投稿: とくま | 2016年11月 6日 (日) 20時27分

ここにいなさい=泳ぐなと同じ意味でしょうか?

https://www.youtube.com/watch?v=H14cQg1jTcs

投稿: | 2016年11月 7日 (月) 12時38分

名無し様

泳ぐ=善をして大海を渡ろうとする

ですので、善をして助かろうとするな、善に拘っている親鸞会から離れよ
こういうことです。

投稿: 飛雲 | 2016年11月 7日 (月) 13時06分

お久しぶりです。
親鸞会の劣化が激しいですね。とっくに浄土真宗では無くなっています。
ビデオで丸太や板きれの話だけで、阿弥陀様の話は一切無いとのこと。
末期的症状ですか。古参の会員はよく我慢出来ますね。
退会するしか道は無いと思います。
世間は広い、安心して退会してください。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2016年11月 7日 (月) 23時37分

正信念仏偈では「広由本願力回向」と説かれています。

投稿: | 2016年11月 8日 (火) 08時57分

"泳ごうとするな”が本願力回向と言われても、素直には解らぬ。浄土真宗は、気づきのお法り、頷き、おどろき、あーそーかのご法であり、ここが肝心なところ。回向といわれると、何か物がもらえるように錯覚してしまい易いし、本願力となるとますます判りにくくなる。ここでこそ善知識の登場が待たれるわけである。如何でしょうか?

投稿: | 2016年11月 8日 (火) 20時41分

名無し様

『御開山聖人』様の御著書を通して御教道を賜るために、善知識・悪知識 の見極めが出来れば、回り道をしなくてよいのですが。

投稿: とくま | 2016年11月 8日 (火) 21時08分

とくよしみね様

古参の会員の気持ちが知りたいです。こんな話を有り難く聞いているとしたら、もう無理です。


最後の名無し様

正信偈では、会員は信心との関係がより判りにくいでしゅう。
本願力回向を正しく理解し、正しく話をしている善知識は、現在たくさんおられますから、心配は無用かと思います。

投稿: 飛雲 | 2016年11月 8日 (火) 21時08分

このお言葉は嬉しい限りです。

投稿: | 2016年11月 9日 (水) 08時01分

南無阿弥陀仏

投稿: | 2016年11月 9日 (水) 19時41分

飛雲様
いつもありがとうございます。
泳ぐということは、お金を儲けたり、幸せな家庭を作ろうと努力することを譬えているようですが、泳ぐな、と仰られることは、お金儲けをするな、幸せな家庭を作ろうとするな、ということでしょうか。

投稿: とく | 2016年11月11日 (金) 21時36分

とく様

泳ぐとは、善をして助かろうとすることです。

投稿: 飛雲 | 2016年11月11日 (金) 21時39分

早速の返信ありがとうございます。

丸太や板切れが阿弥陀仏の救いなら、それに向かうことは自力で善をして助かろうとすることになりますが、
丸太や板切れはお金や財産、平和な家庭を譬えているようです。
親鸞会では丸太や板切れでは救われない、と教えているのでは?

投稿: とく | 2016年11月11日 (金) 23時34分

仰っていることがよく判りませんが、高森会長の昔の説明は、

溺れて塩水飲んで苦しんでいる人が、丸太や板切れに縋る

これは、難度海を世の中の苦しみとしたところは間違いですが、言わんとする内容については判らない話ではありませんでした。

現在の高森会長の説明は、

どう泳ぐか、泳ぎ方しか考えていない

です。
溺れている、から、泳げる前提になっています。
善導大師が、溺れていると譬えられたのは善のできない人のことです。
丸太とか板切れの譬えが世間的な内容なので私は否定しているのですが、それよりも上の泳ぎ方と言う善と
なんの関係があるのか、さっぱりわか。

投稿: 飛雲 | 2016年11月12日 (土) 00時15分

高森会長は、丸太や板きれにすがっても助からないと言われ、だから仏教を聞けと。
阿弥陀様も御本願も何も出てこない。
丸太や板きれは裏切るから仏教を聞け。それを延々繰り返しているだけ。
蓮如上人はそう言われていると根拠も無く付け足して。
その話を朝から夕方まで壊れたテープレコーダのように繰り返すだけ。
だから劣化が激しいと言いました。
この話の何処が仏教ですか。

一盲引衆盲

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2016年11月12日 (土) 02時09分

久々に、開いた口がふさがらないと申しましょうか、驚きと、呆れるが混同して複雑な心境です、
生きる(生計を立てる)努力と、{『親鸞聖人』様が、我ら「煩悩具足の凡夫」ために、書き残された『御著書』}を混同されているようですね。
と言うよりも、聖人さまの『御著書』を、全く拝読していないか、或いは、全く拝読しないで、嘘つきの申すことを鵜呑みにしているのかが、コメントから明らかです。
浄土真宗『親鸞聖人』様の御教え「根本の要」の『本願力回向』を伝道される善知識さまの御法話に一二度御縁があれば、泳ぐ(自力回向)の喩えに何の疑念も出ません。
どうか、小さな水たまりに停滞すること無く、大海原(本願海)に船出されますように。
合掌 南无阿彌陀佛

投稿: とくま | 2016年11月12日 (土) 03時29分

泳ごうとするな

これを日常語で平易に説明する事の難しさが、改めて知らされるの私だけでしょうか?

投稿: | 2016年11月12日 (土) 08時01分

会長の話は助からないと判れと絶望感を強要するのみでその後のことがすっかり抜けていた
あれは自分が救われてないから説明も出来ないというのと、本当に救われてもらっては困る
、救われて欲しいとはさらさら思っていないから

投稿: | 2016年11月14日 (月) 15時22分

14日の投稿者様は凄いことおっしゃてます。皆様味わわれてはいかがでしょうか。

最近の「とどろき」に、釈迦は、「仏の覚りを開けばとて、小善をおろそかにしてよい道理がない。世の中に善をもとめること私にすぐる者はない」と載せています。
これを読むと、普通は仏教では善を勧めていると理解してしまいます。
私は、お釈迦さんに救われるのでなくて、阿弥陀仏の本願力に信順していくだけですから問題ありませんが。
小善をやるのは社会常識の範囲である、と理解していますので問題ないですが、巧みな混同と思わずにはおれません。
しかし、これが意外と有効打になりやすいのではないでしょうか。

投稿: | 2016年11月15日 (火) 22時22分

蓮如上人は、日常生活において法律、倫理道徳の善に心掛けて、往生のためには、雑行を捨てよと仰っています。
雑行と日常生活の善は別ですが、そこを混同させているのが親鸞会です。

投稿: 飛雲 | 2016年11月16日 (水) 06時55分

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