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2016年6月28日 (火)

謗法罪の定義さえ知らない親鸞会を非難攻撃したら謗法罪になりますか?

相手にされていない本願寺に対しては、未だに”打倒本願寺”のスローガンを掲げて、金集めに余念のない親鸞会ですが、親鸞会を攻撃する退会者には、ダンマリを決め込んで、教義論争には手も足も出ないというのが現実です。それに薄々気が付いて戸惑っている会員も少なからずいます。

その対策として、親鸞会を攻撃することを謗法罪と会員に刷り込んでいるのですが、謗法罪の定義が真宗とも通仏教とも異なっているのが親鸞会です。

前回書きましたように、謗法罪とは「無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法」と考える人のことを指すのですが、その程度のことさえ聞いたことのないのが高森顕徹会長です。

親鸞聖人は、謗法の者が救われることはあり得ないと曇鸞大師が仰ったことを承けられて、善導大師の『法事讃』のお言葉を信巻に引かれています。

仏願力をもつて、五逆と十悪と罪滅し生ずることを得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く。

(現代語訳)

この本願のはたらきにより、五逆や十悪のものの罪を滅して往生を得させてくださるのである。謗法のものや一闡提であっても、心をひるがえして如来の本願を信じれば、みな往生することができる。

高森邪義に毒されていると理解できないかもしれませんが、五逆・十悪の者と、謗法・闡提の者とは救われ方が違うのです。判り易く言うと五逆・十悪の者は、そのまま救われますが、謗法・闡提の者は謗法・闡提のまま救われるのではなく、「回心」という心を入れ替えて謗法・闡提でなくなって救われるということです。
曇鸞大師のお言葉と併せれば、簡単な内容ですが、「回心」を獲信と理解すると訳が判らなくなります。ここでの「回心」は「無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法」という謗法・闡提を懺悔して仏教を信じる仏教徒になり、しかも18願を信じるということを意味します。

参考までに『往生要集』にはこうあります。

 問ふ。 不信のもの、なんの罪報をか得る。
答ふ。
『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。
 問ふ。 もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。
答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。 もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。(後略)

(現代語訳)

 問う。 信じない者は、 どのような罪の報を得るのであるか。
 答える。 ≪称揚諸仏功徳経≫ の下巻に説かれている。
もし、 阿弥陀仏の名号の功徳を讃めたたえることを信じないで、 謗り毀つ者があるならば、 五劫のあいだ地獄に堕ちて、 つぶさにもろもろの苦を受けねばならぬ。
 問う。 もし深心がなくて、 疑念を生ずる者は、 結局往生できないのであるか。
 答える。 もし、 全く信ぜず、 往生の業を修めず、 浄土を願い求めない者は、 道理として往生するはずがない。 しかしながら、 もし仏智を疑うけれども、 それでもやはり、 かの浄土に生まれたいと願い、 往生の業を修める者は、 これもまた往生することができるのである。(後略)

簡単に言うと

謗法の者は地獄に堕ちる。
謗法ではないが、浄土を願い求めない者は、往生できない。
浄土を願い求めていながらも仏智を疑っている者は、(化土)往生できる。

ということです。
謗法の定義が根本的に狂っているのが親鸞会だと理解できたでしょうか。

現会員はよく考えてください、高森会長の言っていることは仏教と言えますか。

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謗法罪」カテゴリの記事

コメント

非難サイトを見るだけで謗法罪とか意味不明でした。君達はすぐ聞き誤るから見てはいけない!!と一つ覚えで絶叫していたK玉氏が実に滑稽です。
すぐ聞き誤るほど脆弱な教学しか親鸞会では説けないのでしょうか(笑)

投稿:   | 2016年6月29日 (水) 21時43分

飛雲様、いつもご教授ありがとうございます。
思い起こせば20数年前、入会後しばらくして担当講師から「善知識のお話を聞かせていただき、今日のお話はよく解らなかったと思うことはもちろん、今日のお話は解りやすくて良かったと思う心も、善知識の上に立って評価している心だから謗法罪になる」と教えられ「結局どう転んでも私は謗法罪の罪人なのだな~」と思い込まされてきました。
高森親鸞会の教義はとことんトンデモ邪義だったのですね。
なんまんだぶ なんまんだぶ

投稿: どら焼き | 2016年7月 2日 (土) 21時52分

仏法を誹謗しなさんなよ、と抑止するだけで、助からないとは、正信念仏偈にも念仏正信偈にも書かれていません。教行信証には「18願を信じて、17願の諸仏方の褒め称える名号を唱える」と明示されていますから、策を弄する必要ないはずです。すると弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中以難無過斯 と 還来生死輪転家 決以疑情為所止 が意味持つようになると理解してます。

投稿: | 2016年7月 2日 (土) 22時00分

>教行信証には「18願を信じて、17願の諸仏方の褒め称える名号を唱える」と明示されていますから

この時点で、謗法ではないということですが、何か問題がありますか?

