パクリで大学者を演じても、聖教を全く読んでいないので簡単にボロを出す高森顕徹会長
何十年と会員を続けてきた人が次々と退会していますが、その陰で、何十年と講師部員を続けてきた人もぽつぽつと退会しています。このブログで法論を取り上げ、言うまでもなく惨敗逃走した元講師部員もその中に含まれています。
何百年に一人の善知識と崇めてはきたものの、人間性も教義も無茶苦茶な高森顕徹会長に絶望して還暦近くで親鸞会を去っていく講師部員の心中は、どのようなものでしょうか。
法論に惨敗した時点で高森会長に見切りをつけていれば、傷も多少は浅くて済んだかもしれませんが、それさえできないようにマインドコントロールされていたのですから、哀れです。
さて、信心決定を摩訶不思議な体験として印象付けるために利用されるのが、二種深信です。しかし、その摩訶不思議な体験をしてもいないのにしたかのように装っているのが、高森会長です。
前回まで、五逆謗法は親鸞聖人の教えを聞いている皆さんのことではないし、機の深信とも無関係だということを、聖教上の根拠を示して、述べてきました。
参考までに機の深信にあたる曇鸞大師のお言葉は、『讃阿弥陀仏偈』にあります。
われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。
一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。
です。曇鸞大師は、煩悩虚妄の業によって三界をはてしなくめぐり、六道を抜け出せず、三悪道に留まっていることを仰ったのですが、どこをどう読んだら「逆謗の屍」という意味になるのでしょうか?これは曇鸞大師は「逆謗の屍」ではないと否定されたお言葉にしかなりません。
親鸞聖人は善導大師の『往生礼讃』の二種深信を承けられて、『高僧和讃』善導讃で
煩悩具足と信知して
本願力に乗ずれば
すなはち穢身すてはてて
法性常楽証せしむ
と仰っています。親鸞聖人は機の深信を「煩悩具足と信知して」と表現なされています。
善知識方のお言葉を通しても、機の深信とはつまり
煩悩によって輪廻し、自力では出離できない
ということにしかなりません。
「逆謗の屍」という言葉は、大沼師からのパクリですが、大沼師は、『高僧和讃』曇鸞讃の
名号不思議の海水は
逆謗の屍骸もとどまらず
衆悪の万川帰しぬれば
功徳のうしほに一味なり
から、「逆謗の屍」と言ったのでしょうが、この御和讃は、五逆罪、謗法罪の人でさえも阿弥陀仏の功徳に包まれたならば、一味平等の世界に入ることができる、と教えられたお言葉です。このお言葉から、全ての人が「逆謗の屍」という解釈にはなりえません。
18願文と二種深信との関係を、大沼師の味わいを鵜呑みにして高森会長は
「若不生者不取正覚」=法の深信
「唯除五逆誹謗正法」=機の深信
と、まるで大学者を気取って説明していますが、完全な間違いです。二種深信を詳説された存覚上人の『六要鈔』には、
次に深心を釈する中に、「二者」等とは、これ経文を牒す。「深」等というは、能信の相を明かす。「亦有」等とは、所信の事を顕かす。これ則ち機法二種の信心なり。「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。
とあります。二種深信と本願文とを対応して書かれているのは、法の深信と「若不生者不取正覚」だけです。機の深信に対応する本願文については記されていません。
大沼師の味わいを真宗学の基本と勘違いしただけのことです。
聖教を読んだことがない高森会長が大学者を演じようとしても、無理な話です。
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コメント
バカ森会長にとっては金儲けが出来れば他人の人生も仏様の教えもどうでもいいのです。
まあそれも怪しくなってきてますが。
投稿: 2450 | 2016年8月 7日 (日) 06時11分
一生悪を作り続けてきた人でさえ、
臨終に念仏を称えて往生すると聞きます。
還暦近くであっても、方便から真実に入るのであればよろこぶべき事ではないかと思います。
むしろ、今年も追悼法要の時期ですが、
去年会員で亡くなられた方々は、
平生業成されていたのか、それとも、
死ぬまで求道であったのでしょうか。
親鸞会で死ぬまで求道して求不得苦で人生終わるとすれば残念です。
投稿: | 2016年8月 7日 (日) 13時36分
高森会長もお聖教を少しは読んでいるでしょうが、広く読むことはできていないし、これからも読むことはないでしょう。広く読めば、自身の主張と明確に相反するお言葉に遭遇しますからね。
投稿: | 2016年8月 8日 (月) 12時38分
>親鸞聖人は機の深信を「煩悩具足と信知して」と表現なされています。
善知識方のお言葉を通しても、機の深信とはつまり
煩悩によって輪廻し、自力では出離できない
ということにしかなりません。
煩悩具足の飛雲氏は、過去世から一度も謗法罪や五逆罪を造ったことはありませんか?
