親鸞聖人が最重要視されたのに高森会長が全く知らない阿闍世の体験2
以前から何度も言っていますが、私に対して反論のコメントを書かれるのは大いに結構なことですが、根拠を基にして仰って頂かないと、議論にはなりません。個人的な理論や想像が、仏教や真宗の教えと関係なければ、それはその人の教え、もしくは高森会長の教えであって、親鸞聖人の教えではないのです。
判り易く言えば、イスラム教の教えではこうだと言われても困りますし、日蓮宗ではこう教えていると言われても困ります。同様に、私の考えではこうだとか、高森会長が判り易く話を変えたとか言われても、高森教では正しくても真宗では間違いとしか言いようがありません。
したがいまして、コメントは真宗の聖教を基にしないものは受け付けませんので、ご了承ください。
さて、『教行信証』信巻に引文された『涅槃経』の内容と読み比べられれば、高森会長の説く教えが、本当の仏法でないことは、誰の目にも明らかです。
心を重視しているのが仏法であることを高森会長は利用していますが、その内容は全く違います。
判らない方の為に、『涅槃経』の阿闍世の話を通して少し解説しておきます。
なお、『涅槃経』で省略されているところもありますので、省略されずに引文されている部分は親鸞聖人が重要視された部分ということです。
阿闍世は父親を殺したことで、自分は間違いなく無間地獄に堕ちると怯えていたのですが、その時に釈尊が阿闍世に仰った内容が『涅槃経』に詳しく説かれています。親鸞聖人は『教行信証』信巻に引かれています。
〈いかんぞ説きてさだめて地獄に入らんといはん。大王、一切衆生の所作の罪業におほよそ二種あり。一つには軽、二つには重なり。もし心と口とに作るはすなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすなはち名づけて重とす。大王、心に念ひ口に説きて、身になさざれば、得るところの報、軽なり。大王、むかし口に殺せと勅せず、ただ足を削れといへりき。大王、もし侍臣に勅せましかば、たちどころに王の首を斬らまし。坐のときにすなはち斬るとも、なほ罪を得じ。いはんや王勅せず、いかんぞ罪を得ん。王もし罪を得ば、諸仏世尊もまた罪を得たまふべし。なにをもつてのゆゑに。なんぢが父、先王頻婆沙羅、つねに諸仏においてもろもろの善根を種ゑたりき。このゆゑに今日、王位に居することを得たり。諸仏もしその供養を受けたまはざらましかば、すなはち王たらざらまし。もし王たらざらましかば、なんぢすなはち国のために害を生ずることを得ざらまし。もしなんぢ父を殺してまさに罪あるべくは、われら諸仏また罪ましますべし。もし諸仏世尊、罪を得たまふことなくは、なんぢ独りいかんぞ罪を得んや。
(現代語訳)
釈尊が仰せになる。<どうして、きっと地獄に堕ちてしまうというのか。王よ、すべての衆生がつくる罪には、総じて二つある。一つには軽いもの、二つには重いものである。心と口につくる罪は軽く、身と口と心とにつくる罪は重いのである。王よ、心に思い、口にいうだけで、身に行わないなら、その報いは軽い。王は昔、父王を殺せと口で命じたのではなく、ただ足を傷つけて幽閉せよといったのである。王がもし家来に、父王の首を切れと命じたなら、家来はただちにそのようにしたであろう。そのとき父王の首を切ったとしても、命じただけでは王の罪にはならない。まして王はそのように命じてはいないのだから、どうして罪になろうか。王にもし罪があるなら、仏がたにもまた罪があるであろう。なぜなら、そなたの父である頻婆娑羅王は、いつも仏がたを供養して多くの功徳を積んでいたから王位につくことができたのであって、仏がたがその供養をお受けにならなかったなら、王位につくことはなかったのである。王位につかなかったなら、そなたが国を奪うために父王を殺害するということもなかったであろう。そなたが父を殺し、それが罪に成るのなら、わたしを含めて仏がたにもまた罪があるはずである。仏がたに罪がないのなら、そなただけにどうして罪があろうか。