謗法の者を異教徒と置き換えてみればわかりやすいです。
異教徒は異教徒のままで救われることはありえません。18願を信じてという状態にならないからです。

再度『往生論註』を読んでみましょう。

 問うていはく、たとひ一人は五逆罪を具して正法を誹謗せざれば、経に得生を許す。また一人ありてただ正法を誹謗して、五逆もろもろの罪なきもの往生を願ぜば、生を得るやいなやと。
 答へていはく、ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ。なにをもつてこれをいふとならば、『経』にいはく、〈五逆の罪人、阿鼻大地獄のなかに堕して、つぶさに一劫の重罪を受く。誹謗正法の人は阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もし尽くれば、また転じて他方の阿鼻大地獄のなかに至る。かくのごとく展転して百千の阿鼻大地獄を経〉と。仏、出づることを得る時節を記したまはず。誹謗正法の罪、極重なるをもつてのゆゑなり。また正法はすなはちこれ仏法なり。この愚痴の人、すでに誹謗を生ず、いづくんぞ仏土に願生するの理あらんや。たとひただかの安楽に 生ぜんことを貪じて生を願ぜんは、また水にあらざるの氷、煙なきの火を求めんがごとし。あに得る理あらんやと。

(現代語訳)

 問うていう。経には、ある人がたとえ五逆の罪を犯しても、正しい法を謗らないなら往生することができるとある。では、ただ正しい法を謗るだけで、五逆などの罪を犯さないものが浄土の往生を願うなら、往生することができるのであろうか。
 答えていう。ただ正しい法を謗るだけで、他に罪は何一つなくても、決して往生することはできない。なぜかといえば、経に、<五逆の罪を犯した人は無間地獄に堕ちて、一劫の間その重い罪の報いを受ける。正しい法を謗った人は無間地獄に堕ちて、一劫が尽きると、また続いて他の無間地獄に堕ちる。このようにして次々と、数多くの無間地獄をめぐるのである>と説かれていて、仏はこの人がいつ地獄から出ることができるのかを明らかにされていない。それは、正しい法を謗る罪がもっとも重いからである。また正しい法というのは、すなわち仏法である。この愚かな人は、すでに仏法を謗っているのであるから、どうして仏の浄土の往生を願うはずがあろうか。たとえ、浄土は安楽なところだから生れたいという貪りの心で往生を願っても、その願いは、水でない氷や煙の出ない火を求めるのと同じであって、往生することができるはずはないのである。

投稿: 飛雲 | 2016年7月 2日 (土) 23時54分

話の腰を折る用で申し訳ないですが、もうこの世が嫌で嫌でかないません。早く信心決定してこの世からおさらばしたいです。

世間では飛雲さんのような必死の活動も虚しく、寺はますます衰退の一途をたどり、真実の仏法が説かれるところが滅びつつあります。

それどころかその代わりに高森会なる仏法を騙る邪教、迷信がはびこり、世界の光と崇められ、日本はおろか海外でも誤って信仰するものが後を絶たず、世も末です。

もはや末法どころか法滅の時代です。もう見ていられません。この世は地獄です。もう嫌です。もうこんな邪教に満ちたこの世はもう嫌です。

仏法が滅亡し、この苦しみと迷いに満ちた世界から出る唯一の門(ゲート)が閉ざされてしまう前に早く獲信したいです。

こんな邪教に満ちた醜い世界なんてもう嫌です。高森会の映画のポスターが街なかのいたるところに貼られているのを見るだけでこの世の終わりを突き付けられているようで目の前が真っ暗になります。

投稿: みそみそ | 2016年7月 3日 (日) 15時29分

みそみそ様

こんな言い方をすると叱られるかもしれませんが、非常によいコメントです。
仰っていることは、韋提希が釈尊に言ったことと殆ど同じです。
一応紹介しておきますと『観無量寿経』

ときに韋提希、仏世尊を見たてまつりて、みづから瓔珞を絶ち、身を挙げて地に投げ、号泣して仏に向かひてまうさく、「世尊、われむかし、なんの罪ありてかこの悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属たる。
やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。閻浮提の濁悪の世をば楽はざるなり。この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かひて五体を地に投げて哀れみを求めて懺悔す。やや、願はくは仏日、われに教へて清浄業処を観ぜしめたまへ」と。

