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2016年8月

2016年8月29日 (月)

18願文までも捨てた高森顕徹会長

高森顕徹会長が、聖教上の根拠を出さなくなった象徴が、18願文です。数年ほど前までは、毎回のように18願文を出して、”18願文は漢字36文字”とのどうでもいい説明から始まって、18願文を一通り説明したものです。ところが最近では、”18願は漢字ばかりで難しいから”という理由で、18願文を出さなくなっています。

18願文を捨てた時点で、親鸞聖人の教えとの決別と言えるのですが、高森会長がなぜここまで聖教の御文を避けるようになったのかを、会員は考えてほしいものです。
理由は単純なことで、高森会長は批判に怯えているからです。

聖教の御文を出して説明すると、その解釈の根本的な間違いを指摘され、反論できないことを繰り返してきたので、高森会長も学習したのです。批判回避の最高の手段が、聖教の御文を出さないこと。

小心者の高森会長らしい対応ですが、そのことに気が付きながら高森会長を見限れない講師部員もみじめです。

さて、親鸞会では説明できない18願文について、説明をしておきます。

親鸞聖人は『大無量寿経』の異訳経を『教行信証』に引用されています。行巻には『大阿弥陀経』と『平等覚経』があります。

 『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』[『大阿弥陀経』といふ、『二十四願経』といふ]にのたまはく、「第四に願ずらく、〈それがし作仏せしめんとき、わが名字をもつてみな、八方上下、無央数の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ〉」と。{以上}

 『無量清浄平等覚経』の巻上にのたまはく、「〈われ作仏せんとき、わが名をして、八方上下、無数の仏国に聞かしめん。諸仏おのおの弟子衆のなかにして、わが功徳・国土の善を嘆ぜん。諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ〉と。

ここに紹介されている『大阿弥陀経』と『平等覚経』の御文は、共に、前半が『大無量寿経』の17願で、後半が『大無量寿経』の18願にあたります。
『大無量寿経』18願の「十方衆生」について『大阿弥陀経』では

諸天・人民・蜎飛・蠕動の類

であり、『平等覚経』では

諸天・人民・蠕動の類

と表現されています。人間だけではなく、虫までが含まれています。親鸞聖人が『大阿弥陀経』と『平等覚経』を紹介された理由の1つが、『大無量寿経』18願の「十方衆生」の御心を明らかにすることであったのです。生命のあるもので、洩れているものは皆無なのです。

また、「唯除五逆誹謗正法」に相当するお言葉がありませんので、我々の機が「唯除五逆誹謗正法」ということも否定されます。結局、「唯除五逆誹謗正法」とは『尊号真像銘文』の

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

そのままで、18願には「唯除五逆誹謗正法」というお言葉があるから、18願の「十方衆生」から「五逆誹謗正法」の者も洩れてはいないという意味になるのです。

なお、19願文については、『大阿弥陀経』と『平等覚経』の紹介を親鸞聖人はされていませんが、『大阿弥陀経』と『平等覚経』によれば、19願の対象は、菩薩道を歩む人であり、虫どころか菩薩道を歩めない人も含まれていません。それで19願は我々には関係ない願と親鸞聖人は教えられているのですが、それを『大阿弥陀経』と『平等覚経』で説明すると親鸞会が言ってくる言葉が傑作です。

親鸞聖人は『大阿弥陀経』と『平等覚経』を引用されていない

18願さえも引用をやめた親鸞会の我が身知らずのセリフですが、念のため言っておきますと、親鸞聖人が、19願は聖道門を断念した人のための願、と繰り返し仰っていて、そのように親鸞聖人が解釈をされた根拠が『大阿弥陀経』と『平等覚経』だということです。

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2016年8月19日 (金)

異安心というよりも寧ろオカルトに近い高森顕徹会長

2000畳の正面には、黒板の脇に根拠ボードが8面あり、正本堂建立から暫くは8面全部を聖教の根拠を映し出しても足りず、紙まで使って聖教の根拠を示していました。
その時の高森顕徹会長の心中は、自信に満ち溢れていたことと思います。親鸞聖人や善知識方、経典を読みこなした教学随一の人物と、自分でも錯覚していたでしょう。

ところが高森会長の教学が、偽物だったと明らかになり、それどころか、何一つ知らない単なるパクリ魔だったことが周知の事実になってから、根拠ボードに聖教の根拠が映し出されなくなりました。
現在の高森会長の心中は、自信喪失を通り越して開き直り、何とかの科学の総裁を真似ていると思われます。

