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2016年11月

2016年11月19日 (土)

18願を知らないから成就文も当然知らない高森顕徹会長

親鸞会の関連会社の社長だった人が、社長だけでなく会員も辞めています。理不尽さと非常識、そしておかしな教義に呆れ果てて、真面目な人ほど親鸞会を去っていきます。高森顕徹会長のカリスマ性も無くなり、元々レパートリーの少なかった話が更に限定されてきて、高森会長の話を聞くことが苦痛としか感じられない会員も多いと思います。

高森会長の話で、正しそうな言い回しとして、

念仏で助かるのではなく信心一つで助かるのだ

というのがありますが、言葉上は間違いではないのですが、意味が間違っています。

高森会長がその根拠としてきたのが、18願成就文の「乃至一念」で

18願には信心と念仏が誓われていてどちらで助かるかわからないが、成就文では念仏がないから信心一つで助かるということがハッキリする

という理屈です。
それで念仏を否定して信心だけを勧めるのですが、そこが根本的な間違いです。
簡単に言えば、信心と念仏を別のものとしか考えられないことが原因です。

このように言うと、

親鸞聖人は成就文の「乃至一念」を信の一念として解釈されている

と尤もらしいことを言ってくる薄学の講師や幹部会員がいるかもしれませんので、一応解説をしておきます。

成就文の「乃至一念」について、法然上人は念仏として教えられてきました。『選択本願念仏集』に

第十八の念仏往生の願、あに孤りもつて成就せざらんや。しかればすなはち念仏の人みなもつて往生す。なにをもつてか知ることを得る。
すなはち念仏往生の願成就の文に、「もろもろの衆生ありて、その名号を聞きて信心歓喜して、乃至一念、心を至して回向してかの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得て不退転に住す」といふこれなり。

と仰っていることから、「念仏の人みなもつて往生す」根拠として成就文を出されていることから明らかです。

ところが親鸞聖人はこれを『教行信証』信巻で信心と仰っています。

それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。
ここをもつて『大経』にのたまはく、「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」と。

成就文の「乃至一念」を法然上人が念仏と仰ったのを親鸞聖人は信心で解釈されたのですが、ここで親鸞聖人が法然上人の仰せを否定されたと考えるのは間違いです。どういうことかと言えば、親鸞聖人は法然上人の仰せに対して補足説明をされただけだということです。

その証拠が、18願のことを親鸞聖人は「念仏往生の願」と何度も仰っていることです。

それだけでは捻くれた会員は納得しないでしょうから、他の根拠を示しておきます。

『教行信証』をまとめられた『浄土文類聚鈔』には少し長いですが

行といふは、すなはち利他円満の大行なり。すなはちこれ、諸仏咨嗟の願(第十七願)より出でたり。また諸仏称名の願と名づけ、また往相正業の願と名づくべし。しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相について大行あり、また浄信あり。大行といふは、すなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はあまねく一切の行を摂し、極速円満す。ゆゑに大行と名づく。このゆゑに称名はよく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはち憶念なり、憶念はすなはち念仏なり、念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。
願(第十七・十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳、不可思議にましますことを讃嘆したまふ。諸有の衆生、その名号を聞きて、信心歓喜し乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す」と。

とあります。行の説明に18願成就文を引かれています。
もう一つ『三経往生文類』にも

この如来の往相回向につきて、真実の行業あり。すなはち諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。称名の悲願は『大無量寿経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟しわが名を称せずは、正覚を取らじ」と。[文]
称名・信楽の悲願(第十七・十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳、不可思議なるを讃嘆したまふ。あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜して乃至一念せん。至心回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するを除く」と。

とあります。同じく行の説明に18願成就文が引かれています。

以上の意味については『末灯鈔』にあります。

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。

(現代語訳)

