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2016年6月

2016年6月28日 (火)

謗法罪の定義さえ知らない親鸞会を非難攻撃したら謗法罪になりますか?

相手にされていない本願寺に対しては、未だに”打倒本願寺”のスローガンを掲げて、金集めに余念のない親鸞会ですが、親鸞会を攻撃する退会者には、ダンマリを決め込んで、教義論争には手も足も出ないというのが現実です。それに薄々気が付いて戸惑っている会員も少なからずいます。

その対策として、親鸞会を攻撃することを謗法罪と会員に刷り込んでいるのですが、謗法罪の定義が真宗とも通仏教とも異なっているのが親鸞会です。

前回書きましたように、謗法罪とは「無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法」と考える人のことを指すのですが、その程度のことさえ聞いたことのないのが高森顕徹会長です。

親鸞聖人は、謗法の者が救われることはあり得ないと曇鸞大師が仰ったことを承けられて、善導大師の『法事讃』のお言葉を信巻に引かれています。

仏願力をもつて、五逆と十悪と罪滅し生ずることを得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く。

(現代語訳)

この本願のはたらきにより、五逆や十悪のものの罪を滅して往生を得させてくださるのである。謗法のものや一闡提であっても、心をひるがえして如来の本願を信じれば、みな往生することができる。

高森邪義に毒されていると理解できないかもしれませんが、五逆・十悪の者と、謗法・闡提の者とは救われ方が違うのです。判り易く言うと五逆・十悪の者は、そのまま救われますが、謗法・闡提の者は謗法・闡提のまま救われるのではなく、「回心」という心を入れ替えて謗法・闡提でなくなって救われるということです。
曇鸞大師のお言葉と併せれば、簡単な内容ですが、「回心」を獲信と理解すると訳が判らなくなります。ここでの「回心」は「無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法」という謗法・闡提を懺悔して仏教を信じる仏教徒になり、しかも18願を信じるということを意味します。

参考までに『往生要集』にはこうあります。

 問ふ。 不信のもの、なんの罪報をか得る。
答ふ。
『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。
 問ふ。 もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。
答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。 もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。(後略)

(現代語訳)

 問う。 信じない者は、 どのような罪の報を得るのであるか。
 答える。 ≪称揚諸仏功徳経≫ の下巻に説かれている。
もし、 阿弥陀仏の名号の功徳を讃めたたえることを信じないで、 謗り毀つ者があるならば、 五劫のあいだ地獄に堕ちて、 つぶさにもろもろの苦を受けねばならぬ。
 問う。 もし深心がなくて、 疑念を生ずる者は、 結局往生できないのであるか。
 答える。 もし、 全く信ぜず、 往生の業を修めず、 浄土を願い求めない者は、 道理として往生するはずがない。 しかしながら、 もし仏智を疑うけれども、 それでもやはり、 かの浄土に生まれたいと願い、 往生の業を修める者は、 これもまた往生することができるのである。(後略)

簡単に言うと

謗法の者は地獄に堕ちる。
謗法ではないが、浄土を願い求めない者は、往生できない。
浄土を願い求めていながらも仏智を疑っている者は、(化土)往生できる。

ということです。
謗法の定義が根本的に狂っているのが親鸞会だと理解できたでしょうか。

現会員はよく考えてください、高森会長の言っていることは仏教と言えますか。

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2016年6月21日 (火)

謗法罪の定義さえ知らない高森顕徹会長

幸福の何とかという宗教団体の真似をして映画館でアニメを上映したものの、その程度の評価しか受けていないのは予想通りで、会員歴の長い会員も呆れて、親鸞会を辞めていく人も出ている程です。

前回まで述べてきたように、親鸞聖人は阿闍世の獲信の物語を長々と紹介されましたが、その後に、阿闍世の造った五逆罪の定義と、18願で除かれているもう一つの罪である謗法罪の定義について解説をされています。

信巻で『往生論註』を引かれています。

 問うていはく、たとひ一人は五逆罪を具して正法を誹謗せざれば、経に得生を許す。また一人ありてただ正法を誹謗して、五逆もろもろの罪なきもの往生を願ぜば、生を得るやいなやと。
 答へていはく、ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ。なにをもつてこれをいふとならば、『経』にいはく、〈五逆の罪人、阿鼻大地獄のなかに堕して、つぶさに一劫の重罪を受く。誹謗正法の人は阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もし尽くれば、また転じて他方の阿鼻大地獄のなかに至る。かくのごとく展転して百千の阿鼻大地獄を経〉と。仏、出づることを得る時節を記したまはず。誹謗正法の罪、極重なるをもつてのゆゑなり。また正法はすなはちこれ仏法なり。この愚痴の人、すでに誹謗を生ず、いづくんぞ仏土に願生するの理あらんや。たとひただかの安楽に 生ぜんことを貪じて生を願ぜんは、また水にあらざるの氷、煙なきの火を求めんがごとし。あに得る理あらんやと。

(現代語訳)

 問うていう。経には、ある人がたとえ五逆の罪を犯しても、正しい法を謗らないなら往生することができるとある。では、ただ正しい法を謗るだけで、五逆などの罪を犯さないものが浄土の往生を願うなら、往生することができるのであろうか。
 答えていう。ただ正しい法を謗るだけで、他に罪は何一つなくても、決して往生することはできない。なぜかといえば、経に、<五逆の罪を犯した人は無間地獄に堕ちて、一劫の間その重い罪の報いを受ける。正しい法を謗った人は無間地獄に堕ちて、一劫が尽きると、また続いて他の無間地獄に堕ちる。このようにして次々と、数多くの無間地獄をめぐるのである>と説かれていて、仏はこの人がいつ地獄から出ることができるのかを明らかにされていない。それは、正しい法を謗る罪がもっとも重いからである。また正しい法というのは、すなわち仏法である。この愚かな人は、すでに仏法を謗っているのであるから、どうして仏の浄土の往生を願うはずがあろうか。たとえ、浄土は安楽なところだから生れたいという貪りの心で往生を願っても、その願いは、水でない氷や煙の出ない火を求めるのと同じであって、往生することができるはずはないのである。

