異安心というよりも寧ろオカルトに近い高森顕徹会長
2000畳の正面には、黒板の脇に根拠ボードが8面あり、正本堂建立から暫くは8面全部を聖教の根拠を映し出しても足りず、紙まで使って聖教の根拠を示していました。
その時の高森顕徹会長の心中は、自信に満ち溢れていたことと思います。親鸞聖人や善知識方、経典を読みこなした教学随一の人物と、自分でも錯覚していたでしょう。
ところが高森会長の教学が、偽物だったと明らかになり、それどころか、何一つ知らない単なるパクリ魔だったことが周知の事実になってから、根拠ボードに聖教の根拠が映し出されなくなりました。
現在の高森会長の心中は、自信喪失を通り越して開き直り、何とかの科学の総裁を真似ていると思われます。
親鸞会は、もはやカルトというより、オカルトに近づいているのかもしれません。
そんな高森会長が大好きな、いや大好きだった聖教上の根拠の1つが、『教行信証』信巻の
まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。
です。
親鸞聖人は信心を獲られて、自分が死ぬと同時に仏の覚りを開くとハッキリ知らされた
という説明をしてきました。これでは信心を獲たら、自分の死後のことが明確に判る智慧を体得することになってしまうのですが、実際はそうではありません。
前回のエントリー同様、これは親鸞聖人の独自の理論です。
七高僧方は仰っていないことだからです。
たとえば曇鸞大師は『浄土論註』で
仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。
と仰っていますが、浄土に往生してから、正定聚に入り、そして仏になるということです。他の方も同じです。
また聖覚法印も『唯信鈔』で
順次生に浄土に生れて、浄土にして菩薩の行を具足して仏に成らんと願ずるなり。この門は末代の機にかなへり。
と言われています。
もし信心獲得したら親鸞聖人が仰ったことをハッキリと知らされるとするなら、七高僧方や聖覚法印は、異安心になります。
このように言うと親鸞会は必ずこのような反論をしてきます。
「まことに知んぬ」と親鸞聖人は仰っているのだから、ハッキリと知らされたことになるではないか
しかし、これこそが親鸞聖人の御著書を読んだことのない証拠になります。
簡単なところから説明すると、まず、
弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。
がもし知らされたなら、仏智を獲たことになるでしょう。弥勒菩薩の成仏の時期は、『菩薩処胎経』に説かれたことを単に信じる以上には判かりようがありません。
それでも
「まことに知んぬ」なんだから
と喚き続けるでしょうから、他の「まことに知んぬ」のお言葉を『教行信証』から紹介すると
「これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。」(行巻)
「まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。」(信巻)
「しかれば大聖の真言、宗師の釈義、まことに知んぬ、この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。」(信巻)
「まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。」(信巻)
「まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。」(信巻)
「しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。」(証巻)
「まことに知んぬ、これいましこの『経』に顕彰隠密の義あることを。」(化土巻)
以上に共通することは聖教の解釈上での話で、理解できた、の意味です。
結論を言えば、信心を獲たら、今まで知ることのできなかったことを知る智慧を体得すると考えることは間違いだ、ということです。
多くのことが明確に知らされたと公言している高森会長は、異安心というよりも、なんとかの科学の総裁と同じオカルトレベルと言えます。
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