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2016年9月

2016年9月24日 (土)

念仏誹謗の解釈しかしていない高森顕徹会長

阿弥陀仏の18願さえまともに学んだり、調べたこともないのが、高森顕徹会長です。高森会長が18願を言い換えていつも言っているのが、

どんな人をも 必ず助ける 絶対の幸福に

ですが、頓珍漢な内容です。創価学会用語の絶対的幸福を用いていること自体が、すでに他宗、他教の教えになっている証拠です。

前々回、善導大師の18願の言い換えを紹介しましたが、親鸞聖人も御自身のお言葉で、18願を言い換えられた所があります。

『末灯鈔』に

念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とてきらはれ候ふらんこと、おほかたこころえがたく候ふ。そのゆゑは、弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。

(現代語訳)

念仏して往生すると信じる人が、 辺地といわれる方便の浄土に往生するなどと嫌われるようなことは、 まったく理解できません。 なぜなら、 阿弥陀仏の本願は、 名号を称える人を極楽浄土へ迎えようとお誓いになっているのですから、 そのことを深く信じて名号を称えるのが尊いことなのです。 信心があるといっても、 名号を称えないようなら、 それは意味のないことです。 また、 ひとすじに名号を称えても、 信心が浅いようなら往生することはできません。 ですから、 念仏して往生すると深く信じて、 しかも名号を称える人は、 間違いなく真実の浄土に往生するのです。 結局のところ、 名号を称えるといっても、 本願他力を信じないようなら辺地に生れることでしょう。 本願他力を深く信じる人が、 どうして辺地に往生するようなことになるでしょうか。 このことをよく心得て、 念仏しなければなりません。

とあります。「弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。」の部分です。また、「念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。」とも仰っています。
18願とは、信心と念仏が揃って往生する、ということです。親鸞聖人は、往生と表現されているだけで、絶対の幸福らしきお言葉は存在しません。

重要なのは、信心の説明です。「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて」ですから、念仏は信心のオマケでも付録でもありません。
18願文の「乃至十念」をお礼の念仏としか説明していないし、高森会長自身もそう考えていることが、他宗、他教の者だということです。

親鸞聖人は18願のことを念仏往生の願と仰っているのですから、「乃至十念」の念仏が、信後の報謝の念仏に限るなどとは言える筈もないです。
信心正因称名報恩を誤解している無知な高森会長ですが、もう一度いいますと信心とは、「名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じて」ですし、念仏往生なので、信心と念仏とは不可分です。

親鸞会では、念仏を称えて往生すると言う人は、間違いであり、必堕無間だと創価学会と同じ念仏誹謗をいいますが、それは親鸞聖人が間違いを指摘された、「念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とてきらはれ候ふらんこと、おほかたこころえがたく候ふ。」を遥かに超えたトンデモ邪義です。

親鸞会にしか真実は教えられていない、と考えるマインドコントロールされている会員には、親鸞会には真実のかけらも教えられていない、と早く気付いてもらいたいものです。

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2016年9月13日 (火)

真実の信心を教えられた親鸞聖人、他教の信心を教える高森顕徹会長

『宗教問題15』につきましては、すでに読まれた方もあると思います。この中で高森顕徹会長が最も知られたくない内容は、本願寺との法論が実際どうであったのかでしょう。
親鸞会は、本願寺に勝った、と執拗に宣伝してきましたが、事実は全く違っています。言わば、反社会的組織からの嫌がらせにうんざりして、反社会的組織から距離をおいた、こういうことです。
当時も今も、親鸞会は法論での負けが見えてくると持ち出すのが、真実の信心です。真実の信心は高森会長の専売特許、との痛い勘違いから、喜劇を見せてくれます。紅楳英顕師の法話中に信心を獲たか詰問して、それに対する紅楳師の信心決定宣言に逃げ帰ったことなどは、その典型でしょう。

では、高森会長の説明する真実信心が、親鸞聖人のお言葉と一致しているかと言えば、当然相違しています。

高森会長が、18願の「若不生者」の「」を信楽に生まれると言い続けて恥をかいたのは、周知の事実ですが、その信楽の説明さえも間違っています。

高森会長の信楽の解釈と言えば、

大安心、大満足、絶対の幸福

とか創価学会的な説明になっていますが、親鸞聖人の説明は違います。
『教行信証』信巻の信楽釈は、

しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。
一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。
また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。
如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。

(現代語訳)

ところで、 はかり知れない昔から、 すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、 多くの苦しみに縛られて、 清らかな信楽がない。 本来まことの信楽がないのである。 このようなわけであるから、 この上ない功徳に遇うことができず、 すぐれた信心を得ることができないのである。
すべての愚かな凡夫は、 いついかなる時も、 貪りの心が常に善い心を汚し、 怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。 頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、 それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、 嘘いつわりの行といって、 真実の行とはいわないのである。 この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、 決して生れることはできない。
なぜかというと、 阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、 その身・口・意の三業に修められた行はみな、 ほんの一瞬の間に至るまで、 どのような疑いの心もまじることがなかったからである。 この心、 すなわち信楽は、 阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、 必ず真実報土にいたる正因となるのである。

