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2016年6月 8日 (水)

親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験7

高森顕徹会長は自分の過去の説法内容を否定し、聖教の根拠も使わずに、当たり障りのない話に限定して説法をしている状態です。

ビデオ法話を無くし、無常の虎の話も、二河白道の譬えも、その他高森会長のお得意の話は今ではほとんど聞くことができません。

高森会長は判っているのです、自分は親鸞聖人の教えとは関係のない話を今までしてきたということを。それなのに、現会員は未だに高森会長のことを無二の善知識と思っているので、哀れとしか言い様がありません。

さて、阿弥陀仏の18願とは、過去に善をしたこともない五逆の下品下生の者が救われるという、聖道門の論理からは到底理解しえないことです。その実例を親鸞聖人は『涅槃経』にある阿闍世で示されています。

一応言っておきますが、韋提希は親を殺してはいませんので、五逆の者ではありません。阿闍世は父親を殺していますので、五逆の者です。
したがいまして韋提希の獲信について親鸞聖人が紹介説明されていたとしても、下品下生の者が往生することの証明にはなりません。それで、聖道門の経典である『涅槃経』から下品下生の者である阿闍世を親鸞聖人は取り上げられているのです。

なお、親鸞聖人は韋提希の獲信の経緯、求道の道程については、全く言及がありません。言及しても大した意味をなさないとのお考えであったと想像されます。

前置きが長くなりましたが、これまで釈尊は阿闍世に対して、地獄に堕ちないという説明ばかりをされています。地獄に堕ちる説明ばかりする高森会長とは正反対です。
釈尊から地獄に堕ちない理由について懇切丁寧に聞かされて、阿闍世は獲信します。その時の言葉が、親鸞聖人の教えの真髄です。

世尊、われ世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。
伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。
無根とは、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく。

(現代語訳)

世尊、世間では、伊蘭の種からは悪臭を放つ伊蘭の樹が生えます。伊蘭の種から芳香を放つ栴檀の樹が生えるのを見たことはありません。わたしは今はじめて伊蘭の種から栴檀の樹が生えるのを見ました。伊蘭の種とはわたしのことであり、栴檀の樹とはわたしの心におこった無根の信であります。無根とは、わたしは今まで如来をあつく敬うこともなく、法宝や僧宝を信じたこともなかったので、これを無根というのであります。

とあります。
無根の信」とは、仏法を信じることも求めることもなかったところに生じた信心、ということです。信を生ずる根拠のないことを表した言葉です。言い換えると、無善で信心を頂くのが、18願の真実信心、本願力回向の信心だということで、ここが親鸞聖人の教えの真髄になります。

阿闍世が知らされたことは、

命がけで善をしようとしたが、一つの善もできない者

ではなく、

一つの善もしてこなかったし、しようとも思わなかった者

ということです。
釈尊は阿闍世に善を勧められてもいません。

当たり前のことで、『大無量寿経』『観無量寿経』共に下輩は善を勧められることもすることもなく往生すると説かれているのですから、浄土門では基本中の基本が、

無善で往生できるのが阿弥陀仏の18願

なのです。

理由は
信心は阿弥陀仏から頂くものなので善の有無は無関係
なのです。

ここまで言えばお判りでしょうが、18願に救われるのに、三願転入する必要もなければ、過去世現在世の善根も不要だということです。

高森会長がどんなに隠して修正をしても、

親鸞聖人のみ教えに善の勧めはある

を撤回できませんので、高森会長と親鸞会は真宗界の笑い者として代々語り継がれるでしょう。

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阿闍世」カテゴリの記事

コメント

肩の荷が抜けてきて、いい文章で大変に読みやすいです。なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

投稿: | 2016年6月 9日 (木) 16時11分

ホントに…

なぜ18願に善のすすめがないのか、全く分かってませんね、飛雲君は。

偉そうに会長を非難している間に、あなたの臨終がやってきますよ。

投稿: 通りすがり | 2016年6月10日 (金) 01時29分

飛雲さま横から御免なさい。
投稿: 通りすがり | 2016年6月10日 (金) 01時29分様 「顕浄土真実教行証文類」及び七高僧さまのお聖教の根拠示して御教授よろしくお願いいたします。
期待しております、重ねてお願い申し上げます。

投稿: | 2016年6月10日 (金) 03時16分

飛雲さま横から御免なさい。
投稿: 通りすがり | 2016年6月10日 (金) 01時29分様 「顕浄土真実教行証文類」及び七高僧さまのお聖教の根拠示して御教授よろしくお願いいたします。
期待しております、重ねてお願い申し上げます。

