« 親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験5 | トップページ | 親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験7 »

2016年5月31日 (火)

親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験6

退会者にとって映画の評判は酷いものですが、現会員にとっては有難いものと受け取っている人も多いようです。中には冷やかに見ている現会員もいます。
幸福の科学が映画を公開した時と、手法は同じですので、この映画で親鸞会に良い変化が起きることはないでしょう。親鸞会は益々追い込まれていくだけです。

阿闍世の続きです。

大王、たとへば涅槃は有にあらず、無にあらずしてまたこれ有なるがごとし。殺もまたかくのごとし。非有・非無にしてまたこれ有なりといへども、慚愧の人はすなはち有にあらずとす。無慚愧のものはすなはち無にあらずとす。果報を受くるもの、これを名づけて有とす。空見の人はすなはち有にあらずとす。有見の人はすなはち無にあらずとす。有有見のものはまた名づけて有とす。なにをもつてのゆゑに、有有見のものは果報を得るがゆゑに。無有見のものはすなはち果報なし。常見の人はすなはち非有とす。無常見のものはすなはち非無とす。常常見のものは無とすることを得ず。なにをもつてのゆゑに、常常見のものは悪業の果あるがゆゑに、このゆゑに常常見のものは無とすることを得ず。この義をもつてのゆゑに、非有・非無なりといへども、しかもまたこれ有なり。大王、それ衆生は出入の息に名づく。出入の息を断つ、ゆゑに名づけて殺とす。諸仏、俗に随ひて、また説きて殺とす

(現代語訳)

王よ、 またたとえば、 涅槃が有でもなく無でもなくて、 しかも有であるようなものである。 殺害もまた同じであり、 有でもなく無でもなくて、 しかも有なのである。 慚愧の心がある人には有ではなく、 慚愧の心がない人には無ではないのであって、 その報いを受ける人からいえば有なのである。 また、 すべては空であると知った人には有ではなく、 すべては有であると考える人には無ではないのであって、 この有の考えにとらわれた人からいえば有なのである。 なぜかというと、 有の考えにとらわれた人は報いを受けるからである。 有の考えにとらわれない人は報いを受けない。 また、 涅槃が変ることなく存在していることをさとっている人には有ではなく、 それをさとらない人には無ではないのであって、 涅槃が変ることなく存在していることにとらわれている人からいえば無であるとすることはできない。 なぜかというと、 変ることなく存在していることにとらわれている人には悪い行いの報いがあるからである。 だから、 涅槃が変ることなく存在していることにとらわれている人からいえば無であるとすることができないのである。 このようなわけで、 有でもなく無でもなくて、 しかも有なのである。 王よ、 衆生とは呼吸するもののことである。 呼吸を断つから殺害というのである。 衆生の本来は空であるから殺害も空であるが、 仏がたも世間の考え方に合せて、 殺害と説くのである。

ここも非常に難しい内容です。

釈尊がここで仰っていることは、「空」の思想による罪の説明です。「空」とは、固定的な実体がないことをいいます。罪についても、固定不変的な実体として捉えるのは間違いということです。高森顕徹会長は世間的な考えに合わせて、因果の道理から罪に対する悪果ばかりを強調しますが、仏教では「空」で説かれます。ここでは慚愧の心を発した阿闍世にとっては、父殺しの五逆罪が、そのまま無間地獄に堕ちるという固定的なものではない、と教えられています。

このことを『正像末和讃』には

罪業もとよりかたちなし
 妄想顛倒のなせるなり
 心性もとよりきよけれど
 この世はまことのひとぞなき

(現代語訳)

罪業はもともと形がないものであって、
誤った想いや常に変化して持続しない想いによるものです。
人間の本性は本来清らかであるけれども、
今のこの世に真実の心を持った人はいないのです。

と教えられています。罪にはもともと形があるのではなく、妄想顛倒によって、固定的なものと捉えているだけだと仰っています。

ところが高森会長は罪業を強調することで、それが固定不変な悪果をもたらすと脅しているのですから、高森会長が単に無知だということです。

釈尊が阿闍世に説かれたことは、簡単に言えば、

阿闍世が地獄に堕ちない理由

です。

一方、高森会長が言っていることは

すべての人が地獄に堕ちる理由

です。

これで、高森会長の脅し教義が仏教でも真宗でもないことを、現会員が理解できたのなら、退会は近いでしょうが、釈尊と親鸞聖人のお言葉を軽視する現会員は、一生このままかもしれません。

|

« 親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験5 | トップページ | 親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験7 »

阿闍世」カテゴリの記事

コメント

社交の場にしている人には、信心なんてどうでもいいのです。

投稿: | 2016年6月 3日 (金) 21時52分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1323088/65777323

この記事へのトラックバック一覧です: 親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験6:

« 親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験5 | トップページ | 親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験7 »