如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、 この上ない功徳をおさめた清らかな信を、 迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。 これを他力の真実の信心というのである。

とあります。
親鸞会でも使うお言葉が含まれているので、高森会長は親鸞聖人の解釈を正しく伝えていると錯覚しがちですが、意味は違います。

親鸞聖人がここで仰っていることは、

凡夫には阿弥陀仏の報土に生まれることができるような善はできない。
それで阿弥陀仏が修行なされて、凡夫の代わりに報土に生まれる因をすべて作られてわれらに与えてくださった。
それを真実の信心という。

ということです。二種深信と同じですが、重要なことは、阿弥陀仏のなされた修行による因でわれらが報土往生できるということです。

高森会長も同じ説明をしていると思考停止会員は反論するでしょうが、高森会長の説明は親鸞聖人の仰せとは全く違います。

報土往生の因は、100%阿弥陀仏が用意して下されたものなので、われらの方で何かすることは不要なのです。もっと言えば、報土往生のために何かしてはいけないのです。

善をするとか19願を通るとかの考えは論外ですが、聴聞という行をしていかなければならないというのも間違いです。聴聞とは、

報土往生の因は、100%阿弥陀仏が用意して下されたものなので、われらの方で何かすることは不要なのです。もっと言えば、報土往生のために何かしてはいけないのです。

と聞いて疑いのないことです。
高森会長の話を正しく聞いて真実の信心が獲られることはあり得ません。高森会長の話を間違って聞けば真実の信心を獲られる可能性はあります。

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2016年9月 6日 (火)

思い込みが激しく勘違い連発の高森顕徹会長の18願解釈

『宗教問題15』について、いくつかのブログで取り上げられていますので、皆さんすでに御存知のことと思います。事の顛末についてはそちらを読んで頂ければ結構ですが、ここから判ることは、高森顕徹という人物が、如何に思いこみが激しく、勘違いの連続で、状況判断が全くできず、先を読む能力が欠落しているということです。

これまでの親鸞会の運営についてもそうですし、教義についてもそのまま当てはまります。大沼法竜師の著書を読んで、聖教に書かれていない味わいを、教義の真髄のように思いこみ、宿善や三願転入についても、親鸞聖人における善の位置づけを完全に勘違いし、本願寺との法論では状況判断ができないことから法論に勝ったつもりになり、退会者との法論で負け続けた悔しさから書いた『なぜ生きる2』が悲惨な状況になることさえ見通すことができないのです。

思いこみ教義の典型が18願の「唯除五逆誹謗正法」といえます。

高森顕徹会長は、18願が大事と言いながら、18願をまともに学んだことも調べたこともないことは、聖教を調べると簡単に判ります。

法然上人の著された『選択本願念仏集』に、18願文を引用された箇所があります。

 『無量寿経』の上にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して、わが国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずといはば、正覚を取らじ」(第十八願)と。
 『観念法門』に上の文を引きていはく、「もしわれ仏にならんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名号を称すること下十声に至らんに、わが願力に乗りて、もし生ぜずは、正覚を取らじ」と。
 『往生礼讃』に同じき上の文を引きていはく、「〈もしわれ仏にならんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉と。かの仏いま現に世にましまして仏になりたまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生することを得」と。

気付かれたかと思いますが、法然上人は18願文で、「唯除五逆誹謗正法」を省略されています。法然上人が引用されている善導大師の2文は、善導大師が18願を言い換えられたものですが、共に「唯除五逆誹謗正法」に当たる部分がありません。

これが何を意味するかを常識的に考えれば、18願を解釈する上で「唯除五逆誹謗正法」について省略しても問題がないということです。つまりは、18願での救いを求めている一般の人には、「唯除五逆誹謗正法」は関係ないということになります。

参考までに、現在の中国でも浄土系の寺院では当然ながら阿弥陀仏の本願は重要視されていますが、18願文を紹介する際に「唯除五逆誹謗正法」を省略していることがあります。善導大師の影響なのかどうか、その理由は判りませんが、中国でも「唯除五逆誹謗正法」はその程度の位置付けだということです。

ところが大沼師が「唯除五逆誹謗正法」を我々の実機と表現したことから、高森会長はそれをそのまま鵜呑みにしてしまったという経緯です。大沼師は聖教上の根拠を示しての解釈ではないので、単なる味わいであったのですが、それを高森会長が思いこみと勘違いで何の疑問も持たずに60年間布教してきたというおめでたい話です。

こんな低級善知識に振り回され、頑なに信じよう信じようとしている健気な会員が哀れでなりません。

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