« 2016年3月 | トップページ | 2016年5月 »

2016年4月

2016年4月20日 (水)

釈尊が最初から他力念仏を勧められた御文

親鸞聖人以外の善知識方でどなたも仰っていない上、親鸞聖人が御自身で書写なされて同行に読むように勧められた『唯信鈔』『一念多念分別事』『後世物語聞書』にも全く記されていない三願転入が、万人共通の体験だと考える思考が元々おかしいのですが、思考がおかしい人にはおかしいことが判りません。
親鸞聖人は具体例を挙げられて獲信までの体験をいくつも記されています。直接的な獲信までの体験ではありませんが、浄飯王についても親鸞聖人は紹介されています。

『教行信証』行巻に『安楽集』を引かれて

『安楽集』にいはく、「『観仏三昧経』にいはく、〈父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、《仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる》と。仏、父の王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる》と。
(以下略)

(現代語訳)

『安楽集』にいわれている。
「『観仏三昧経』に、<世尊は、父である浄飯王に念仏三昧を修めるようにお勧めになった。父の王は世尊に、≪仏のさとりの徳は真如実相第一義空とのことでありますが、それを観ずる行を、どうして弟子であるわたしに教えてくださらないのですか≫とお尋ねした。
 世尊は父の王に、≪仏がたのさとりの徳は、はかりがたい深い境地であり、仏は神通力や智慧をそなえておいでになります。これはとうてい凡夫が修めることのできる境地ではありません。そこで、父の王に念仏三昧を修めることをお勧めしたのです≫と仰せになった。

親鸞会でも『教学聖典』なるものにそれらしき内容が載っていますので、熱心な会員なら知っていると思いますが、釈尊は浄飯王に対して、念仏を勧められているのです。諸善ではありません。浄飯王が不審に思ったのは、なぜ諸善ではなく念仏を釈尊は勧められたのか、という点でした。それは、浄飯王には行じがたい諸善を勧めてもできないことが判られているからです。
浄飯王は、できると自惚れていましたが、釈尊は「ではやってみなさい」とは仰らずに、「できないから念仏を勧めているのだ」と仰っているのです。

できないのにできると自惚れているから実際にやらせてみて、できないことを判らせる

そんな回りくどいことを釈尊はされず、最初から念仏を勧められていることの意味を会員は考えるべきでしょう。道綽禅師も親鸞聖人も、最初から念仏を勧めることの重要性をここで教えられていることは明白です。

ちなみに、これは行巻に引かれてありますので、親鸞聖人はこの念仏三昧を他力念仏と解釈なされていることになります。

つまりは、釈尊は浄飯王に対して最初から他力念仏を勧められていると、親鸞聖人が仰っているのです。

では、釈尊が最初から他力念仏を勧めておられるのに、親鸞聖人はまずは諸善を実践してから、などと仰ることは通常の思考力があればあり得ないでしょう。

要するに、親鸞聖人は三願転入不要の道程を明らかにされているのです。

大体、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人時代の同行で、三願転入について知っていた人はまずいなかったでしょう。『教行信証』を読むことのできた数えるくらいのお弟子だけが知っていた云わば秘事に近い内容を、親鸞聖人の教えの根基とか言っているのは、善鸞と同じです。

高森秘事をいくら信じても、それは「浅ましき外道の法なり」です。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2016年3月 | トップページ | 2016年5月 »