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2016年5月 9日 (月)

親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験3

高森顕徹会長が読んだことのない『教行信証』信巻で引用された阿闍世の物語は、親鸞会の会員には信じられない内容の連続です。前回も言いましたが、親鸞聖人が省略されずに紹介されている個所は、阿弥陀仏の救いを理解する上で、大変に重要だと親鸞聖人が判断なされたところです。

釈尊は前回に続けてこう説かれました。

 大王、頻婆沙羅むかし悪心ありて、毘富羅山にして遊行し、鹿を射猟して曠野に周遍しき。ことごとく得るところなし。ただひとりの仙の五通具足せるを見る。見をはりてすなはち瞋恚悪心を生じき。《われいま遊猟す。得ざるゆゑんは、まさしくこの人の駆逐して去らしむるに坐る》と。すなはち左右に勅してこれを殺さしむ。
その人終りに臨んで瞋を生ず。悪心あつて神通を退失して誓言をなさく、《われ実に辜なし。なんぢ心口をもつて横に戮害を加す。われ来世において、またまさにかくのごとく還つて心口をもつてして、なんぢを害すべし》と。
ときに王、聞きをはりて、すなはち悔心を生じて死屍を供養しき。先王かくのごとくなほ軽く受くることを得て、地獄に堕ちず。いはんや王しからずして、まさに地獄の果報を受くべけんや。先王みづから作りて、還つてみづからこれを受く。いかんぞ王をして殺罪を得しめん。王のいふところのごとし。父の王辜なくは、大王いかんぞ、失なきに罪ありといはば、すなはち罪報あらん。悪業なくはすなはち罪報なけん。なんぢが父先王、もし辜罪なくは、いかんぞ報あらん。頻婆沙羅現世のなかにおいて、また善果および悪果を得たり。このゆゑに先王またまた不定なり。不定なるをもつてのゆゑに殺もまた不定なり。殺不定ならば、いかんしてかさだめて地獄に入らんといはん。

(現代語訳)

王よ、頻婆娑羅王は昔、悪い心をおこしたことがある。すなわち毘富羅山に猟にでかけ、鹿を射ようとして広野を歩きまわったことがあり、そのとき、一頭の鹿も得ることができなかった。そこにはただ五つの神通力をそなえた仙人が一人いるだけだった。頻婆娑羅王はこの仙人を見て大いに怒り、悪い心をおこしたのである。≪わたしが今猟に来ているのに獲物が得られないのは、このものが追い払って逃したからだ≫と思い、そこで家来に命じてこの仙人を殺させてしまった。仙人は命が終るときに怒りの心をおこして神通力を失い、≪わたしには何の罪もない。それなのにお前は心と口とで非道にもわたしを殺す。わたしも来世では、またお前がしたように、心と口とできっとお前を殺す≫と誓いをたてた。父王はこれを聞いて後悔の念にかられ、その亡骸を供養したのである。父王はこのようなわけで、罪が軽くなって地獄には堕ちなかった。まして王は殺せと命じたわけでもないのに、地獄に堕ちるはずがあろうか。父王は自分で罪をつくって、自分でその報いを受けたのである。王には父を殺したという罪はない。王は、父王に罪がないというけれども、どうして罪がないといえようか。罪があれば罪の報いがあり、罪がなければ罪の報いもないであろう。そなたの父に罪がないなら、どうして殺されるという報いがあろうか。頻婆娑羅王はこの世で、王になるという善の果報と、殺されるという悪の報いとを得た。だから、父王は、善とも悪ともいえない。善悪不定であるから、これを殺してもそれは善悪不定である。殺したことが善悪不定なら、どうして間違いなく地獄に堕ちるといえようか。

長いので簡単にまとめると、

昔、父王が鹿狩に出かけたとき、一頭も獲物を得ることができなかったことを、仙人がいたからだとして家来に命じて仙人を殺させてしまった。
仙人が死ぬ間際に残した言葉を聞いて父王は後悔して、仙人の亡骸を供養した。
その功徳で父王は地獄に堕ちなかったのである。
まして阿闍世は殺せと命じたわけではないので地獄に堕ちるはずがない。
父王は自分の罪の報いを受けたのである。
阿闍世には父王を殺したという罪はない。
父王はこの世で王になるという善果と、殺されるという悪果を得た。
善悪不定であるから、父王を殺してもそれは善悪不定である。
殺したことが善悪不定だから地獄に堕ちることはない。

如何でしょうか。
高森会長が話している因果の道理とはまるで違う内容です。特に、

不定なるをもつてのゆゑに殺もまた不定なり。殺不定ならば、いかんしてかさだめて地獄に入らんといはん。

ここは衝撃的な内容だと思います。

過失であろうが故意であろうが、動機を無視して、殺生ということだけですべて判断して、その報いは動機も背景も関係なく同じ悪果の地獄だとしか教えないのが高森会長ですが、高森会長が何を根拠にして高森流の因果の道理を教えているのか会員には考えてもらいたいものです。
高森流の因果の道理は、珍しく盗作ではなく、創作ではないかと思いますが、ひょっとしたら外道の因果の道理を盗作したのかもしれません。

いずれにしても、真宗とは無関係の因果の道理を、法話で毎回話をする高森会長は、外道からなら善知識と崇められてもいいでしょう。

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コメント

縁起の話を聞いても、何かすっきりしないのは、こういう喩についての話のないことに原因があると思います。要は、話しする人に幅が無いことと、聴く人に判断能力のないことに因があることによるでしょう。
しかし聞き誤りのある場合、話し手に因のあることが大半のはずです。

投稿: | 2016年5月18日 (水) 21時06分

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