投稿: とくま | 2016年6月10日 (金) 03時17分

通りすがり様

偉そうに私を非難しているのに、その根拠もないのですね。

なぜ本願に善がないのか、まったく判っていませんね、あなたは。

『選択本願念仏集』には

諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。

このようにあります。善が誓われていたなら、善のできない者は救われないからです。

法然上人のこのような教えを承けられて親鸞聖人は『教行信証』行巻で念仏と諸善とを比較し、相対して論じられ、その中で


順逆対、念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている。
近遠対、念仏は仏に近く、諸善は遠く離れている。
強弱対、念仏は強い本願に支えられているが、諸善を支える自力は弱い。
重軽対、念仏は重い願力に支えられているが、それのない諸善は軽い。
広狭対、念仏は一切を救うから広く、諸善は善人にかぎるから狭い。
径迂対、念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。
捷遅対、念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である
通別対、諸善は聖道に通ずる通途の法であり、念仏は特別の法である。
直弁因明対、念仏は仏の出世の本意としてただちに説かれた法であり、諸善は自力の機に止むを得ず説かれた法である。
名号定散対、念仏は釈尊が付属された名号であり、諸善は付属されなかった定散二善である。
埋尽非理尽対、念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説にすぎない。
勧無勧対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。
無上有上対、念仏は無上の功徳を具しているが、諸善は有上功徳でしかない。
因行果徳対、諸善は不完全な因人の行であるが、念仏は阿弥陀仏の果徳を与えられた完全な法である。
自説他説対、念仏は阿弥陀仏自身が説かれた行法であり、諸善はそうではない。
証不証対、念仏は諸仏が証明されているが、諸善には諸仏の証明がない。
讃不讃対、念仏は諸仏に讃嘆される法であるが、諸善は讃嘆されない。
付嘱不嘱対、念仏は釈迦・弥陀二尊の本意にかなった法であるから付属されたが、諸善は付属されなかった。
了不了教対、念仏は仏の本意が完全に説き示された法であるが、諸善はそうではなかった。
機堪不堪対、念仏はどのような愚劣の機にも堪えられるように成就された法であるが、諸善は劣機には堪えられない法である。
選不選対、念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である。
有願無願対、念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない。

このように仰っています。
本願に背く諸善を勧め、諸仏が勧められていない諸善を勧める高森会長は、諸仏よりも法然上人、親鸞聖人よりも偉そうにしてますね。

反論があるなら、いつでもどうぞ。

投稿: 飛雲 | 2016年6月10日 (金) 06時21分

全く分かってませんね。
18願に善がないのは、必要がないから。
善知識方が救われるのに善は不要と教えられているのに、それを完全否定する親鸞会。

投稿: | 2016年6月10日 (金) 08時59分

「18願に善を勧めがあれば、善のできない悪人は救われず本願に漏れるから」は答えになりますか。

投稿: | 2016年6月10日 (金) 19時24分

答えになります。

投稿: 飛雲 | 2016年6月10日 (金) 19時48分

通りすがり様へ
私もかつて会に在籍していたので、通りすがり様と面識がなくとも同じ学徒として志を同じくしていた親友でありました。会長は親鸞聖人の教えに対して尊崇の思いが少しでもあるならば、飛雲さんのサイトを完膚までに破邪して当然ではありませんか?会長はかつてアニメ会合にて「また、金儲けか」との非難に「生かして返すことができない」との怒りが今もあればなおさらです。黙認は無責任であると同時にあり得ないのです。「なぜ、18願に善のすすめがないのか、全く分かっていませんね」というなら、親鸞聖人のお言葉で根拠を出さねば信頼はありません。そう思われませんか?かつて志を同じくした者より。

投稿: | 2016年6月11日 (土) 14時30分

親鸞会のやり方は毎度一緒だな…学習しなさすぎ。子供以下

投稿: | 2016年6月11日 (土) 20時59分

親鸞聖人の教えに、念仏の勧めは、
親鸞会…ない
本願寺…ある
親鸞会は、昔やったように、こんなビラを作って自らの主張を鮮明にしてはいかが?

