18願の救いと聖道門との違いさえも認識できない高森顕徹会長
親鸞会では聖教上の根拠を使わないようにしていることは、何度も書いてきました。そのために、親鸞会の教義は、高森顕徹会長の理屈で成り立っています。尤も、高森会長も以前は聖教上の根拠に基づいて話をしているつもりでした。高森会長の理屈も完全におかしいものしかなく、退会者から完膚なきまでに論破されてしまって、言えなくなったものも多いのですが、理屈の最後の砦が、
親鸞聖人も仏教を教えられたのだから、善の勧めがあるに決まっている
というものです。
会員と話をしていると、起死回生を狙って最後に必ず言ってくるセリフです。
もちろん、間違いです。
根拠を出す前に、理屈で説明しましょう。
親鸞聖人は、善を勧められたお言葉がありません。無いということは、教えられなかった、教える必要がなかった、という結論にしかなりません。救いに必要だけれども、必要なことを教えられていない、という理屈が成り立つかどうかは、考えるまでもない話です。善を勧められたお言葉がないのに、親鸞聖人の本心は善を勧められている、というのは、土蔵秘事に類するものか、親鸞会が邪教と罵る宗教と同じです。
次に根拠を挙げます。
根拠はいくつかありますが、最も判りやすいのが『改邪鈔』のお言葉です。
おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。
現代語訳(石田瑞磨著『親鸞全集』より)
おおよそ他力の教えは、釈尊一代の説法に一度も例がない、通常一般の聖道門の教えとはまったく別のものであって、言語を超絶した、思惟のとどかないものである、といわれるが、それは、愚かなひとが真実の浄土に生れるということから、そういわれるのである。もし因果は相互にめぐりあうという道理にしたがうならば、釈尊と阿弥陀仏と諸仏が骨折られた、他力という、勝れた浄土への特別な教えも空しくなってしまうだろう。その理由は、お助けになろうとする目当てである、生をうけたすべてのものが、因果は相互にめぐりあうという道理にとじこめられて、独自の誓いによってつくられた真実の浄土に生れることができないからである。
「おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なり」、ここだけでも知っているなら、高森会長の理屈など言語道断だとお判り頂けると思います。聖道門の理屈を適用しようという考え自体が、親鸞聖人の教えを知らない証拠になります。
覚如上人は「釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途」とも再度仰っていますが、聖道門と並列で考えることしてはいけないのが親鸞聖人の教えです。
高森会長が素人相手にどんな屁理屈を考えてきても、退会者の皆さんは何も動じることはありません。高森会長の理屈を根拠を以って粛々と否定するだけです。
高森会長のことを、親鸞聖人の教えを離れても頭脳は世間一般の人より遥かに上だ、と勘違いしている会員も多いでしょうが、おめでたい誤解です。親鸞会でいう邪教の教祖の方が、高森会長より頭はいいでしょう。
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コメント
その『改邪鈔』のお言葉に感銘を受けました。
御仏はワープする方法を授けてくださった。
これでヤマトはイスカンダルへ行けるわけです。笑
投稿: | 2016年10月21日 (金) 00時29分
改邪鈔見ていての感想です。
親鸞会の会員用月刊誌B-ヤングで、最近因果の道理の話が特によく出ています。善因善果、悪因悪果、自因自果と。もちろん縁も忘れてはいませんが。本願力回向のご信心は我々にはわかりません。初歩の因果の道理なら誰にもわかるし、潜在的に強迫観念を植え付けられる。これが会の運営の玉手箱です。生死即涅槃とか煩悩即菩提とか罪障功徳の体とかは、「あーそーか」と思うしか心に落ちないでしょう。
投稿: | 2016年10月21日 (金) 20時18分
前の名無し 様
そういうことです。
後の名無し 様
親鸞会で言っている因果の道理は、贔屓目に見ても小乗仏教の因果の道理です。
大乗仏教は、空の思想です。修行によって得られる功徳を自己のものと固執するのではないとするのが空です。つまり、功徳は他に与えることができる(回向)というのが、大乗仏教の因果の道理と言えます。阿弥陀仏が御修行によって得られる功徳を他に与える、これが本願力回向です。
空の思想は我らが容易に理解できるものではありません。もちろん高森会長が理解できるわけがないし、知りもしないでしょう。
投稿: 飛雲 | 2016年10月21日 (金) 20時33分
先ほど津波被害の大川小学校訴訟の裁判で原告勝利判決のニュースがありましたが
原告団の人たちの「先生の言うことを聞いていたのに!!」という横断幕が親鸞会のことを想起させました
投稿: | 2016年10月26日 (水) 17時07分