高森会長とは、全く違うことを釈尊は仰っています。阿闍世が父親の頻婆娑羅を殺したといっても、阿闍世が手にかけて殺したのではないから、罪は軽いというのです。「心と口とに作るはすなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすなはち名づけて重とす。」と釈尊が仰ったことは、心に思っただけで重罪と説明する高森会長とは真逆です。殺すという強い意志を持って、実際に親を殺したのが五逆罪です。心で思っただけなら、五逆罪にはなりませんし、無間業でもありません。
釈尊は説明を続けられています。頻婆娑羅が王位に就いたことにより、頻婆娑羅は殺されたのだから、頻婆娑羅が王位に就く原因にまで言及されて、阿闍世に頻婆娑羅殺害のすべての罪がある訳ではないとまで仰っています。
これまでのことは、親鸞会の会員にとっては衝撃的な内容でしょう。仏教で心を重視するのは、心で造る罪を重視しているということではなく、体で造る罪のその時の心を重視するということです。
親殺しを例に挙げれば、
A.多くの人から慕われ、感謝され、尊敬されている父親を妬んで、父親を殺した子供
B.何人もの人を次から次へと殺していく連続殺人犯の父親に悲嘆し、これ以上犠牲者を増やす訳にいかないと父親を殺した子供
AとBが同じ五逆罪というのが、高森会長の考えです。高森会長は、動機という心を軽視しているからです。一方で、仏教ではAとBとは、罪が全く違うと教えられます。これが、心を重視しているということです。
こんなことは仏教を持ち出さなくても、現代の日本の裁判でも、高森会長の歪んだ考えなど、一蹴されるでしょう。
実際に殺さなくても同じことです。心で「死んでくれたら」と思う場合でも、
C.多くの人から慕われ、感謝され、尊敬されている父親を妬んで、父親に死んでほしいと思う子供
D.何人もの人を次から次へと殺していく連続殺人犯の父親に悲嘆し、これ以上犠牲者を増やしたくないから、父親に死んでほしいと思う子供
高森会長の考えでは、CとDとは同じ五逆罪になり、動機という心を軽視しているのです。仏教では、CとDとは明らかに異なると教えられます。心を重視しているからです。常識的に考えてもCとDには違いがあると判断します。
ところが、高森会長の考えでは、A・B・C・Dはすべて同じ五逆罪で無間業であると教えるのです。AとDとは、天と地ほど違いますが、これを一律に同じ五逆罪と定義するのが高森会長です。これで、高森会長が如何に心を軽視しているかが、お判りいただけたと思います。
要するに、高森会長は「法律や倫理道徳と違い、仏教では心を重視している」、と説明することで、高森会長の話が崇高な内容に思えるように装っているだけです。実際は、法律で罰する際の動機という心さえも軽視どころか無視している、極めて低俗な話だということです。
高森会長は東南アジアの仏教国を馬鹿にしていますが、心を軽視した高森会長の教えなど外道だ、と東南アジアの仏教国は見做すでしょう。
高森会長には、本当の仏法とかいう前に、世の中の常識的な考えを学んでほしいものです。
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コメント
親鸞聖人が仰ったことは、皮肉、冗談、ギャグ。
蓮如上人が仰ったことは、命を狙われていたので、本心でないことばかり。
親鸞聖人と蓮如上人の本心は、仰っていないことで、それが分かるのは高森先生だけだ!