(現代語訳)

韋提希はこのお姿を仰ぎ見て、すすんで胸飾りをかなぐり捨て、その足もとに身を投げ出して声をあげて泣きくずれ、釈尊に向かって申しあげた。
  「 世尊、わたしはこれまで何の罪があって、このような悪い子を生んだのでしょうか。世尊もどういった因縁があって、あのような提婆達多と親族でいらしゃるのでしょうか。
どうか世尊、わたしのために憂いも悩みもない世界をお教えください。わたしはそのような世界に生れたいと思います。この濁りきった悪い世界にはもういたいとは思いません。この世界は地獄や餓鬼や畜生のものが満ちあふれ、善くないものたちが多すぎます。わたしはもう二度とこんな悪人の言葉を聞いたり、その姿を見たりしたくありません。今世尊の前に、このように身を投げ出して礼拝し、哀れみを求めて懺悔いたします。どうか世の光でいらっしゃる世尊、このわたしに清らかな世界をお見せください」


如何でしょうか。
この韋提希の気持ちが浄土を願う縁になったのです。ここを親鸞聖人も重要視なされたところです。

この世を厭い、来世の浄土を願う、これが往生する原点であり、獲信の原点でもあります。

みそみそさんのこのお気持ちは、間違いなく往生・獲信へと導かれるでしょう。
後は、本願をそのまま受け入れるだけです。

投稿: 飛雲 | 2016年7月 3日 (日) 15時50分

飛雲様

コメントのお返事ありがとうございます。

本を読めど、このようなブログを読めど、法話を聞けど、阿弥陀様の心は未だに分かりませんが、韋提希夫人の気持だけは痛いほど分かります。
もうこれ以上人生で苦労できません。もう苦しみたくありません。いっその事、南無阿弥陀仏の名号でこの首をはねてくれるならどんなに楽なことかと願ってなりません。


取らぬ狸の皮算用でしかありませんが、もし獲信したらここでこの生命を終えようと思っております。ならば何故救わないのか、救われようとしないのかと自分の中で矛盾に苛まれています。

そしてまた私は、本気で獲信しよう、仏法を聞こうと思えるようになるまで、人生の様々なものを失ってきました。
果たしてこれからさらに聞き開き獲信するまではあとどれだけのものを失わねばならないのでしょうか?


さて質問ですが、

>この世を厭い、来世の浄土を願う、これが往生する原点であり、獲信の原点でもあります。

とありますが、『往生論註』に、

>たとえ、浄土は安楽なところだから生れたいという貪りの心で往生を願っても、その願いは、水でない氷や煙の出ない火を求めるのと同じであって、往生することができるはずはないのである。

とあります。一見矛盾するようですが、どういうことでしょうか?

投稿: みそみそ | 2016年7月 3日 (日) 20時06分

みぞみぞ様へ、飛龍師の最後の一行をよく読んでください。そこに往生の全てが表現されています。それを貴殿は遠くに眺めています。ご自分と往生を他人ごとに見ています、そうとしか見えません。それを同じ土俵に乗せるにはどうしたらいいのか、でしょう。まだわかりませんか?なんまんだぶ なんまんだぶ ありがたい

投稿: | 2016年7月 3日 (日) 20時43分

信心獲得した会員からすると、飛雲や退会者は可哀想な人達です。
早く目覚めますように。

投稿: | 2016年7月 3日 (日) 22時02分

と、いつもの負け犬の遠吠えですね。

悔しいなら、いつでも法論しますので、私の言っていることのどこがどのように間違っているか、聖教上の根拠に基づいてコメントください。

お待ちしています。

投稿: 飛雲 | 2016年7月 3日 (日) 22時06分

みそみそ様

>さて質問ですが、

>>この世を厭い、来世の浄土を願う、これが往生する原点であり、獲信の原点でもあります。

>とありますが、『往生論註』に、

>>たとえ、浄土は安楽なところだから生れたいという貪りの心で往生を願っても、その願いは、水でない氷や煙の出ない火を求めるのと同じであって、往生することができるはずはないのである。

>とあります。一見矛盾するようですが、どういうことでしょうか?

