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2016年9月13日 (火)

真実の信心を教えられた親鸞聖人、他教の信心を教える高森顕徹会長

『宗教問題15』につきましては、すでに読まれた方もあると思います。この中で高森顕徹会長が最も知られたくない内容は、本願寺との法論が実際どうであったのかでしょう。
親鸞会は、本願寺に勝った、と執拗に宣伝してきましたが、事実は全く違っています。言わば、反社会的組織からの嫌がらせにうんざりして、反社会的組織から距離をおいた、こういうことです。
当時も今も、親鸞会は法論での負けが見えてくると持ち出すのが、真実の信心です。真実の信心は高森会長の専売特許、との痛い勘違いから、喜劇を見せてくれます。紅楳英顕師の法話中に信心を獲たか詰問して、それに対する紅楳師の信心決定宣言に逃げ帰ったことなどは、その典型でしょう。

では、高森会長の説明する真実信心が、親鸞聖人のお言葉と一致しているかと言えば、当然相違しています。

高森会長が、18願の「若不生者」の「」を信楽に生まれると言い続けて恥をかいたのは、周知の事実ですが、その信楽の説明さえも間違っています。

高森会長の信楽の解釈と言えば、

大安心、大満足、絶対の幸福

とか創価学会的な説明になっていますが、親鸞聖人の説明は違います。
『教行信証』信巻の信楽釈は、

しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。
一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。
また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。
如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。

(現代語訳)

ところで、 はかり知れない昔から、 すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、 多くの苦しみに縛られて、 清らかな信楽がない。 本来まことの信楽がないのである。 このようなわけであるから、 この上ない功徳に遇うことができず、 すぐれた信心を得ることができないのである。
すべての愚かな凡夫は、 いついかなる時も、 貪りの心が常に善い心を汚し、 怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。 頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、 それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、 嘘いつわりの行といって、 真実の行とはいわないのである。 この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、 決して生れることはできない。
なぜかというと、 阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、 その身・口・意の三業に修められた行はみな、 ほんの一瞬の間に至るまで、 どのような疑いの心もまじることがなかったからである。 この心、 すなわち信楽は、 阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、 必ず真実報土にいたる正因となるのである。

如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、 この上ない功徳をおさめた清らかな信を、 迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。 これを他力の真実の信心というのである。

とあります。
親鸞会でも使うお言葉が含まれているので、高森会長は親鸞聖人の解釈を正しく伝えていると錯覚しがちですが、意味は違います。

親鸞聖人がここで仰っていることは、

凡夫には阿弥陀仏の報土に生まれることができるような善はできない。
それで阿弥陀仏が修行なされて、凡夫の代わりに報土に生まれる因をすべて作られてわれらに与えてくださった。
それを真実の信心という。

ということです。二種深信と同じですが、重要なことは、阿弥陀仏のなされた修行による因でわれらが報土往生できるということです。

高森会長も同じ説明をしていると思考停止会員は反論するでしょうが、高森会長の説明は親鸞聖人の仰せとは全く違います。

報土往生の因は、100%阿弥陀仏が用意して下されたものなので、われらの方で何かすることは不要なのです。もっと言えば、報土往生のために何かしてはいけないのです。

善をするとか19願を通るとかの考えは論外ですが、聴聞という行をしていかなければならないというのも間違いです。聴聞とは、

報土往生の因は、100%阿弥陀仏が用意して下されたものなので、われらの方で何かすることは不要なのです。もっと言えば、報土往生のために何かしてはいけないのです。

と聞いて疑いのないことです。
高森会長の話を正しく聞いて真実の信心が獲られることはあり得ません。高森会長の話を間違って聞けば真実の信心を獲られる可能性はあります。

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コメント

いつも過去記事を参考にさせて頂いております。

会員の思考にありがちな、

「聴聞することで横の道を進む」

的な考えは「聴聞という行をしていかなければならない」というのと一緒なのですね。

投稿: 淳心房 | 2016年9月13日 (火) 21時02分

何にしてもそうですが、「分かりやすく伝えるため」というもっともらしい理由で強引な解釈を種々してますね。大安心大満足など、いい例だと思います。そんな根拠などないくせに。

聖教の根拠より会長の解釈を重視させるのは実に巧みなマインドコントロールでした。

投稿: | 2016年9月13日 (火) 22時10分

淳心房様

会員の頭の中は、何もせずに救われる筈がない、命懸けで求めなければ救われない、という聖道門の考え方に支配されています。高森会長の話を聞けば、そうなるのは当然でしょう。


名無し様

会長は、口だけは上手いので、会員は簡単に騙されてしまうのです。私もその一人でしたが、聖教を読んで騙されていたことに気がつきました。

投稿: 飛雲 | 2016年9月14日 (水) 06時17分

親鸞会では、

たとひ大千世界に
  みてらん火をもすぎゆきて
  仏の御名をきくひとは
  ながく不退にかなふなり(浄土和讃)

このご和讃をよく根拠に示します。このお言葉から、聴聞という行をしていかなければ救われないと錯覚してしまいます。当方は、このご和讃のお言葉は、「凡夫でなく、菩薩方や聖人に云われた」と考えています。また、この不退は聖道門の初地、歓喜地のことだと思います。その理由は、このお言葉は、行巻にあり、信巻にないからです。間違った意見の場合、前もってお詫びいたします。

投稿: ショウ | 2016年9月14日 (水) 23時53分

シュウ様

これは、『讃阿弥陀仏偈』のお言葉を言い換えられたものですが、真剣な聞法の推奨ではなく、信心のすがたを著されたものだと思います。

投稿: 飛雲 | 2016年9月15日 (木) 21時12分

胸のすくご説明と頂いた。努力大好きな日本人には、大変にわかりにくい話だが、浄土真宗の「本願力回向」の信心は、今日のご説明の通りと受け取っている。肩透かしにあったようだが、これしかない。私がどうこうする世界でなくて、阿弥陀如来の助けぶりを「あーそーか」と頂くだけなのである。我執の塊の凡夫には、最も遠い世界ではある。なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

投稿: | 2016年9月19日 (月) 22時54分

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