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2016年11月15日 (火)

昔は言葉だけは正しかったもののずれていた解釈、今では解釈以前に言葉もずれまくりの高森顕徹会長

高森顕徹会長は、大学で真宗学を真面目に学んでこなかったので、18願の救いが如何なるものか、全く判っていません。元々おかしい説明が、最近はよりおかしくなっています。

今から約30年前の滋賀降誕会で、高森会長は突如、真宗学用語を説明したことがあります。

親鸞聖人の教えを漢字6字で言うと機無円成回施である

実にまともなことを当時は言っていましたが、このように言ったことは後にも先にもこれ一度きりでした。
機無円成回施について説明しますと、親鸞会でも有名な『教行信証』信巻の至心釈に

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。
すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。

(現代語訳)

すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。
そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間も清らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことがない。如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあっていて、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできない、この上ない智慧の徳を成就された。
如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。
この至心は、如来より与えられた真実心をあらわすのである。だからそこに疑いのまじることはない。

こうある内容です。
衆生には、仏に成れるような因である清浄心、真実心がないことを最初に仰っています。これを「機無」と言います。善が一切できないではなく、仏に成れるような善ができないです。
この「機無」を本として法蔵菩薩が衆生のために本願を建てて下され、清浄心、真実心をもって行を行じられ、名号を成就なされたことを仰ったのが第二・第三文で、「円成」と言います。
第四文は、不可思議功徳の名号を阿弥陀仏が衆生に向って等しく与えて下されることを仰ったもので、「回施」と言われます。
最後の二文は、他力回向の真実心を衆生は賜わるので、自力の一切混じるものではないことを仰っています。

同様のことを信楽釈でも仰っています。

一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。
如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。
これを利他真実の信心と名づく。

(現代語訳)

すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。
なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。
如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。
これを他力の真実の信心というのである。

もちろん欲生釈にもあります。

微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。
このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。

(現代語訳)

あらゆる衆生は、煩悩に流され迷いに沈んで、まことの回向の心がなく、清らかな回向の心がない。
そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまでも、衆生に功徳を施し与える心を本としてなされ、それによって如来の大いなる慈悲の心を成就されたのである。そして他力真実の欲生信を、迷いの衆生に施し与えられたのである。すなわち、衆生の欲生心は、そのまま如来が回向された心であり大いなる慈悲の心であるから、疑いがまじることはない。

約30年前に高森会長が言っていたことは、珍しく正しかったのですが、その意味にずれがありました。

悪人は悪しかできないことで六道から出離できず、善のできる善人も真実の善ができず雑毒の善にしかならないから真実の報土に往生できないということです。

難度海で苦しんでいるとは「機無」、つまり出離できない報土往生できないことであって、丸太や板切れ、泳ぎ方しか考えていないことではありません。

出離したい、報土往生したいと願っても叶わない衆生のために、阿弥陀仏が代わりに御修行なされて報土往生の因を積まれて衆生に与えて下されている、だから難思の弘誓と親鸞聖人は仰っているのです。これが理解できれば、宿善が厚くならないととか、善の勧めがあるとか、三願転入しなければならないとか、そんな発想が出てきようがありません。

親鸞聖人の教えを漢字6字で言うと機無円成回施である

これは大学の授業で、何かの拍子に覚えたのでしょうが、その親鸞聖人の御心を聞き損なったために、ヘンテコな解釈になり、30年前に一度だけ説明をしてみたものの自己矛盾に陥って、それからは説明しようともしなかったのでしょう。

今更、真宗学を学んでいくつもりもないでしょうし、18願の説明をする気もないのですから、高森会長の話を聞く暇があるなら、落語でも聞いていた方がマシです。

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コメント

高森会長の話を聞いてもそのまま落ちていくだけなので、まさに落語です。

投稿: | 2016年11月17日 (木) 17時12分

うまいこと言いますね。

投稿: 飛雲 | 2016年11月17日 (木) 18時23分

念仏為本と言われる法然上人の「選択本願念仏集」の中に十八願成就文を根拠に論理を展開しておられる。ここに論を展開されたのは凄い。
信心為本と言われる親鸞聖人は「教行信証」に十八願成就文を根拠に論理を展開しておられる。
聖人は念仏誹謗の嵐の中、風を和らげるため大経の中で、十八願成就文を根拠に、十八願文を読み解けば、世の風圧は弱まる。しかもそこには念仏が影を潜める。
しかし、正信念仏偈の弥陀章・結誡には「弥陀仏本願念仏~難中之難無過斯」と本意を記述されている。
飛雲師は、問題点を見事に整理されてます。   なんまんだぶ なんまんだぶ

投稿: | 2016年11月23日 (水) 20時00分

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