この違いは、清らかな世界に生まれたいという思いと、欲を満たしたい(欲の世界は不浄)という思いとの違いです。

みそみそさんがもし、楽がしたいと思われているなら、清らかな世界に生まれたいと願ってください。欲を満たすために浄土があるのではありません。限りない欲を離れた”楽”を求めてください。

その世界に往けるとなれば、何も急いで命を断つ必要もないでしょう。まずは往生一定になってください。

投稿: 飛雲 | 2016年7月 3日 (日) 22時15分

飛雲や退会者がなぜ異安心なのか。
それは、親鸞聖人や蓮如上人の信心(二種深信)と異なるからです。


一つには決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と深信す(機の深信)

“ いままでも、いまも、いまからも、助かる縁のない極悪人の自己が、ハッキリした”

二つには決定して、「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と、深信す
(法の深信)

“この世も未来も、絶対の幸福に救い摂るという弥陀の誓い、まことだったとハッキリした”


飛雲よ、二種深信、ハッキリしでますか?


「ひょっとしたら助からぬのではなかろうか」という不安な心が飛雲や退会者に起こるのは、
絶対、助かる縁なき者と知らされる機の深信がないからです。

 また、「ひょっとしたら助からんのではなかろうか」という心は、「必ず助ける」と誓われている弥陀の本願を疑っている心ですから法の深信がないのです。

投稿: | 2016年7月 3日 (日) 22時40分

威勢だけはいいようですが、人の主張を知ってからコメントしないと恥をかきますよ。

あなたのような低いレベルの人に合わせて以前に一口問答で親鸞会と法論をしました。

その内容は以下にまとめてあります。

「浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?」
http://sinrankaix.exblog.jp/

機の深信
http://sinrankaix.exblog.jp/18260446/

法の深信
http://sinrankaix.exblog.jp/21146082/


反論があるならいつでもどうぞ。ただし、聖教上の根拠を持ってです。体験談など聞く気はありません。

投稿: 飛雲 | 2016年7月 3日 (日) 22時47分

飛雲よ退会者達よ、二種深信、ハッキリしてますか?

念仏を称せずに突然死したら、死後はどうなりますか?

投稿: | 2016年7月 3日 (日) 22時59分

体験談について話すつもりも聞くつもりもありません。

何度でもいます、聖教上の根拠に基づいてコメントしましょう。

異安心の高森会長の体験談など、何の参考にもなりませんよ。

投稿: 飛雲 | 2016年7月 3日 (日) 23時03分

飛雲さん。退会者の方々。

もう一度親鸞会に入学して人生をやり直しませんか?

高森先生の御説法を真剣に聴聞すれば、
必ず信楽開発の一念まで進ませて頂けます。

『若不生者のちかいゆえ
 信楽まことにときいたり
 一念慶喜するひとは
 往生かならずさだまりぬ』(浄土和讚)

私のような者でも阿弥陀仏の本願に救い摂られたのですから、必ず聞き抜けます。

投稿: | 2016年7月 3日 (日) 23時23分

親鸞聖人の信心とは異なり、教えは180度違う高森会長の話など、聞く意味は全くないです。

聖教上の根拠を出すことができず、自慢できるのは体験談だけの親鸞会を早く辞めましょうね。

そうすれば、正しい信心を頂けます。

投稿: 飛雲 | 2016年7月 3日 (日) 23時29分

横から失礼します。

みそみそさんの苦しみ、俺なりにですがよく分かります。
自分は自殺未遂者ですが、阿弥陀さまとお会い出来た今も、たまに死にたくなる時があります。南無阿弥陀仏はこの世界に満ち満ちているのに、今も多くの会員さんが騙され、迷わされているから。俺ごときがなんとかしようとしても、あまりに無力だから。あなたを仏にする働きは、もう働いているんだよと強く思っても、世の中の自殺者は減らないし、弱肉強食の世界は変わらないから。いっそのこと、もう自殺して還相廻向した方が世のためなんじゃないかと思う事があります。
阿弥陀さまは十劫も昔から俺を、みそみそさんを、親鸞会の方たちをお呼びづめなのに、阿弥陀さまのお計らいをその程度だと思っているから、こっちが計らう。みそみそさんや会員さんをdisっているわけじゃありません。阿弥陀さまのお計らいが分からないから、俺はずっと阿弥陀さまを呪い、ご信心喜ばれている方を妬んでいました。苦しまなければ助けないなどと、阿弥陀さまは言われません。今聞かなければ閉じてしまう、消えてしまうご本願ではありません。浄土真宗という名目は一万年後には無くなってしまっているかも分かりませんが、南無阿弥陀仏は生きとし生けるもの全てが救われるまで決して働きが止むことはないと、俺は確信しています。…飛雲さんのように教学に明るくないので、根拠をあげて理路整然と説明は出来ませんが。ただ言えるのは、俺の計らいなど1ミリも役に立たなかったし、全て阿弥陀さまの一人働きでした。ただ、念仏のみぞまことでした。生きている今、みそみそさんは必ず阿弥陀さまに救われると俺は思っています。信じる事もできないみそみそさんと見抜かれた上で、みそみそさんに代わって阿弥陀さまはご修行して下さり、南無阿弥陀仏が成就されたからです。
焦らずに、まことをまことと知らされるまで、ただ生きましょう。
ネット上ですが、それまで俺も見守らせて頂きますので。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

