« 2016年9月 | トップページ | 2016年11月 »

2016年10月

2016年10月28日 (金)

弥陀の誓願不思議と摩訶不思議な体験・信心との違いが理解できない高森顕徹会長

何十年の講師部員・会員でも、親鸞会の異常な活動についてゆけずに辞めていく人は後を絶ちませんが、それでも親鸞会が異常性を改めないのは、そうしなければ会を維持できないからです。講師部員・幹部会員への締め付けは年々酷くなり、特に献金の要求は他の宗教団体の追随を許さないところまできています。

こんな異常な中にあっても、親鸞会を辞めない人の心理は、高森顕徹会長の摩訶不思議な体験と信心に魅力を感じているからでしょう。しかしそれは、麻原死刑囚の空中浮揚の神秘性に惹かれてオウムに入った信者と全く同じです。

言うまでもなく、高森会長の言っている摩訶不思議な体験も信心も、阿弥陀仏の救いや親鸞聖人の教えとは関係がありません。

親鸞聖人は不思議、不可思議というお言葉を良く使われますが、それは阿弥陀仏の救いが不思議、不可思議と言うことであって、体験や信心が不思議、不可思議なのではありません。

会員には何のことか理解できないと思いますので、少し説明します。

親鸞聖人は『教行信証』行巻に念仏と諸善とを比較された中に

思不思議対
(現代語訳)
念仏は不可思議の仏智の顕現であり、諸善は分別思議の法である。

があります。
念仏で往生し成仏するということが、到底考えられないことだということです。それに対して諸善で往生や成仏することは不思議でもなんでもないことです。諸善で宿善が厚くなって獲信に近づくという理屈も不思議でもなんでもないことです。そんな理屈も思議も全く及ばない救いであるから、不思議なのです。もちろん諸善で宿善が厚くなってとか、諸善の道程とかがない救いなので、不思議なのです。

蓮如上人の愛読書であった『安心決定鈔』には

まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」(玄義分)とほめたまへり。

とありますように、救いを求める我らが願を立て行を励むのが筋であるのに、願も行も法蔵菩薩が励まれて、それでいて受ける結果は我らの往生となるのです。世間の理屈でも聖道門の因果の道理にも全くあわないことなので、善導大師は18願を「別異の弘願」と仰って褒め称えられたのです。

もう一度言いますと、不思議、不可思議なのは念仏で往生成仏させると誓われた阿弥陀仏の救いであって、体験や信心が不思議、不可思議なのではありません。我らが善を全くしないのに往生し成仏できるから、考えられないことと親鸞聖人が仰っているのです。

こういうと、信心は地獄行き間違いなしと極楽参り間違いなしの2つが同時に起こる絶対矛盾的自己同一で不思議だろう、と反論するでしょうが、そんな信心は未来永劫起こりません。そんな個人的な味わい感想はあっても、それは信心ではありません。
二種深信は、善では助からない、念仏で助かると心が定まったことをいうのです。二種深信自体は理屈上矛盾ではありません。助かる手段が善か念仏かの選択だからです。ただ、無善で念仏のみで助かるという理屈が矛盾にしか思えないことを不思議、不可思議と仰っているのです。

ここまで説明しても、善なしで信仰が進むなんて考えられない、三願転入せずしてどうして救われるのか、と納得できない会員が多いでしょう。だから、不思議、不可思議なのです。

高森会長自身も、弥陀の誓願不思議と摩訶不思議な体験・信心との違いが理解できていないことは、言うまでもありません。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2016年10月20日 (木)

18願の救いと聖道門との違いさえも認識できない高森顕徹会長

親鸞会では聖教上の根拠を使わないようにしていることは、何度も書いてきました。そのために、親鸞会の教義は、高森顕徹会長の理屈で成り立っています。尤も、高森会長も以前は聖教上の根拠に基づいて話をしているつもりでした。高森会長の理屈も完全におかしいものしかなく、退会者から完膚なきまでに論破されてしまって、言えなくなったものも多いのですが、理屈の最後の砦が、

親鸞聖人も仏教を教えられたのだから、善の勧めがあるに決まっている

というものです。
会員と話をしていると、起死回生を狙って最後に必ず言ってくるセリフです。

もちろん、間違いです。

根拠を出す前に、理屈で説明しましょう。

親鸞聖人は、善を勧められたお言葉がありません。無いということは、教えられなかった、教える必要がなかった、という結論にしかなりません。救いに必要だけれども、必要なことを教えられていない、という理屈が成り立つかどうかは、考えるまでもない話です。善を勧められたお言葉がないのに、親鸞聖人の本心は善を勧められている、というのは、土蔵秘事に類するものか、親鸞会が邪教と罵る宗教と同じです。

次に根拠を挙げます。
根拠はいくつかありますが、最も判りやすいのが『改邪鈔』のお言葉です。

おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。そのゆゑは、たすけましまさんとする十方衆生たる凡夫、因果相順の理に封ぜられて、別願所成の報土に凡夫生るべからざるゆゑなり。

現代語訳(石田瑞磨著『親鸞全集』より)