投稿: | 2016年8月 8日 (月) 14時31分
>煩悩具足の飛雲氏は、過去世から一度も謗法罪や五逆罪を造ったことはありませんか?
どうでしょうかね、過去世のことを知る智慧がありませんので。
聖教に書かれてあることしか判りませんので、聖教に書かれてある通りです。
親鸞会は、聖教に書かれてあることより、体験談を尊重するということがよく判りました。
投稿: 飛雲 | 2016年8月 8日 (月) 14時35分
親鸞会の言い分
お聖教に書いてあることよりも、体験が重要なので、お聖教を文字通り読んではいけない!
完全に土蔵秘事じゃないですか。
投稿: 元々 | 2016年8月 8日 (月) 15時27分
親鸞会は論点ずらしの質問が好きだなぁ~学習しない人達(笑)(笑)
投稿: | 2016年8月 8日 (月) 22時56分
今晩は。
だいぶ時間がかかってしまいましたが、ブログ開設からここまで全てのエントリーを読ませて頂きました。
今の率直な気持ちを一言で書くと、「親鸞会、終わってた」って感じです。
退会してもう何年も経っているのにしぶとく親鸞会邪義が染み込んでいたようで、教義的になんかモヤモヤしたものが残っていたのですが(因果の道理ってなんだったんだろうとか)、常にお聖教の根拠を挙げて教えて下さり、大いに溜飲が下がりました。
同時に親鸞会がいかに真宗とかけ離れているか、改めてよく分かりました。おそらく親鸞会と縁のない真宗の人がこのブログを見ても、「親鸞会の人は、何を言っているんだ??」と困惑すると思います。親鸞聖人の御教えと高森会長の言う事は、真逆といってもいいくらいだからです。
一時期は命をかけてでも高森会長と法論して親鸞会を解散させたい、会員さんを「一切衆生必堕無間」「三願転入によらなければ、アリ一匹救われない」の呪いから解放したいと、割と本気で思ってましたが、今はなんかバカらしくなりました。
会長も取り巻きも、命をかけて法を護るなんて気持ちは微塵もなく、真宗を利用して私利私欲を満たす事しか考えてないことがよく分かったからです。
違うというのなら、飛雲さんが何年も前から親鸞会に法論を申し込んでいるのだから、会長でも幹部講師でもいいから受けて下さいよと思います。
これからもこちらのブログや他の退会者のブログを見て、脱会する人は後を絶たないと思います。
応援しています。
有難うございました。
投稿: R1000 | 2016年8月 9日 (火) 00時08分
R1000様
応援ありがとうございます。
当ブログを最初からすべて読まれるとは、その気力に感服しました。同じことを何度も何度も繰り返し書いているのですが、少しでも理解できれば、高森会長の間違いが知らされる筈ですが、会員は読まないのですね。マインドコントロールされた会員は、読んでもいないのに書いてある内容は間違いだと言うので、呆れて物が言えません。
それでも、読んで高森会長の間違いに気が付く会員もいますので、同じことでも書き続けているのです。
これからも書き続けます。
投稿: 飛雲 | 2016年8月12日 (金) 21時31分
親鸞会の教えのおかしな所は善因善果、悪因悪果、自因自果である。
前に線路の中に倒れている人を助けるために駆け寄っていって自分が電車にひかれて死んだ人がいましたが、これは善因悪果と言えるのではないですか?
そんな事を言うとあの世も含めて善因善果が成り立っていると親鸞会は説明しますが、どの閉じたモデル(この世の中)でも証明できない事を何故成り立っていると言えるのでしょうか?
全く荒唐無稽ですね。
投稿: ヒロセ | 2016年8月20日 (土) 05時57分