投稿: R1000 | 2016年7月 3日 (日) 23時36分

>親鸞聖人の信心とは異なり、教えは180度違う高森会長の話など、聞く意味は全くないです。

聖教上の根拠を出すことができず、自慢できるのは体験談だけの親鸞会を早く辞めましょうね。

そうすれば、正しい信心を頂けます。


『親鸞聖人の信心とは異なり、教えは180度違う』

のは、どちらでしょうか?
それは飛雲さんではないでしょうか?

『若不生者のちかいゆえ
 信楽まことにときいたり
 一念慶喜するひとは
 往生かならずさだまりぬ』(浄土和讚)

一念慶喜はありましたか?
阿弥陀仏から信楽は頂けましたか?

投稿: | 2016年7月 3日 (日) 23時44分

>『親鸞聖人の信心とは異なり、教えは180度違う』
>のは、どちらでしょうか?
>それは飛雲さんではないでしょうか?

その根拠がないですね。
私は高森会長の異安心の根拠を聖教上からあげました。
あなたの妄想にいつまでも付き合う程暇ではありませんので、聖教上の根拠がなければこれで終わりです。
高森教に勤しむのはあなたの勝手ですが、他人に対して、これが正しい親鸞聖人の教えだと大嘘をつくことは辞めましょう。

投稿: 飛雲 | 2016年7月 3日 (日) 23時51分

聖教の根拠を出しなさいって日本語が読めないんだなぁ…

投稿: | 2016年7月 4日 (月) 12時39分

飛雲さんの間違いの根拠はいくらでもありますが、19願の相手がすべての人だという根拠は以下です。


しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、
いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、
真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、
阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。
すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく、
また臨終現前の願と名づく、また現前導生の願と名づく、
また来迎引接の願と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。
(教行信証・化土巻)


これを『教行信証講義』(山邊習学・赤沼智善著)では
以下のように解説されています。


然るに五濁の世に汚された群萌、即ち煩悩悪業の含識は、
今や諸仏の大悲に育てられて、漸く九十五種の邪道の網を脱れ出でて、
仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し
修道するようになっても、
真に其の教へに入る者は甚だ得難く、
如実の修道者は甚だ稀である。
之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、
内心空虚の者が甚だ多い。
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、
真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして
修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、
そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。
然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。
如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。


この解説からも、19願の相手は一切の人々だということは明らかです。

投稿: | 2016年7月 4日 (月) 15時31分

根拠は聖教ではなく、『教行信証講義』ということですね。

何度も同じことを言わせて、また恥をかきたいようですね。


『浄土和讃』には

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

とあり、『高僧和讃』には

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ
     (高僧和讃)

とあります。
定散諸機に19願を勧められ、極悪深重の衆生には19願ではなく最初から18願を勧められているということです。

化土巻には

これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。この要門より正・助・雑の三行を出せり。この正助のなかについて、専修あり雑修あり。機について二種あり。一つには定機、二つには散機なり。

とありまして、19願の機について定機と散機、つまり定散諸機だと親鸞聖人は断言されています。19願の機に逆悪の機、悪人は含まれていない。


教学的には完璧と親鸞会が評価する『教行信証講義』には、

『観経』の定散の諸機は、「極重悪人、ただ弥陀を称せよ」と勧励したまへるなり。

の訳について

『観経』には極めて罪の重い五逆十悪の凡夫は、他に助かる方便はない。唯々〈ただただ〉偏えに弥陀の名号を称えて、極楽まいりをさせて頂くだけであると記してある。

とあり、また

観経の定散の諸機は、極重悪人唯称弥陀と勧励したまえり。(化土巻)

の訳は

また『観経』には表に定散の諸機について、定散両善を勧めてあるけれども、実を尅すれば、すべてこれ極重の悪人である。されば弥陀の名号を称念して浄土往生を得る外はないという意である。


