謗法罪の定義さえ知らない親鸞会を非難攻撃したら謗法罪になりますか?
相手にされていない本願寺に対しては、未だに”打倒本願寺”のスローガンを掲げて、金集めに余念のない親鸞会ですが、親鸞会を攻撃する退会者には、ダンマリを決め込んで、教義論争には手も足も出ないというのが現実です。それに薄々気が付いて戸惑っている会員も少なからずいます。
その対策として、親鸞会を攻撃することを謗法罪と会員に刷り込んでいるのですが、謗法罪の定義が真宗とも通仏教とも異なっているのが親鸞会です。
前回書きましたように、謗法罪とは「無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法」と考える人のことを指すのですが、その程度のことさえ聞いたことのないのが高森顕徹会長です。
親鸞聖人は、謗法の者が救われることはあり得ないと曇鸞大師が仰ったことを承けられて、善導大師の『法事讃』のお言葉を信巻に引かれています。
仏願力をもつて、五逆と十悪と罪滅し生ずることを得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く。
(現代語訳)
この本願のはたらきにより、五逆や十悪のものの罪を滅して往生を得させてくださるのである。謗法のものや一闡提であっても、心をひるがえして如来の本願を信じれば、みな往生することができる。
高森邪義に毒されていると理解できないかもしれませんが、五逆・十悪の者と、謗法・闡提の者とは救われ方が違うのです。判り易く言うと五逆・十悪の者は、そのまま救われますが、謗法・闡提の者は謗法・闡提のまま救われるのではなく、「回心」という心を入れ替えて謗法・闡提でなくなって救われるということです。
曇鸞大師のお言葉と併せれば、簡単な内容ですが、「回心」を獲信と理解すると訳が判らなくなります。ここでの「回心」は「無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法」という謗法・闡提を懺悔して仏教を信じる仏教徒になり、しかも18願を信じるということを意味します。
参考までに『往生要集』にはこうあります。
問ふ。 不信のもの、なんの罪報をか得る。
答ふ。
『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。
問ふ。 もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。
答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。 もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。(後略)(現代語訳)
問う。 信じない者は、 どのような罪の報を得るのであるか。
答える。 ≪称揚諸仏功徳経≫ の下巻に説かれている。
もし、 阿弥陀仏の名号の功徳を讃めたたえることを信じないで、 謗り毀つ者があるならば、 五劫のあいだ地獄に堕ちて、 つぶさにもろもろの苦を受けねばならぬ。
問う。 もし深心がなくて、 疑念を生ずる者は、 結局往生できないのであるか。
答える。 もし、 全く信ぜず、 往生の業を修めず、 浄土を願い求めない者は、 道理として往生するはずがない。 しかしながら、 もし仏智を疑うけれども、 それでもやはり、 かの浄土に生まれたいと願い、 往生の業を修める者は、 これもまた往生することができるのである。(後略)
簡単に言うと
謗法の者は地獄に堕ちる。
謗法ではないが、浄土を願い求めない者は、往生できない。
浄土を願い求めていながらも仏智を疑っている者は、(化土)往生できる。
ということです。
謗法の定義が根本的に狂っているのが親鸞会だと理解できたでしょうか。
現会員はよく考えてください、高森会長の言っていることは仏教と言えますか。
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