弥陀の誓願不思議と摩訶不思議な体験・信心との違いが理解できない高森顕徹会長
何十年の講師部員・会員でも、親鸞会の異常な活動についてゆけずに辞めていく人は後を絶ちませんが、それでも親鸞会が異常性を改めないのは、そうしなければ会を維持できないからです。講師部員・幹部会員への締め付けは年々酷くなり、特に献金の要求は他の宗教団体の追随を許さないところまできています。
こんな異常な中にあっても、親鸞会を辞めない人の心理は、高森顕徹会長の摩訶不思議な体験と信心に魅力を感じているからでしょう。しかしそれは、麻原死刑囚の空中浮揚の神秘性に惹かれてオウムに入った信者と全く同じです。
言うまでもなく、高森会長の言っている摩訶不思議な体験も信心も、阿弥陀仏の救いや親鸞聖人の教えとは関係がありません。
親鸞聖人は不思議、不可思議というお言葉を良く使われますが、それは阿弥陀仏の救いが不思議、不可思議と言うことであって、体験や信心が不思議、不可思議なのではありません。
会員には何のことか理解できないと思いますので、少し説明します。
親鸞聖人は『教行信証』行巻に念仏と諸善とを比較された中に
思不思議対
(現代語訳)
念仏は不可思議の仏智の顕現であり、諸善は分別思議の法である。
があります。
念仏で往生し成仏するということが、到底考えられないことだということです。それに対して諸善で往生や成仏することは不思議でもなんでもないことです。諸善で宿善が厚くなって獲信に近づくという理屈も不思議でもなんでもないことです。そんな理屈も思議も全く及ばない救いであるから、不思議なのです。もちろん諸善で宿善が厚くなってとか、諸善の道程とかがない救いなので、不思議なのです。
蓮如上人の愛読書であった『安心決定鈔』には
まことに往生せんとおもはば、衆生こそ願をもおこし行をもはげむべきに、願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。和尚(善導)はこれを「別異の弘願」(玄義分)とほめたまへり。
とありますように、救いを求める我らが願を立て行を励むのが筋であるのに、願も行も法蔵菩薩が励まれて、それでいて受ける結果は我らの往生となるのです。世間の理屈でも聖道門の因果の道理にも全くあわないことなので、善導大師は18願を「別異の弘願」と仰って褒め称えられたのです。
もう一度言いますと、不思議、不可思議なのは念仏で往生成仏させると誓われた阿弥陀仏の救いであって、体験や信心が不思議、不可思議なのではありません。我らが善を全くしないのに往生し成仏できるから、考えられないことと親鸞聖人が仰っているのです。
こういうと、信心は地獄行き間違いなしと極楽参り間違いなしの2つが同時に起こる絶対矛盾的自己同一で不思議だろう、と反論するでしょうが、そんな信心は未来永劫起こりません。そんな個人的な味わい感想はあっても、それは信心ではありません。
二種深信は、善では助からない、念仏で助かると心が定まったことをいうのです。二種深信自体は理屈上矛盾ではありません。助かる手段が善か念仏かの選択だからです。ただ、無善で念仏のみで助かるという理屈が矛盾にしか思えないことを不思議、不可思議と仰っているのです。
ここまで説明しても、善なしで信仰が進むなんて考えられない、三願転入せずしてどうして救われるのか、と納得できない会員が多いでしょう。だから、不思議、不可思議なのです。
高森会長自身も、弥陀の誓願不思議と摩訶不思議な体験・信心との違いが理解できていないことは、言うまでもありません。
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