となっている。

『教行信証講義』でも、

19願と観経定散二善は、定散諸機についてのみ勧められ、極重の悪人には19願と定散二善は勧められていないと記されている。

投稿: 飛雲 | 2016年7月 4日 (月) 15時49分

つまり『教行信証講義』の

釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、
真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして
修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、
そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。
然るに釈尊の此の権化の本を繹れば阿弥陀如来の第十九願である。
如来は此の本願を発して普く迷ひに沈める一切衆生を化導して下された。


ここの部分の意味は、
釈尊は修道者(聖道門で修行してきた人)の進むべき道を『観経』定散二善で示され、修道者さえも漏らさず真実18願に誘引された。
その元は19願で、修道者を19願に導き、そんな修道者さえも18願へ化導されている。
言うまでもなく修道者でない人も修道者も18願へということですが、19願は修道者だけだということが理解できないのがあなただと言うことです。

投稿: 飛雲 | 2016年7月 4日 (月) 15時57分

仮の仏土とは、下にありて知るべし。
すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。
ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。
まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。
これを方便化身・化土と名づく。
真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。
これによりて、いま真仏・真土を顕す。
これすなはち真宗の正意なり。
経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし。
ことに奉持すべきなり。知るべしとなり。
(教行信証真仏土巻【真仮対弁】)


真実の願・方便の願ともに、
十方衆生を救済するという弥陀の大慈悲の願いの実現の為に、
その果報として成就されたもの。
ゆえに、報仏、報土であると知らされる。
方便の浄土に往生する因は人それぞれ異なるから、
往生する浄土もまた人それぞれ異なる。
これを方便の化身・方便の化土という。
弥陀の願に「真実」と「方便」とがあることを知らないから、
如来の広大な御恩徳が分からないのである。

親鸞聖人は、「真」と「仮」の区別を徹底して鮮明にせられたお方。
そして、
「仮」にとどまり、惑うてはならないぞ、
「真」こそが弥陀の真意である、
と懇ろに教えてくだされている。


ところが、
現代の真宗門徒に、これを誤解している者が多い。

すなわち、ここで

「仮を誡められている」

「これから説く化巻の方便の行信は無関係だから
意識して捨てなさいということ」

という具体である。

「仮(弥陀の方便)」を戒めるとはどういう意味かが問題。

親鸞聖人は「仮」そのものを、あたかも危険物かの如く
「はじめから近寄るな」と戒められたお言葉はどこにも無い。
「仮」は必要不可欠のものであり、
親鸞聖人自身も「仮」から「真」に入られたお方。
親鸞聖人は、「仮」に関わるなと言われているのではない。
「それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、
難思往生を願ふべし。」
と、仮を勧めておられる御言葉からも明らかである。
親鸞聖人は飽くまでも、
「仮に”留まる”こと」を懇ろに繰り返し戒められているのである。

投稿: | 2016年7月 4日 (月) 16時04分

>親鸞聖人は、「仮」に関わるなと言われているのではない。
>「それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、
>難思往生を願ふべし。」
>と、仮を勧めておられる御言葉からも明らかである。

20願については勧められているお言葉があるが、19願にはない。

19願 親鸞聖人は誡めのお言葉しかない。
20願 親鸞聖人は勧められたお言葉と誡めのお言葉の両方がある。

ということは19願と20願とは扱いが違うと言うこと。

要するに、

19願から始めるという前提が崩れた証拠です。

親鸞聖人は

聖道門→19願→20願→18願

を示されてはいる。

20願→18願

は成立しても

聖道門に関係しない悪人→19願→20願→18願

はあり得ない。

投稿: 飛雲 | 2016年7月 4日 (月) 16時09分

三願転入の教えに反する邪義について、、覚如上人は吐き捨てるように、こう難じられる。

 親鸞聖人は、
 「『観無量寿経』に説かれる教え(三心)は、方便・自力の教である。『大無量寿経』に説かれている教え(三信)こそが、真実・他力の教である」
 と自力と他力を峻別される。
 その上で「方便より真実へ、自力から他力へ入るのだよ」と教えられている。
 その祖師親鸞聖人の御書を拝見したことのない輩なのだろうか。

 以下はその文証である。

三経のなかに、『観経』の至誠・深心等の三心をば、凡夫のおこすところの自力の三心ぞとさだめ、『大経』の所説の至心・信楽・欲生等の三信をば、他力よりさずけらるるところの仏智とわけられたり。
しかるに、「方便より真実へつたい、凡夫発起の三心より、如来利他の信心に通入するぞ」と教えおきまします、祖師親鸞聖人の御釈を拝見せざるにや(『改邪鈔』末・十九)

