木の深信が立った高森顕徹会長
親鸞会が現在唯一使う根拠が
難思の弘誓は難度海を度する大船
です。
ここで最も重要なお言葉は言うまでもなく「難思の弘誓」で、18願のことですが、この説明を高森顕徹会長はしません。敢えて説明を避けているのでしょう。その理由は、説明したら非難されることが判っているからです。
高森会長は非難を極度に畏れています。それで非難されない内容として「難度海」の説明に終始していますが、そこもずれています。
高森会長の説明は
難度海に丸太や板切れが浮いていて、丸太や板切れは 金や財産、健康、名誉、地位、妻子、邪教、迷信などと言っています。
こんな感じですが、この譬えは高森会長のオリジナルかと言えば、やはりパクリです。
伊藤康善師による『仏敵』の中に
「じゃ、君に一つの譬えを出そう。君は今、生死の苦海に漂っているとする。そこへ大木が漂流していたら、君はそれにすがるかい?」
「私はすがります」
とあります。
聖教を読んだことのない高森会長は、これが正統的な解釈と勘違いしているのでしょう。
今後も聖教を読むことがないでしょうから、少しだけ教えておきます。
「難度海」の元は、『十住毘婆沙論』易行品です。『教行信証』行巻にも引かれています。
かの八道の船に乗じて、よく難度海を度す。みづから度し、またかれを度せん。
(現代語訳)
八聖道という船に乗って、渡ることのできない迷いの海を超えるのである。自ら仏となって迷いの海を渡り、またあらゆる人を救って迷いの海を渡してくださる
お判りかと思いますが、「難度海」とは迷いの世界を出ることが難い、つまり我らは六道から離れられない、出離できないことを仰ったものです。
金や財産、健康、名誉、地位、妻子という丸太や板切れのレベルの話をされているのではありません。
「難度海」の言い換えとしてよく使われる「苦海」は善導大師の『法事讃』にあり、『教行信証』化土巻に引かれています。
循々として愛波に沈みて苦海に沈む。仏道人身得がたくしていますでに得たり。浄土聞きがたくしていますでに聞けり。信心発しがたくして、いますでに発せり。
(現代語訳)
衆生は、すべての迷いの世界を繰り返し輪廻してとどまることがなく、めぐりめぐって長い間欲望の波にのまれ、苦しみの海に沈み続けている。そのように人間として生れ仏道を歩むのは難しいのに、わたしは今すでにそれを得ることができた。浄土の教えを聞くのは難しいのに、今すでに聞くことができた。信心をおこすのは難しいのに、今すでにおこすことができた
この「苦海」も「難度海」と同じで、出離できずに苦しんでいることを仰っているのであって、裏切られる世間的な幸せを信じているとかのレベルではないのです。
仏教を聞いて、出離を求めながら出離できない凡夫の世界を「難度海」「苦海」と表現されていて、出離の道は18願しかないことを示されていることが、容易に判られると思います。
丸太や板切れを信じて苦しんでいるという話を、どれだけ真剣に何百年聞いたところで、「大船」に乗ることはできません。そもそも方向が違っているのです。
世間的な幸福云々を越えた出離を目指した上で、自分の力では出離できないことを知って18願に帰依することを教えられたのです。勘の良い方は気が付かれたと思いますが、二種深信と同じなのです。
機の深信を、丸太や板切れに裏切られることを深信したことだ、とは高森会長でもさすがに言わないのですが、「難度海」「苦海」と機の深信とが完全に無関係だとしか思っていないのでしょう。。
高森会長がもし本当に、機の深信が立っているなら、こんな愚かな説明を自信満々、映画でも法話でもしません。
つまりは、丸太や板切れに拘っていることそのままが、高森会長は機の深信ではなく木の深信という珍しい信心を獲た人物だということです。映画を宣伝すればするほど、嘲笑の的となっていることも知らずに。
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コメント
会長の意図が何かというと、持ってる金は浮いている木だからそんなものに執着せずこっちに差し出せということに過ぎないでしょう
投稿: | 2016年10月 8日 (土) 04時17分
日本語は主語を省略するなどとにかく省略が多いから誰が言ったか何のことなのか書かれてない文脈だと、
切り出したり文脈を理解してなかったりすると意味が全然変わってしまう場合が多いので会長のようなモンスターが利用してしまう
投稿: | 2016年10月17日 (月) 05時09分
会長の珍解釈を絶対として、聖教に対し録な考察をしないのには抵抗があった。
説明出来ないから語らないだけなのに、深いミココロがどーのこーのと。衰退するのも当然
投稿: | 2016年10月17日 (月) 23時35分