投稿: | 2016年6月12日 (日) 03時19分

>なぜ18願に善のすすめがないのか、全く分かってませんね、飛雲君は。

このコメントを見る限り、通りすがり様は、本願18願に善は必要ないと理解されていると思いましたが、 飛雲様は「18願には善の必要が無い」と、このブログで何度も、何度も、何度も、・・・・・、説明されているのに、何故 >全く分かってませんね、とコメントされたのか不思議でした。

それで、『親鸞様』のお言葉で、御教授を丁重にお願い致しましたが、全くコメントがないですね、会長にゴマすりの、捨て台詞でしたか。

かつて(約35年前)、子供の素性を知りたければ、親を観ればハッキリと解る、逆に、親(会長)の素性を知りたければ 子供(学徒)を観れば自ずとハッキリする、そして、子供の将来(果)を知りたければ現在の行動(因)で解ると、会長から聞きましたが、現在でもこのような事を言っているのでしょうか。

このブログは、何十万人もの多くの方々が拝聴され学ばれ、また私のように迷いから解放され、お念仏を喜ぶ念仏者が多く生まれています。
このブログで捨て台詞は、絶対に止めて頂きたい。

投稿: とくま | 2016年6月12日 (日) 16時44分

それでもきっと捨て台詞を止めないのが親鸞会の工作員。根拠をもって反論出来ないから、それしかやれることがない。やらない方がよほどマシなのに、オツムが足りないから理解出来ない。

投稿: | 2016年6月12日 (日) 21時23分

とくま様のたとえ話は、聞かないように思います。しかし因果の話は絶好の集客能力があります。あれしかないのではないかとすら考えてしまいます。しかし縁起と抑止と二種深信をを理解しないと結構怖いです。ようやくわかるようになりました。  親鸞聖人は恩師法然上人の生きざまを学習され、念仏は抑えて信心を表面に出されました。しかし主著教行信証をよく見れば、念仏がきちんととらえられております、驚くほどに。恩師を慕う聖人の息遣いが聞こえるようになりました。なんまんだぶ ありがたい

投稿: | 2016年6月14日 (火) 20時14分

南无阿彌陀佛 なんまんだぶ・・・なんまんだぶつ

投稿: とくま | 2016年6月14日 (火) 20時59分

親鸞会は「親鸞聖人の教えに善の勧めはある」と主張しながら、七高僧及び親鸞聖人に19願の勧めはありません。この矛盾に答えるべきでは。会が今なお「親鸞聖人のみ教えを正確に、最も多くの人達に伝える者たちの集まり」であるならば。

投稿: | 2016年6月19日 (日) 20時01分

集会に新しい人が来ると必ずと言っていいほど「因果の道理」のスライドやアニメを見せるが、ここでは善因楽果、悪因苦果、自因自果を教え、廃悪修善に導く。このことと、十九願の善の励行とを結びつけると仏教は大変にすっきりと整理できる。こういう壮大な夢に魅せられているところがあるやもしれない。

投稿: | 2016年6月20日 (月) 23時06分

私は浄土宗の者ですが見させて頂いてます。
質問ですがこのブログを見ている私は仏教を求める者、つまり謗法者ではないという解釈で合ってますよね。
気になったら夜も眠れないんです。

投稿: | 2016年6月21日 (火) 00時12分

浄土宗の方の質問に答えます。

曇鸞大師は『浄土論註』で

問ひていはく、なんらの相かこれ正法を誹謗する。
答へていはく、もし仏なく、仏の法なし、菩薩なく、菩薩の法なしといはん。かくのごとき等の見、もしは心にみづから解し、もしは他に従ひて受け、その心決定するをみな正法を誹謗すと名づく。

このように教えておられますので、この定義に当てはまるのは仏教徒ではないことが条件です。

投稿: 飛雲 | 2016年6月21日 (火) 03時19分

ありがとうございます(涙)

投稿: | 2016年6月21日 (火) 12時05分

善因善果と言っていますが、
実は親鸞会では善の定義をしていません。
「善とは何か」と聞くと「悪の反対だ」と言いますが、答えになっていません。
悪の定義をしていないからです。

投稿: | 2016年6月21日 (火) 14時21分

本願力に合致する善と、娑婆世界に合致する善と、考えると分かり易く思っています。それを飛龍師は、念仏と諸善で教えられていると理解します。諸善は倫理道徳の範囲でしょう。だから死ぬまで求道になっているはずです。