親鸞会は、もはやカルトというより、オカルトに近づいているのかもしれません。

そんな高森会長が大好きな、いや大好きだった聖教上の根拠の1つが、『教行信証』信巻の

まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。

です。

親鸞聖人は信心を獲られて、自分が死ぬと同時に仏の覚りを開くとハッキリ知らされた

という説明をしてきました。これでは信心を獲たら、自分の死後のことが明確に判る智慧を体得することになってしまうのですが、実際はそうではありません。
前回のエントリー同様、これは親鸞聖人の独自の理論です。
七高僧方は仰っていないことだからです。

たとえば曇鸞大師は『浄土論註』で

仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。

と仰っていますが、浄土に往生してから、正定聚に入り、そして仏になるということです。他の方も同じです。

また聖覚法印も『唯信鈔』で

順次生に浄土に生れて、浄土にして菩薩の行を具足して仏に成らんと願ずるなり。この門は末代の機にかなへり。

と言われています。
もし信心獲得したら親鸞聖人が仰ったことをハッキリと知らされるとするなら、七高僧方や聖覚法印は、異安心になります。

このように言うと親鸞会は必ずこのような反論をしてきます。

「まことに知んぬ」と親鸞聖人は仰っているのだから、ハッキリと知らされたことになるではないか

しかし、これこそが親鸞聖人の御著書を読んだことのない証拠になります。
簡単なところから説明すると、まず、

弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。

がもし知らされたなら、仏智を獲たことになるでしょう。弥勒菩薩の成仏の時期は、『菩薩処胎経』に説かれたことを単に信じる以上には判かりようがありません。

それでも

「まことに知んぬ」なんだから

と喚き続けるでしょうから、他の「まことに知んぬ」のお言葉を『教行信証』から紹介すると

「これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。」(行巻)

「まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。」(信巻)

「しかれば大聖の真言、宗師の釈義、まことに知んぬ、この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。」(信巻)

「まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。」(信巻)

「まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。」(信巻)

「しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。」(証巻)

「まことに知んぬ、これいましこの『経』に顕彰隠密の義あることを。」(化土巻)

以上に共通することは聖教の解釈上での話で、理解できた、の意味です。

結論を言えば、信心を獲たら、今まで知ることのできなかったことを知る智慧を体得すると考えることは間違いだ、ということです。

多くのことが明確に知らされたと公言している高森会長は、異安心というよりも、なんとかの科学の総裁と同じオカルトレベルと言えます。

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2016年8月12日 (金)

どちらが異安心か?

親鸞会は、退会者に対して聖教での反論をすることがなくなってきました。その代わりに投げつける言葉は、「間違った信心」という反論というか決めつけです。高森顕徹会長の嘘と不勉強を、聖教上の御文で証明している退会者に対して反論するなら、聖教上の御文をもってしなければ、そもそも議論が成立しないのですが、その劣勢を根拠のない自信で挽回しているつもりなのでしょう。
本来なら、退会者のことを異安心と決めつける前に、高森会長が親鸞聖人と同じ安心なのか確かめてからにすべきですが、それを絶対にしません。なぜなら、マインドコントロールされていて、高森会長は絶対に正しいと思い込まされているからです。それは親鸞会が邪教と見下している宗教団体の信者と何ら変わりないのですが、そこに気が付くことさえ拒否しているのです。

正しい信心かどうかは、二種深信が立っているかどうかだ

高森会長はいつも言っていましたが、その二種深信の説明が間違っていることは、これまで述べてきましたので、すでに高森会長の異安心が確定しています。反論があるなら、聖教上の二種深信の説明と高森会長の説明が一致していることを説明すればよいだけですが、それはできません。

もう一つの理屈は、退会者が信心の説明で現生十種の益が知らされていないから異安心だというものですが、これも無知の証拠にしかなりません。
現生十種の益を獲ると親鸞聖人が解釈されたことと、現生十種の益を獲たことが実感として判ることとの違いが理解できていないのです。

現生十種の益の中で、最も判りやすいのが入正定聚の益です。

親鸞聖人は、現生において正定聚に入る、と仰っていますが、これは七高僧方の仰っていないことです。七高僧方は、浄土に往生した後に正定聚に入る、と仰っていますので、もし、入正定聚の益を知らされていないことをもって異安心だと言うのであれば、七高僧方は異安心になります。

難しいですが、根拠を挙げて説明します。

『正信偈』にある

成等覚証大涅槃

は、阿弥陀仏の11願で、大経の異訳経である『無量寿如来会』にある御言葉から親鸞聖人が取られたものです。

もしわれ成仏せんに、国のうちの有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せずは、菩提を取らじ

この「国のうちの有情」とは阿弥陀仏の浄土の中の有情です。
つまり、11願は、浄土に往生後、等正覚を成り、大涅槃を証すると誓われたもので、往生後に正定聚に入ることです。