おおよそ他力の教えは、釈尊一代の説法に一度も例がない、通常一般の聖道門の教えとはまったく別のものであって、言語を超絶した、思惟のとどかないものである、といわれるが、それは、愚かなひとが真実の浄土に生れるということから、そういわれるのである。もし因果は相互にめぐりあうという道理にしたがうならば、釈尊と阿弥陀仏と諸仏が骨折られた、他力という、勝れた浄土への特別な教えも空しくなってしまうだろう。その理由は、お助けになろうとする目当てである、生をうけたすべてのものが、因果は相互にめぐりあうという道理にとじこめられて、独自の誓いによってつくられた真実の浄土に生れることができないからである。

おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なり」、ここだけでも知っているなら、高森会長の理屈など言語道断だとお判り頂けると思います。聖道門の理屈を適用しようという考え自体が、親鸞聖人の教えを知らない証拠になります。
覚如上人は「釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途」とも再度仰っていますが、聖道門と並列で考えることしてはいけないのが親鸞聖人の教えです。

高森会長が素人相手にどんな屁理屈を考えてきても、退会者の皆さんは何も動じることはありません。高森会長の理屈を根拠を以って粛々と否定するだけです。

高森会長のことを、親鸞聖人の教えを離れても頭脳は世間一般の人より遥かに上だ、と勘違いしている会員も多いでしょうが、おめでたい誤解です。親鸞会でいう邪教の教祖の方が、高森会長より頭はいいでしょう。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2016年10月 7日 (金)

木の深信が立った高森顕徹会長

親鸞会が現在唯一使う根拠が

難思の弘誓は難度海を度する大船

です。

ここで最も重要なお言葉は言うまでもなく「難思の弘誓」で、18願のことですが、この説明を高森顕徹会長はしません。敢えて説明を避けているのでしょう。その理由は、説明したら非難されることが判っているからです。
高森会長は非難を極度に畏れています。それで非難されない内容として「難度海」の説明に終始していますが、そこもずれています。

高森会長の説明は

難度海に丸太や板切れが浮いていて、丸太や板切れは 金や財産、健康、名誉、地位、妻子、邪教、迷信などと言っています。

こんな感じですが、この譬えは高森会長のオリジナルかと言えば、やはりパクリです。
伊藤康善師による『仏敵』の中に

「じゃ、君に一つの譬えを出そう。君は今、生死の苦海に漂っているとする。そこへ大木が漂流していたら、君はそれにすがるかい?」
「私はすがります」

とあります。
聖教を読んだことのない高森会長は、これが正統的な解釈と勘違いしているのでしょう。

今後も聖教を読むことがないでしょうから、少しだけ教えておきます。

「難度海」の元は、『十住毘婆沙論』易行品です。『教行信証』行巻にも引かれています。

かの八道の船に乗じて、よく難度海を度す。みづから度し、またかれを度せん。

(現代語訳)

八聖道という船に乗って、渡ることのできない迷いの海を超えるのである。自ら仏となって迷いの海を渡り、またあらゆる人を救って迷いの海を渡してくださる

お判りかと思いますが、「難度海」とは迷いの世界を出ることが難い、つまり我らは六道から離れられない、出離できないことを仰ったものです。
金や財産、健康、名誉、地位、妻子という丸太や板切れのレベルの話をされているのではありません。

難度海」の言い換えとしてよく使われる「苦海」は善導大師の『法事讃』にあり、『教行信証』化土巻に引かれています。

循々として愛波に沈みて苦海に沈む。仏道人身得がたくしていますでに得たり。浄土聞きがたくしていますでに聞けり。信心発しがたくして、いますでに発せり。

(現代語訳)

衆生は、すべての迷いの世界を繰り返し輪廻してとどまることがなく、めぐりめぐって長い間欲望の波にのまれ、苦しみの海に沈み続けている。そのように人間として生れ仏道を歩むのは難しいのに、わたしは今すでにそれを得ることができた。浄土の教えを聞くのは難しいのに、今すでに聞くことができた。信心をおこすのは難しいのに、今すでにおこすことができた

この「苦海」も「難度海」と同じで、出離できずに苦しんでいることを仰っているのであって、裏切られる世間的な幸せを信じているとかのレベルではないのです。
仏教を聞いて、出離を求めながら出離できない凡夫の世界を「難度海」「苦海」と表現されていて、出離の道は18願しかないことを示されていることが、容易に判られると思います。

丸太や板切れを信じて苦しんでいるという話を、どれだけ真剣に何百年聞いたところで、「大船」に乗ることはできません。そもそも方向が違っているのです。
世間的な幸福云々を越えた出離を目指した上で、自分の力では出離できないことを知って18願に帰依することを教えられたのです。勘の良い方は気が付かれたと思いますが、二種深信と同じなのです。
機の深信を、丸太や板切れに裏切られることを深信したことだ、とは高森会長でもさすがに言わないのですが、「難度海」「苦海」と機の深信とが完全に無関係だとしか思っていないのでしょう。。

高森会長がもし本当に、機の深信が立っているなら、こんな愚かな説明を自信満々、映画でも法話でもしません。

つまりは、丸太や板切れに拘っていることそのままが、高森会長は機の深信ではなく木の深信という珍しい信心を獲た人物だということです。映画を宣伝すればするほど、嘲笑の的となっていることも知らずに。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

« 2016年9月 | トップページ | 2016年11月 »