投稿: | 2016年6月21日 (火) 22時04分

>本願力に合致する善と、娑婆世界に合致する善

仰っている意味が判りませんが、

本願力に合致する善=念仏
娑婆世界に合致する善=倫理道徳の善

といことであるなら、それで良いですが、もう一つ

出世間の善

は別にあります。

投稿: 飛雲 | 2016年6月21日 (火) 22時12分

記した後少しひっかりがありました。出世間の善を本願力に合致した善と味わっております。佐野氏のお話でこのお言葉味わっております。

投稿: | 2016年6月23日 (木) 06時52分

行巻にある、念仏と諸善を比較された内容をよくお読みください。
現代語訳

しかるに教法について、念仏と諸善とを比較し、相対して論じると、次のようになります。
難易対、諸善は難行であり、念仏は易行である。
頓漸対、念仏は速やかに成仏し、諸善は長い時間を要する。
横竪対、念仏は他力によって横さまに迷いを超え、諸善は自力によって、竪さまに順を迫って迷いを離れていく。
超渉対、念仏は迷いの世界を飛び超えるが、諸善は歩いて渡るようなものである。
順逆対、念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている。
大小対、念仏は大功徳であるが、諸善の功徳は小さい。
多少対、念仏は多善根であるが、諸善は少善根である。
勝劣対、念仏は最勝の行であり、諸善は劣行である。
親疎対、念仏は仏に親しく馴染み深いが、諸善は疎遠である。
近遠対、念仏は仏に近く、諸善は遠く離れている。
深浅村、念仏は深い法であり、諸善は浅薄である。
強弱対、念仏は強い本願に支えられているが、諸善を支える自力は弱い。
重軽対、念仏は重い願力に支えられているが、それのない諸善は軽い。
広狭対、念仏は一切を救うから広く、諸善は善人にかぎるから狭い。
純雑対、念仏は純粋な往生行であるが、諸善は三乗に通ずる行である。
径迂対、念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。
捷遅対、念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である
通別対、諸善は聖道に通ずる通途の法であり、念仏は特別の法である。
不退退対、念仏は不退転の法であり、諸善は退転のある法である。
直弁因明対、念仏は仏の出世の本意としてただちに説かれた法であり、諸善は自力の機に止むを得ず説かれた法である。
名号定散対、念仏は釈尊が付属された名号であり、諸善は付属されなかった定散二善である。
埋尽非理尽対、念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説にすぎない。
勧無勧対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。
無間間対、念仏は他力に支えられているからその信心は途切れることがないが、諸善を修するものの信は途切れることがある。
断不断対、念仏は摂取されているから信心断絶しないが、諸善は断絶する。
相続不続対、念仏は法の徳によって臨終まで相続するが、諸善は相続しない。
無上有上対、念仏は無上の功徳を具しているが、諸善は有上功徳でしかない。
上上下下対、念仏は最も勝れた上上の法であるが、諸善は下下の法である。
思不思議対、念仏は不可思議の仏智の顕現であり、諸善は分別思議の法である。
因行果徳対、諸善は不完全な因人の行であるが、念仏は阿弥陀仏の果徳を与えられた完全な法である。
自説他説対、念仏は阿弥陀仏自身が説かれた行法であり、諸善はそうではない。
回不回向対、諸善は衆生が回向しなければ往生行にはならないが、念仏は如来回向の法であるから、衆生は回向する必要がない。
護不護対、念仏は如来に護念せられる法であるが、諸善には護念はない。
証不証対、念仏は諸仏が証明されているが、諸善には諸仏の証明がない。
讃不讃対、念仏は諸仏に讃嘆される法であるが、諸善は讃嘆されない。
付嘱不嘱対、念仏は釈迦・弥陀二尊の本意にかなった法であるから付属されたが、諸善は付属されなかった。
了不了教対、念仏は仏の本意が完全に説き示された法であるが、諸善はそうではなかった。
機堪不堪対、念仏はどのような愚劣の機にも堪えられるように成就された法であるが、諸善は劣機には堪えられない法である。
選不選対、念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である。
真仮対、念仏は真実の法であり、諸善はしばらく仮に用いられる方便の法である。
仏滅不滅対、諸善のものは往生しても入滅する応化仏を見るが、念仏往生のものは永久に入滅しない真仏を見る。
法滅利不利対、法減の時になっても念仏は滅びることなく衆生を利益し続けるが、諸善は滅びるから利益がない。しかし、これを法減不滅対と利不利対の二対に分ける説もある。
自力他力対、諸善は自力の法であり、念仏は他力の法である。
有願無願対、念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない。
摂不摂対、念仏は摂取不捨の利益があり、諸善は摂取されない。
入定聚不入対、念仏は正定聚に入る法であるが、諸善は正定聚に入れない。
報化対、念仏は真実報土に往生する行であるが、諸善は化土にとどまる行である。


投稿: 飛雲 | 2016年6月23日 (木) 07時01分

この現代語訳には、なかなか巡り合えません。こう来ないと現代人には教行信証もなじみ少なくなります。私も石田師の現代文を読んで、ご名号のどえらいお力を思い知らされ、お念仏に傾倒していった思い出があります。なんだご開山様も法然さまのご意向をしっかりと継いでおられるとよくわかった懐かしい思い出があります。なんまんだぶ ありがたい

投稿: | 2016年6月24日 (金) 09時03分

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