« 親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験4 | トップページ | 親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験6 »

2016年5月24日 (火)

親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験5

以前からの傾向ではありますが、当ブログへのアクセスが一番多いのが富山県、二番目が熊本県です。地震の前も後もこれは変わりません。この意味については皆さんの御想像にお任せします。

信巻の阿闍世の物語について述べてきましたが、その続きです。

 大王、たとへば幻師の四衢道の頭にして、種々の男女・象・馬・瓔珞・衣服を幻作するがごとし。愚痴の人は謂うて真実とす。有智の人は真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。
大王、たとへば山谷の響きの声のごとし。愚痴の人はこれを実の声と謂へり、有智のひとはそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。
大王、人の怨あるが、詐り来りて親付するがごとし。愚痴の人は謂うてまことに親しむとす、智者は了達してすなはちそれ虚しく詐れりと知らん。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂ふ、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。
大王、人鏡を執りてみづから面像を見るがごとし。愚痴の人は謂うて真の面とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂ふ、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。
大王、熱の時の炎のごとし。愚痴の人はこれはこれ水と謂はん、智者は了達してそれ水にあらずと知らん。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂はん、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。
大王、乾闥婆城のごとし。愚痴の人は謂うて真実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと了知したまへり。
大王、人の夢のうちに五欲の楽を受くるがごとし。愚痴の人はこれを謂うて実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。
大王、殺法・殺業・殺者・殺果および解脱、われみなこれを了れり、すなはち罪あることなけん。王、殺を知るといへども、いかんぞ罪あらんや。
大王、たとへば人主ありて酒を典れりと知れども、もしそれ飲まざれば、すなはちまた酔はざるがごとし。また火と知るといへども焼燃せず。王もまたかくのごとし。また殺を知るといへども、いかんぞ罪あらんや。
大王、もろもろの衆生ありて、日の出づるときにおいて種々の罪を作る、月の出づるときにおいてまた劫盗を行ぜん。日月出でざるにすなはち罪を作らず。日月によりて、それ罪を作らしむといへども、しかるにこの日月実に罪を得ず。殺もまたかくのごとし。

(現代語訳)

 王よ、たとえば幻術師が、街の四つ角でさまざまな男女、象や馬、飾り物や衣服などの幻を見せるようなものである。愚かな人はそれを真実と思うが、賢い人は真実ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また山びこのようである。愚かな人は真実の声と思うが、賢い人はそれが真実の声ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また怨みをいだいているものがいつわって親しげに近づいてくるようなものである。愚かな人は本当に親しくなったように思うが、賢い人はそれが嘘いつわりであると知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また人が鏡を持って自分の顔を見るようなものである。愚かな人はそれが真実の顔と思うが、賢い人はそれが真実の顔ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また逃げ水のようである。愚かな人はこれを水であると思うが、賢い人はそれが水ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また蜃気楼のようである。愚かな人は真実と思うが、賢い人はそれが真実のものではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また夢の中で五欲の楽しみを受けるようなものである。愚かな人はこれを真実と思うが、賢い人はそれが真実ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。
 王よ、殺害の方法も殺害の行為も殺害する人も殺害の結果も、そしてそれからの逃れ方もわたしはすべて知っているが、わたしに罪があるのではない。王が殺害のことを知っていても、どうして罪があろうか。王よ、たとえば人が酒についてよく知っていても、のまなければ酔わないようなものである。王もまた同じである。殺害のことを知っていても、どうして罪があろうか。王よ、ある人が太陽の出ているときにはさまざまな罪を犯し、また月の出ているときには盗みを働き、そして、太陽や月が出ていないときには罪を犯さないとしよう。この場合、太陽や月によって罪を犯すけれども、しかしこの太陽や月には罪があるのではない。殺害もまた同じである。

長いので、簡潔に言うと、

幻術師、山びこ、恨みを持った人が親しげに近づいてくること、鏡、逃げ水、蜃気楼、夢では、愚かな人はそれらが真実と思っても賢い人はそれらは真実でないものと知っている。
殺害も同じで、凡夫は殺害を真実と思っているが、仏は殺害を真実でないと知っておられる。
殺害の方法も殺害の行為も殺害する人も殺害の結果も、そしてそれからの逃れ方も釈尊は御存知でも、罪にはならない。
それは酒についてよく知っていても、酒を呑まなければ酔わないようなものである。
同じことで阿闍世が殺害の方法を知っていても、罪にならない。

高森会長はよく、随喜同業と教えていましたが、釈尊や親鸞聖人の教えに、殺生について随喜同業という発想自体が存在しないと言えます。

私が調べた範囲内では、高森会長の言う随喜同業という教えは、真宗にも仏教にもありませんが、ひょっとして外道の教えにあるものなのかもしれません。

罪悪を殊更に問題にし、親のことを邪魔だと心で思っただけでも五逆罪で無間業だなどいうのは、仏教や親鸞聖人の教えからはあり得ないことは、以前に書いた通りです。

因みに『末灯鈔』のお言葉は、そんな意味ではないことは、後の文章を読めば明らかですよね。

おやをそしるものをば五逆のものと申すなり、同座せざれと候ふなり。

五逆罪の者がいるからそんな者とは席を同じくするな、つまりこの手紙を受け取っている皆さんは五逆罪ではないですよ、でも五逆罪の人が近くにいるから親しくしてはいけません、ということです。
もし、全人類が五逆罪なら、家庭を持つことも「同座せざれ
学校や会社に行くことも「同座せざれ
それどころか親鸞会で集まることも「同座せざれ

結局、誰とも接してはいけないことになってしまいますよね。

高森会長の言うことは、悉く、釈尊、親鸞聖人の教えと正反対なのですが、どういうことか会員の皆さんは説明できるのでしょうか。

|

« 親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験4 | トップページ | 親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験6 »

阿闍世」カテゴリの記事

コメント

随喜同業もウソっぱちですか、嘘だらけですね。バカ森はつくづく節操がない。

投稿:   | 2016年5月26日 (木) 19時40分

「勝つためには手段を選ばず」が本光房の口を借りてロトされてます。

投稿: | 2016年5月27日 (金) 20時15分

自分と同じ退会者が「親鸞会の教えはガラパゴス教義。だから会でしか真実と認められないとか」と言いましたが、最近つくづくそう感じます。

投稿: | 2016年5月29日 (日) 19時24分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1323088/65656963

この記事へのトラックバック一覧です: 親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験5:

« 親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験4 | トップページ | 親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験6 »