>『改邪鈔』のこの後には、

まづ能化・所化をたて、自力・他力を対判して、自力をすてて他力に帰し、能化の説をうけて所化は信心を定得するこそ、今師(親鸞)御相承の口伝にはあひかなひはんべれ。

>定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
(中略)
ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

と同じことで、定散を方便、念仏を真実と言い換えてみれば判られると思います。

方便を説くことは、真実の方便に超過したることを顕さんがためなり。もし方便なくは、なんぞ真実のことに秀でたることを顕さんや。
(中略)
ゆゑにいま方便は廃せんがために説き、真実は立せんがために説く。

『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。「顕」というは、すなわち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず、諸機の三心は自利各別にして利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。
(教行信証化土巻)


また云わく、『観経』の説のごとし。まず三心を具して必ず往生を得。なんらをか三とする。一つには至誠心。いわゆる、身業にかの仏を礼拝す、口業にかの仏を讃嘆し称揚す、意業にかの仏を専念し観察す。おおよそ三業を起こすに、必ず真実を須いるがゆえに、「至誠心」と名づく、と。乃至 三つには回向発願心。所作の一切の善根、ことごとくみな回して往生を願ず、かるがゆえに「回向発願心」と名づく。この三心を具して必ず生を得るなり。もし一心少けぬればすなわち生を得ず。『観経』に具に説くがごとし。知るべし、と。(教行信証化土巻)


また云わく、「欲生彼国者」より下「名為浄業」に至るまで已来は、正しく三福の行を勧修することを明かす。これは一切衆生の機に二種あることを明かす。一つには定、二つには散なり。もし定行に依れば、すなわち生を摂するに尽きず。これをもって如来、方便して三福を顕開して、もって散動の根機に応じたまえり、と。(教行信証化土巻)


定散ともに回して宝国に入れ、すなわちこれ如来の異の方便なり。韋提はすなわちこれ女人の相、貪瞋具足の凡夫の位なり、(教行信証化土巻)

投稿: | 2016年7月 4日 (月) 16時13分

要するに三願転入の教えなるものは間違いと言いたい訳ですか?

それなら結構です。

投稿: 飛雲 | 2016年7月 4日 (月) 16時17分

>要するに三願転入の教えなるものは間違いと言いたい訳ですか?

それなら結構です。


三願転入以外に助かる道はありません。

三経のなかに、『観経』の至誠・深心等の三心をば、凡夫のおこすところの自力の三心ぞとさだめ、『大経』の所説の至心・信楽・欲生等の三信をば、他力よりさずけらるるところの仏智とわけられたり。
しかるに、「方便より真実へつたい、凡夫発起の三心より、如来利他の信心に通入するぞ」と教えおきまします、祖師親鸞聖人の御釈を拝見せざるにや(『改邪鈔』末・十九)

また云わく、『観経』の説のごとし。まず三心を具して必ず往生を得。なんらをか三とする。一つには至誠心。いわゆる、身業にかの仏を礼拝す、口業にかの仏を讃嘆し称揚す、意業にかの仏を専念し観察す。おおよそ三業を起こすに、必ず真実を須いるがゆえに、「至誠心」と名づく、と。乃至 三つには回向発願心。所作の一切の善根、ことごとくみな回して往生を願ず、かるがゆえに「回向発願心」と名づく。この三心を具して必ず生を得るなり。もし一心少けぬればすなわち生を得ず。『観経』に具に説くがごとし。知るべし、と。(教行信証化土巻)

また云わく、「欲生彼国者」より下「名為浄業」に至るまで已来は、正しく三福の行を勧修することを明かす。これは一切衆生の機に二種あることを明かす。一つには定、二つには散なり。もし定行に依れば、すなわち生を摂するに尽きず。これをもって如来、方便して三福を顕開して、もって散動の根機に応じたまえり、と。(教行信証化土巻)

投稿: | 2016年7月 4日 (月) 16時28分

何度も同じことを言わせて単なる荒しですね。

http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-596b.html

ここでも読んでおいてください。

投稿: 飛雲 | 2016年7月 4日 (月) 16時45分

飛雲様

ご回答頂きありがとうございます。

>みそみそさんがもし、楽がしたいと思われているなら、清らかな世界に生まれたいと願ってください。欲を満たすために浄土があるのではありません。限りない欲を離れた”楽”を求めてください。