信の一念と行の一念とは言葉は二つでありますが、 信を離れた行もありませんし、 行の一念を離れた信の一念もありません。 なぜなら、 行というのは、 本願に誓われている名号を一声称えて浄土に往生するということを聞いて、 一声でも称え、 あるいは十声でも称えることをいうのであり、 この本願を聞いて、 疑う心が少しもないことを信の一念というのです。 ですから信と行とは二つではありますが、 名号を一声称えて往生すると聞いて疑う心がないので、 行を離れた信はないとうかがっています。 また、 信を離れた行もないとお考えください。

簡単なことで、18願に信心と念仏が誓われているのと同様に、その成就文にも信心と念仏両方があります。なぜなら、信心と念仏とは密接不離であるのです。

高森会長は、18願の意味も間違っていますから、成就文の意味も間違っているのは至極当然なことであり、驚くことではありません。

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2016年11月15日 (火)

昔は言葉だけは正しかったもののずれていた解釈、今では解釈以前に言葉もずれまくりの高森顕徹会長

高森顕徹会長は、大学で真宗学を真面目に学んでこなかったので、18願の救いが如何なるものか、全く判っていません。元々おかしい説明が、最近はよりおかしくなっています。

今から約30年前の滋賀降誕会で、高森会長は突如、真宗学用語を説明したことがあります。

親鸞聖人の教えを漢字6字で言うと機無円成回施である

実にまともなことを当時は言っていましたが、このように言ったことは後にも先にもこれ一度きりでした。
機無円成回施について説明しますと、親鸞会でも有名な『教行信証』信巻の至心釈に

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。
すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。

(現代語訳)

すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。
そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間も清らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことがない。如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあっていて、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできない、この上ない智慧の徳を成就された。
如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。
この至心は、如来より与えられた真実心をあらわすのである。だからそこに疑いのまじることはない。

こうある内容です。
衆生には、仏に成れるような因である清浄心、真実心がないことを最初に仰っています。これを「機無」と言います。善が一切できないではなく、仏に成れるような善ができないです。
この「機無」を本として法蔵菩薩が衆生のために本願を建てて下され、清浄心、真実心をもって行を行じられ、名号を成就なされたことを仰ったのが第二・第三文で、「円成」と言います。
第四文は、不可思議功徳の名号を阿弥陀仏が衆生に向って等しく与えて下されることを仰ったもので、「回施」と言われます。
最後の二文は、他力回向の真実心を衆生は賜わるので、自力の一切混じるものではないことを仰っています。

同様のことを信楽釈でも仰っています。

一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。
如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。
これを利他真実の信心と名づく。

(現代語訳)

すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。
なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。
如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。
これを他力の真実の信心というのである。

もちろん欲生釈にもあります。

微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。
このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。

(現代語訳)

あらゆる衆生は、煩悩に流され迷いに沈んで、まことの回向の心がなく、清らかな回向の心がない。
そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまでも、衆生に功徳を施し与える心を本としてなされ、それによって如来の大いなる慈悲の心を成就されたのである。そして他力真実の欲生信を、迷いの衆生に施し与えられたのである。すなわち、衆生の欲生心は、そのまま如来が回向された心であり大いなる慈悲の心であるから、疑いがまじることはない。

約30年前に高森会長が言っていたことは、珍しく正しかったのですが、その意味にずれがありました。

悪人は悪しかできないことで六道から出離できず、善のできる善人も真実の善ができず雑毒の善にしかならないから真実の報土に往生できないということです。

難度海で苦しんでいるとは「機無」、つまり出離できない報土往生できないことであって、丸太や板切れ、泳ぎ方しか考えていないことではありません。

出離したい、報土往生したいと願っても叶わない衆生のために、阿弥陀仏が代わりに御修行なされて報土往生の因を積まれて衆生に与えて下されている、だから難思の弘誓と親鸞聖人は仰っているのです。これが理解できれば、宿善が厚くならないととか、善の勧めがあるとか、三願転入しなければならないとか、そんな発想が出てきようがありません。

親鸞聖人の教えを漢字6字で言うと機無円成回施である

これは大学の授業で、何かの拍子に覚えたのでしょうが、その親鸞聖人の御心を聞き損なったために、ヘンテコな解釈になり、30年前に一度だけ説明をしてみたものの自己矛盾に陥って、それからは説明しようともしなかったのでしょう。