親鸞会は、カルトを越えて、オカルトの世界ですね。
投稿: オーカルト | 2016年5月 6日 (金) 18時33分
親をそしるものをば、五逆のものともうすなり。 末燈鈔
投稿: | 2016年5月 7日 (土) 14時26分
オーカルト 様
まさにその通りです。
投稿: 飛雲 | 2016年5月 7日 (土) 14時33分
名無し 様
同じことを何度も何度も何度も何度も何度も書くのは面倒なので、一口問答より抜粋
問い
親鸞聖人は「善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり」(末灯鈔)と仰っていますから、全人類は五逆・謗法の者で、やっぱり必堕無間ではないですか。
答え
これも典型的な断章取義です。このお言葉の後に、「同座せざれと候ふなり。されば北の郡に候ひし善証房は、おやをのり、善信をやうやうにそしり候ひしかば、ちかづきむつまじくおもひ候はで、ちかづけず候ひき。」とあります。どのように読んでも、善証房のような五逆・謗法を造っている者に近付いてはならない、ということで、お手紙を受け取った関東の同行は、五逆・謗法の者ではないという前提です。
問い
では「善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり」(末灯鈔)は、間違っているというのですか。
答え
この後の「同座せざれ」を無視して解釈するするからおかしくなるのです。五逆罪・謗法罪が親鸞会の説明通りなら、親、兄弟、配偶者、子供、職場の同僚などとも、親しくしてはならず、同行同士集まることも、善知識、師に近付くことも禁じられたことになります。親鸞聖人は、一家離散、引き籠り、隠遁生活を勧められたことになり、会を作って多くの人が集まる法話や会合などもっての外ということでが、それが正しい解釈ですか。
問い
全人類が五逆謗法の者ということではないという確かなお聖教上の根拠でもあるというのですか。
答え
謗法罪については、「聖人常陸国にして専修念仏の義をひろめたまふに、おほよそ疑謗の輩は少なく、信順の族はおほし」(御伝鈔)とあります。
五逆罪については、「われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず」(唯信鈔)などです。この文は、法然上人が仰ったことを書かれたものですし、『唯信鈔』は親鸞聖人が自ら何度も書写されて同行に読むように勧められた書ですから、法然上人、親鸞聖人のお言葉でもあります。
問い
外見上は信順していても、心の底では信じ切れていないから、謗法罪を造っていることになるのではないですか。
答え
親鸞聖人は、曇鸞大師の『浄土論註』を引用して説明されています。「もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと」(教行信証信巻)
謗法罪とは、仏の存在、仏の教え自体を根底から否定し、もちろん他人にもそれを言うことです。
そんな謗法の者が救われるかどうかについて「ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ」(同)と、謗法の者が救われることはないと断言されています。全人類が謗法の者なら、誰一人救われることはありません。
問い
謗法の者を救うというのが、阿弥陀仏の本願ではないですか。
答え
このことを親鸞聖人は、善導大師の『法事讃』を引用されて「謗法・闡提、回心すればみな往く」(教行信証信巻)と教えられました。謗法と闡提の者は、心を改めて、仏法を信じるようになったならば救われる、ということです。謗法と闡提のまま救われるのではありません。
ここからも、謗法の者と謗法でない者がいるというのが浄土仏教の常識と判ります。
問い
阿弥陀仏は全人類を「唯除五逆誹謗正法」と見抜かれているではないですか。
答え
嘘です。そのようなことを釈尊も七高僧方も親鸞聖人も蓮如上人も仰っていません。親鸞聖人は「五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」 (尊号真像銘文)と、五逆の者も、そして謗法の者でさえも結局は漏らさずに救われる、としか教えられていません。
高森会長が、大沼法竜師の著書を盗作しただけです。
問い
仏教では心を重視するから、心で親を殺せば、五逆罪になるのではないですか。
答え
親鸞聖人は五逆罪の説明を「ことさらに思うて父を殺す」「ことさらに思うて母を殺す(教行信証信巻)とあります。単に「殺す」のではなく、「ことさらに思うて」なのです。つまり、強い意志をもって親を実際に殺すことを五逆罪というのであって、過失で殺したことでも五逆罪とはいいません。仏教で心を重視するとは、こういうことです。
問い
「もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずといふことなし」(口伝鈔)と教えられているように、心で造った悪も重罪になるのではないですか。
答え
軽重関係なく三業で罪を造っているのが凡夫ということですが、三業の関係について親鸞聖人は『涅槃経』を引用して教えておられます。
「一切衆生の所作の罪業におほよそ二種あり。一つには軽、二つには重なり。もし心と口とに作るはすなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすなはち名づけて重とす。」(教行信証信巻) 心と口との両方で造る罪は軽く、心と口と身との三つで造る罪は重い、ということです。ましてや、心で思っただけで重罪になるとは、何教の話でしょうか。
投稿: 飛雲 | 2016年5月 7日 (土) 14時35分
>「心と口とに作るはすなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすな
>はち名づけて重とす。」と釈尊が仰ったことは、心に思っただけで重罪と
>説明する高森会長とは真逆です。
悪性さらにやめがたし
心は蛇蠍のごとくなり
定水(じょうすい)をこらすといえども識浪(しきろう)しきりに動き
心月(しんげつ)を観ずといえども妄雲なお覆う
しかるに一息つがざれば、千載(せんざい)に長く去く
手にかけて殺さなくても
親をそしるものをば、五逆のものともうすなり。
末燈鈔
投稿: | 2016年5月 7日 (土) 14時36分
飛雲さん上品上生の方?