しかしながら煩悩具足の私にこのようなことを願うことが出来るのでしょうか?
私の願いはどこまで行ってもこの世が自分の欲が叶わない世界なのならば、もうこんな世の中クソ食らえ。
こんな腐った世の中放り出して、お浄土とやらに高飛びしたいという煩悩いっぱいの下賤な考えしかありません。
単なる現実逃避です。目の前の如何ともし難い現実に向き合うのが嫌で、その逃避先として浄土真宗の「念仏唱えてたら極楽行けるぞ」の文句に安易につられて飛びついているだけの俗物です。

そこには菩薩心も菩提心のカケラもありません。

投稿: みそみそ | 2016年7月 4日 (月) 20時40分

みそみそ様

煩悩具足ですから、清らかな世界が判ることは確かにありませんが、願うことはできます。
想像でも現実逃避でもいいです。この世の苦しみは煩悩によるものであることさえ何んとなくでも理解できれば、その煩悩を離れた苦しみのない清らかな世界に生れたい、でいいです。
余り難しく考える必要はありません。
漠然とで結構ですから、清らかな世界に生れたいと願ってください。それが菩提心です。

投稿: 飛雲 | 2016年7月 4日 (月) 20時46分

みそみそ様

>>そこには菩薩心も菩提心のカケラもありません。


はじめまして、失礼致します。
阿弥陀様は、法蔵菩薩として貴殿の心をすべて知り尽くした上で、本願を建てられ、必ず、貴殿を間違いなく救うことができる、と確信されたので、そのことをもって、南無阿弥陀仏の完成とされ、阿弥陀仏となられました。

飛雲様はじめ、ネットで多くの方々が、貴殿に南無阿弥陀仏を伝えようとされますが、その多くの方々は、その南無阿弥陀仏に動かされています。これが、貴殿を必ず救ってみせる、と誓われた南無阿弥陀仏のはたらきであり、貴殿が救われる間違いのない証拠です。間違いなく貴殿のところまで南無阿弥陀仏が来ています。そして、たとえそのことがわからなくても貴殿を必ず救ってみせると、貴殿に気づかれるまで、阿弥陀様は、南無阿弥陀仏をどんな手段を使ってでも貴殿に送り続けられます。南無阿弥陀仏

投稿: 愚愚流 | 2016年7月 5日 (火) 20時51分

阿弥陀さまは、間違いなく往生させるから安心して念仏してくれよと仰せです。

阿弥陀さまが、あなたを往生させたいと願われているのは、あなたの要求によってではありません。
あなたが求める以前に、願われていたのです。それに安心して念仏するのみです。

投稿: YGM | 2016年7月 6日 (水) 08時56分

「〇〇だから私は救われない」
「〇〇でないと救われない」
という思いは、自分が勝手に作り上げた錯覚であって、事実では有りません。
何故なら、阿弥陀仏の救いは無条件の救いであるからです。
「そのまま救う」の仰せが称名念仏です。

投稿: | 2016年7月 6日 (水) 09時43分

如来本願顕称名(念仏正信偈)、曇鸞大師の処です、とも出ています。ご開山は細心の注意を払い、当時の世間を刺激せず、恩師のご意向を伝える努力をされていたと拝察しております。凡夫の称える念仏にどれだけの功徳ありますか、give and take なんてよもや考えないでしょうが。なんまんだぶ ありがたい

投稿: | 2016年7月 6日 (水) 13時40分

みそみそ様
信心が解らなく悩まれているお気持ちはよく分かります。
歎異抄16条には「信心 定まりなば、往生は弥陀にはからはれまゐらせてすることなれば、 わがはからひなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力 を仰ぎまゐらせば、自然のことわりにて、柔和・忍辱のこころも出 でくべし。すべてよろづのことにつけて、往生にはかしこきおもひ を具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねは おもひいだしまゐらすべし。しかれば念仏も申され候ふ。これ自然 なり。わがはからはざるを、自然と申すなり。これすなはち他力に てまします。」とのお示しがあります。
「信心 定まりなば」ですから信を獲た人の心得を教えられえたお言葉とは思いますが、私は信前の人もこのような心持で、本願を計らわず、ただ後生を阿弥陀様にお任せする気持ち一つで念仏を称えさせて頂きなさいと読み解きました。
なんまんだぶ なんまんだぶ

投稿: どら焼き | 2016年7月 7日 (木) 17時34分

ま、2,000畳を「阿弥陀仏と取・り・引・き・する場」と言った時点で、卒業でしょ。学徒の皆さん、普通の感覚なら。

投稿: | 2016年7月 8日 (金) 19時57分

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