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2016年8月12日 (金)

どちらが異安心か?

親鸞会は、退会者に対して聖教での反論をすることがなくなってきました。その代わりに投げつける言葉は、「間違った信心」という反論というか決めつけです。高森顕徹会長の嘘と不勉強を、聖教上の御文で証明している退会者に対して反論するなら、聖教上の御文をもってしなければ、そもそも議論が成立しないのですが、その劣勢を根拠のない自信で挽回しているつもりなのでしょう。
本来なら、退会者のことを異安心と決めつける前に、高森会長が親鸞聖人と同じ安心なのか確かめてからにすべきですが、それを絶対にしません。なぜなら、マインドコントロールされていて、高森会長は絶対に正しいと思い込まされているからです。それは親鸞会が邪教と見下している宗教団体の信者と何ら変わりないのですが、そこに気が付くことさえ拒否しているのです。

正しい信心かどうかは、二種深信が立っているかどうかだ

高森会長はいつも言っていましたが、その二種深信の説明が間違っていることは、これまで述べてきましたので、すでに高森会長の異安心が確定しています。反論があるなら、聖教上の二種深信の説明と高森会長の説明が一致していることを説明すればよいだけですが、それはできません。

もう一つの理屈は、退会者が信心の説明で現生十種の益が知らされていないから異安心だというものですが、これも無知の証拠にしかなりません。
現生十種の益を獲ると親鸞聖人が解釈されたことと、現生十種の益を獲たことが実感として判ることとの違いが理解できていないのです。

現生十種の益の中で、最も判りやすいのが入正定聚の益です。

親鸞聖人は、現生において正定聚に入る、と仰っていますが、これは七高僧方の仰っていないことです。七高僧方は、浄土に往生した後に正定聚に入る、と仰っていますので、もし、入正定聚の益を知らされていないことをもって異安心だと言うのであれば、七高僧方は異安心になります。

難しいですが、根拠を挙げて説明します。

『正信偈』にある

成等覚証大涅槃

は、阿弥陀仏の11願で、大経の異訳経である『無量寿如来会』にある御言葉から親鸞聖人が取られたものです。

もしわれ成仏せんに、国のうちの有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せずは、菩提を取らじ

この「国のうちの有情」とは阿弥陀仏の浄土の中の有情です。
つまり、11願は、浄土に往生後、等正覚を成り、大涅槃を証すると誓われたもので、往生後に正定聚に入ることです。

それを曇鸞大師は『浄土論註』で11願を言い換えられて

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る

とされています。浄土に往生した後に正定聚に入るの意味です。

これは他の高僧方も同じです。

親鸞聖人は、七高僧方の解釈を踏まえられた上で、往生後に正定聚に入るとしか解釈のしようの無い11願を敢えて現生に解釈なされました。
それを表現されたのが、親鸞聖人が度々なされる漢文の読み替えという方法です。

曇鸞大師の

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る

を親鸞聖人は

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正定聚に入る

と読みかえられました。「生ぜんと願ぜんもの」が「すなはち正定聚に入る」と本来の意を変えられてしまったのです。

親鸞聖人がこのように解釈をなされた理由は、親鸞聖人が信心を獲られて知らされたからではなく、阿弥陀仏の救いはこうでなければ理屈が通らないという親鸞聖人の理論です。

これは真宗学の重要なポイントです。入正定聚を来生とされた七高僧方と、現生とされた親鸞聖人との相違が存在する、つまりは、入正定聚の益が知らされていないから、信心が間違っているということは言えないことになるどころか、そんなことを言うことが異安心の告白です。

今回の内容は、親鸞会の会員はもちろんのこと、信心の定義から間違っている高森会長にも理解しがたいことと思います。

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コメント

なるほど、わかりやすい!そういうことか。

投稿: | 2016年8月13日 (土) 13時13分

親鸞会の幹部は信心決定をとりわけ神秘的な体験にしたがっていた。その体験をしたというボ○老人高森を持ち上げるのは本当に気持ちが悪かった。

投稿: | 2016年8月14日 (日) 20時02分

飛雲様
いつもご教授有難うございます。
今回のエントリー3回読ませていただいて、ようやくガッテン・ガッテン。
高森会長そして親鸞会の方々何度も読んでみられや。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

投稿: どら焼き | 2016年8月18日 (木) 22時10分

佐野弘明師は、往生ということに、親鸞聖人は世間に一石を投じられた。往生を一時点にとらえず幅のある考えをした。本願を味わうとそうとしか読めないと。また往生と往生したとは厳密に区分しておられる、とも説明されておられる。
即得往生から、信心を得れば往生すという、往生すとは不退転に住すという、不退転に住すというは正定聚の位に定まるなり。ここから平生業成なる言葉も生まれてきたと味わっております。いかがでしょうか?
なんまんだぶ ありがたい

投稿: | 2016年8月20日 (土) 11時52分

最後の名無し様

平生業成とは存覚上人の『真要鈔』に

親鸞聖人の一流においては、 平生業成の義にして臨終往生ののぞみを本とせず、 不来迎の談にして来迎の義を執せず

とあるものから来ていますが、元々は臨終業成に対する言葉です。
意味としては仰るようなことで、『正信偈大意』にもそのような説明がなされています。

投稿: 飛雲 | 2016年8月26日 (金) 03時04分

佐野師も講演最中に”平生業成”なる言葉は使用されておりませんでした。
詳しい解説、感謝いたします。
なんまんだぶ ありがたい

投稿: | 2016年8月27日 (土) 14時31分

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