投稿: | 2016年5月 7日 (土) 14時37分
上に書いた通り。
悪性が止めがたい、妄雲が覆っている、その他すべて、煩悩具足の意味ですね。
煩悩具足は上品上生でも同じです。
会話できる能力があるなら、
【全人類が下品下生、もしくは逆謗と仰った善知識方のお言葉】
を出しましょう。
なければ終わりです。
投稿: 飛雲 | 2016年5月 7日 (土) 14時41分
一応簡単にまとめておきますと、
1.善知識方は、【本願を聞き求めているわれらは逆謗ではない】と仰っています。
2.善知識方で、【全人類が下品下生、もしくは逆謗だ】とはどこにも仰っていません。
1の根拠は出しましたので、1は正しいのです。
2もあなたが根拠を出さない限り、覆すことはできません。
これが議論というものです。
投稿: 飛雲 | 2016年5月 7日 (土) 14時46分
【全人類が下品下生、もしくは逆謗と仰った善知識方のお言葉】
18願に有るとおりなのですが、飛雲さんらが読み違えているので・・・
十方衆生が私の事であったと知らされて初めて本願が読めるのに・・・
・・・・・
>上に書いた通り。
>悪性が止めがたい、妄雲が覆っている、その他すべて、煩悩具足の意味で>すね。
>煩悩具足は上品上生でも同じです。
親鸞聖人心を重視されている事をあげただけですけど・・・(勘違いして
親鸞聖人のように苦悩せられた事がないのね。煩悩具足と片付けて・・そこに懺悔感謝があれば、煩悩具足は上品上生でも同じです。の一言でとても片付けられないのにね♪
投稿: | 2016年5月 7日 (土) 15時16分
【全人類が下品下生、もしくは逆謗と仰った善知識方のお言葉】
この根拠は皆無ということで完全決着です。
18願については上にも書きました。
問い
阿弥陀仏は全人類を「唯除五逆誹謗正法」と見抜かれているではないですか。
答え
嘘です。そのようなことを釈尊も七高僧方も親鸞聖人も蓮如上人も仰っていません。親鸞聖人は「五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」 (尊号真像銘文)と、五逆の者も、そして謗法の者でさえも結局は漏らさずに救われる、としか教えられていません。
高森会長が、大沼法竜師の著書を盗作しただけです。
心を重視するのが仏教であり、真宗です。心を軽視しているのが高森会長と親鸞会です。
毎度毎度のことですが、根拠もなく妄想の垂れ流しで、恥ずかしいと思わないところが信じられませんが、いずれにしても終わりです。
投稿: 飛雲 | 2016年5月 7日 (土) 15時20分
富山県からのアクセス御苦労さまですが、今後同様のコメントはアラシとして削除しますので、御了承ください。
投稿: 飛雲 | 2016年5月 7日 (土) 15時25分
ほんっと議論の前提を理解してないコメントばかり…ホントに親鸞会会員は高学歴が集まってるのか??
投稿: | 2016年5月 7日 (土) 15時49分
こういう形で縁起が深められるのは嬉しい。
知識と知恵は別物。
投稿: | 2016年5月18日 (水) 20時06分
大学1年の時に1年だけ親鸞会に入っていましたが、退会して正解だったようです。
今はスマホで簡単に調べられるので、便利な世の中になったものです。
現代語訳もあってわかりやすい。
説明していただきありがとうございます。
投稿: 35歳 | 2017年4月28日 (金) 20時35分
35歳様
一年で退会されたのは、先見の明があったのでしょう。羨ましいです。
投稿: 飛雲 | 2017年4月28日 (金) 20時48分