親鸞会の会員にとっては、目から鱗が落ちるような内容かもしれません。
簡単に言えば、

五逆罪を造って、謗法罪を造っていないなら救われる。
五逆罪を造らず、謗法罪を造っているなら救われない。
その理由は、謗法罪を造っている者は、往生を願わないから。
たとえ往生を願っているといっても、浄土で楽がしたいという気持ちなら往生できない。

ということです。

ここから親鸞会の邪義がいくつか明白になります。

五逆罪と謗法罪は、造っている人もあれば、造っていない人もある。
謗法罪を造っている人は決して救われないので、謗法罪を造っているまま救われることはあり得ない。
絶対の幸福だとかいう幻想的な楽を追い求めている人は救われない。

高森顕徹会長の言っていることと、曇鸞大師、親鸞聖人の仰っていることがまるっきり反対なので、会員は信じられないと思いますが、これが現実です。

では謗法罪とは何かということについて、この後このようにあります。

 問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
 答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。

(現代語訳)

 問うていう。正しい法を謗るとは、どのようなことをいうのか。
 答えていう。仏もなく仏の教えもなく、菩薩もなく菩薩の教えもないというような考えを、自分自身でおこしたり、他の人に教えられて、その通りと心に定めることを、みな正しい法を謗るというのである。

これも簡単に言えば、

謗法罪とは、仏教を信じることなく否定すること。

要するに異教徒のことを謗法罪の人というのです。

異教徒は往生を願いませんから異教徒のままで救われることはあり得ないのは筋の通った話です。
全人類が謗法の者という話は、親鸞聖人の教えからはあり得ないのです。

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2016年6月 8日 (水)

親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験7

高森顕徹会長は自分の過去の説法内容を否定し、聖教の根拠も使わずに、当たり障りのない話に限定して説法をしている状態です。

ビデオ法話を無くし、無常の虎の話も、二河白道の譬えも、その他高森会長のお得意の話は今ではほとんど聞くことができません。

高森会長は判っているのです、自分は親鸞聖人の教えとは関係のない話を今までしてきたということを。それなのに、現会員は未だに高森会長のことを無二の善知識と思っているので、哀れとしか言い様がありません。

さて、阿弥陀仏の18願とは、過去に善をしたこともない五逆の下品下生の者が救われるという、聖道門の論理からは到底理解しえないことです。その実例を親鸞聖人は『涅槃経』にある阿闍世で示されています。

一応言っておきますが、韋提希は親を殺してはいませんので、五逆の者ではありません。阿闍世は父親を殺していますので、五逆の者です。
したがいまして韋提希の獲信について親鸞聖人が紹介説明されていたとしても、下品下生の者が往生することの証明にはなりません。それで、聖道門の経典である『涅槃経』から下品下生の者である阿闍世を親鸞聖人は取り上げられているのです。

なお、親鸞聖人は韋提希の獲信の経緯、求道の道程については、全く言及がありません。言及しても大した意味をなさないとのお考えであったと想像されます。

前置きが長くなりましたが、これまで釈尊は阿闍世に対して、地獄に堕ちないという説明ばかりをされています。地獄に堕ちる説明ばかりする高森会長とは正反対です。
釈尊から地獄に堕ちない理由について懇切丁寧に聞かされて、阿闍世は獲信します。その時の言葉が、親鸞聖人の教えの真髄です。

世尊、われ世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。
伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。
無根とは、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく。

(現代語訳)

世尊、世間では、伊蘭の種からは悪臭を放つ伊蘭の樹が生えます。伊蘭の種から芳香を放つ栴檀の樹が生えるのを見たことはありません。わたしは今はじめて伊蘭の種から栴檀の樹が生えるのを見ました。伊蘭の種とはわたしのことであり、栴檀の樹とはわたしの心におこった無根の信であります。無根とは、わたしは今まで如来をあつく敬うこともなく、法宝や僧宝を信じたこともなかったので、これを無根というのであります。

とあります。
無根の信」とは、仏法を信じることも求めることもなかったところに生じた信心、ということです。信を生ずる根拠のないことを表した言葉です。言い換えると、無善で信心を頂くのが、18願の真実信心、本願力回向の信心だということで、ここが親鸞聖人の教えの真髄になります。

阿闍世が知らされたことは、

命がけで善をしようとしたが、一つの善もできない者

ではなく、

一つの善もしてこなかったし、しようとも思わなかった者

ということです。
釈尊は阿闍世に善を勧められてもいません。

当たり前のことで、『大無量寿経』『観無量寿経』共に下輩は善を勧められることもすることもなく往生すると説かれているのですから、浄土門では基本中の基本が、

無善で往生できるのが阿弥陀仏の18願

なのです。

理由は
信心は阿弥陀仏から頂くものなので善の有無は無関係
なのです。

ここまで言えばお判りでしょうが、18願に救われるのに、三願転入する必要もなければ、過去世現在世の善根も不要だということです。

高森会長がどんなに隠して修正をしても、

親鸞聖人のみ教えに善の勧めはある

を撤回できませんので、高森会長と親鸞会は真宗界の笑い者として代々語り継がれるでしょう。

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