今更、真宗学を学んでいくつもりもないでしょうし、18願の説明をする気もないのですから、高森会長の話を聞く暇があるなら、落語でも聞いていた方がマシです。

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2016年11月 6日 (日)

変な譬え話が更に変になり、真宗教義の欠片もなくなった高森教

親鸞会は、聖教上の御文を使わなくなり高森教と化して久しいのですが、これまで言ってきた変な譬え話までも変化しています。

映画のメインになった幼稚な話、大海に放り出された人が浮かんだ丸太や板切れに掴る云々ですが、その人が何を考えているかについて、どう泳ぐのか、泳ぎ方のことだけだ、と高森顕徹会長が尤もらしく話をしています。

丸太や板切れについては、以前におかしいことを指摘しましたが、益々おかしな説明になりました。皆さんは、気が付かれたでしょうか。どう泳ぐ、泳ぎ方、を考えるのは、泳げる人です。溺れている人ではありません。泳ぐことのできる善人についての譬えであって、泳げない溺れている悪人は、この譬えでは除外されているのです。昔は、溺れて水飲んで苦しんでいる人だと説明していたので、変なりにも許容範囲だったかもしれませんが、今は完全に逸脱しています。

当然ですが、高森会長には18願の根本が判っていないし、浄土門の基礎の基礎がない証拠です。

善導大師は『玄義分』に有名なお言葉を残しておられます。

しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。 また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。

(現代語訳)

ところで、 仏の大悲は苦しむ者に対するのであって、 そのお心はひとえにいつも迷いに沈んでいる衆生をあわれみたもうのである。 そこで浄土に帰するよう勧められる。 また水に溺れているような人は、 いそいで特に救わねばならないが、 岸の上にいる者はどうして救う必要があろうか。

高森会長も、以前は時々口に出して言ったことのある一説ですが、お得意のパクリで意味も判らず使っていただけなのでしょう。

どう泳ぐか、泳ぎ方ばかりを考えているという高森会長の説明は、どこをどう贔屓目に見ても、浄土門ではなく、聖道門に近い発想です。もちろん聖道門でもないですから高森教としか言いようがありません。

浄土真宗の教えは、本願力回向の教えです。阿弥陀仏が兆載永劫の御修行によって成就された功徳を衆生に与えられることをいいます。つまり、往生のために衆生の側で何かを加えたり添える必要がないということです。高森会長が知らない真宗の超常識です。

高森会長が、泳ぎ方を考えるとか、因果の道理から善を勧めれば勧めるほど、本願力回向を否定することになります。なぜなら、阿弥陀仏が兆載永劫の御修行による功徳では足りないと言っていることになるからです。
高森会長自身だけではなく、会員にも仏智不思議の本願力回向を疑わせる恐ろしい罪を造らせているのです。親鸞聖人は、御著書の中で何回もそのことを誡められ、高森会長の説を完全に否定されています。最も判りやすいのが、『正像末和讃』誡疑讃の

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

です。大海に放り出されて、泳ぎ方を常に考えている人のことを仰ったものです。罪福の因果の道理を信じて善を行っている人は、本願力回向を疑っているから、本願力回向によって往ける報土ではなく、その人の自業自得で、七宝の獄という化土に往くことになる、と教えられたています。

親鸞聖人の教えの肝心要の本願力回向というお言葉は、『教行信証』信巻にあります。

「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。

親鸞会の会員も退会者も、「本願力の回向の大信心海」を獲たいと思うのであれば、本願力回向と反する高森会長の説く聖道門もどきの発想を頭から消し去ることです。善ができるとか善をしようとおもっているとか、因果の道理がどうのこうのという泳ぎ方もです。もっと言えば、「本願力の回向の大信心海」を獲るために努力するのではなく、本願力回向を否定する努力を止めることです。

泳ごうとするな

これが会員に伝えたいメッセージです。高森教の教祖には、このメッセージは理解できないと思います。

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