それを曇鸞大師は『浄土論註』で11願を言い換えられて

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る

とされています。浄土に往生した後に正定聚に入るの意味です。

これは他の高僧方も同じです。

親鸞聖人は、七高僧方の解釈を踏まえられた上で、往生後に正定聚に入るとしか解釈のしようの無い11願を敢えて現生に解釈なされました。
それを表現されたのが、親鸞聖人が度々なされる漢文の読み替えという方法です。

曇鸞大師の

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ずれば、また往生を得て、すなはち正定聚に入る

を親鸞聖人は

もし人、ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正定聚に入る

と読みかえられました。「生ぜんと願ぜんもの」が「すなはち正定聚に入る」と本来の意を変えられてしまったのです。

親鸞聖人がこのように解釈をなされた理由は、親鸞聖人が信心を獲られて知らされたからではなく、阿弥陀仏の救いはこうでなければ理屈が通らないという親鸞聖人の理論です。

これは真宗学の重要なポイントです。入正定聚を来生とされた七高僧方と、現生とされた親鸞聖人との相違が存在する、つまりは、入正定聚の益が知らされていないから、信心が間違っているということは言えないことになるどころか、そんなことを言うことが異安心の告白です。

今回の内容は、親鸞会の会員はもちろんのこと、信心の定義から間違っている高森会長にも理解しがたいことと思います。

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2016年8月 6日 (土)

パクリで大学者を演じても、聖教を全く読んでいないので簡単にボロを出す高森顕徹会長

何十年と会員を続けてきた人が次々と退会していますが、その陰で、何十年と講師部員を続けてきた人もぽつぽつと退会しています。このブログで法論を取り上げ、言うまでもなく惨敗逃走した元講師部員もその中に含まれています。

何百年に一人の善知識と崇めてはきたものの、人間性も教義も無茶苦茶な高森顕徹会長に絶望して還暦近くで親鸞会を去っていく講師部員の心中は、どのようなものでしょうか。

法論に惨敗した時点で高森会長に見切りをつけていれば、傷も多少は浅くて済んだかもしれませんが、それさえできないようにマインドコントロールされていたのですから、哀れです。

さて、信心決定を摩訶不思議な体験として印象付けるために利用されるのが、二種深信です。しかし、その摩訶不思議な体験をしてもいないのにしたかのように装っているのが、高森会長です。

前回まで、五逆謗法は親鸞聖人の教えを聞いている皆さんのことではないし、機の深信とも無関係だということを、聖教上の根拠を示して、述べてきました。

参考までに機の深信にあたる曇鸞大師のお言葉は、『讃阿弥陀仏偈』にあります。

われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。
一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。

です。曇鸞大師は、煩悩虚妄の業によって三界をはてしなくめぐり、六道を抜け出せず、三悪道に留まっていることを仰ったのですが、どこをどう読んだら「逆謗の屍」という意味になるのでしょうか?これは曇鸞大師は「逆謗の屍」ではないと否定されたお言葉にしかなりません。

親鸞聖人は善導大師の『往生礼讃』の二種深信を承けられて、『高僧和讃』善導讃で

煩悩具足と信知して
 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて
 法性常楽証せしむ

と仰っています。親鸞聖人は機の深信を「煩悩具足と信知して」と表現なされています。

善知識方のお言葉を通しても、機の深信とはつまり

煩悩によって輪廻し、自力では出離できない

ということにしかなりません。

逆謗の屍」という言葉は、大沼師からのパクリですが、大沼師は、『高僧和讃』曇鸞讃の

名号不思議の海水は
 逆謗の屍骸もとどまらず
 衆悪の万川帰しぬれば
 功徳のうしほに一味なり

から、「逆謗の屍」と言ったのでしょうが、この御和讃は、五逆罪、謗法罪の人でさえも阿弥陀仏の功徳に包まれたならば、一味平等の世界に入ることができる、と教えられたお言葉です。このお言葉から、全ての人が「逆謗の屍」という解釈にはなりえません。

18願文と二種深信との関係を、大沼師の味わいを鵜呑みにして高森会長は

若不生者不取正覚」=法の深信
唯除五逆誹謗正法」=機の深信

と、まるで大学者を気取って説明していますが、完全な間違いです。二種深信を詳説された存覚上人の『六要鈔』には、

次に深心を釈する中に、「二者」等とは、これ経文を牒す。「深」等というは、能信の相を明かす。「亦有」等とは、所信の事を顕かす。これ則ち機法二種の信心なり。「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。

とあります。二種深信と本願文とを対応して書かれているのは、法の深信と「若不生者不取正覚」だけです。機の深信に対応する本願文については記されていません。
大沼師の味わいを真宗学の基本と勘違いしただけのことです。

聖教を読んだことがない高森会長が大学者を演じようとしても、無理な話です。

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