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2016年3月19日 (土)

法論を検討するといってから4年経ちました

4年前に、このようなエントリーを書いています。

昨日、ある集まりに、弘宣局長とK講師、他2名の講師部員が乗り込んできて、親鸞会の邪義を喚き散らしていったそうです。その際に、私が弘宣局に書面で正式に法論を申し込めば、検討する、と弘宣局長は言っていたそうです。

そこで本日、法論申し込みの書面を書留で送付しました。それに加えて以下のメールも送っておきました。

W 様


御無沙汰しております、○○です。
昨日の件は、聞いております。法論の申し込みを書面でせよ、とのことですので、本日申し込みの書面を書留で送りました。
内容は以下の通りです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
              法論の申し込み
                            平成24年3月18日
弘宣局長 W 様

御無沙汰しております、○○です。

昨年、K講師を通して、法論を申し込みましたが無視されました。
しかしその件で、「弘宣局に直接法論を申し込むように」と貴方が言われたそうですので、ここに書面をもって法論を正式に申し込みます。

法論の条件は、

1.法論の土俵はお聖教であり、お聖教にない文底秘沈のような主張はしない
2.文章でやりとりをする
3.法論の場は、以下とする
  mixi内の信仰と対話コミュニティ*「三願転入」議論継続トピック*
  
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=53217382&comm_id=2135313
4.相手の質問に対して質問で返さず、相手の質問に答えてから新たな質問をする

以上の4点です。

かつて親鸞会は公約していた筈です。

「親鸞会は公約しています。親鸞会の主張に対して異議、反論のある方は遠慮なく申し出てください。相手が集団であれ、個人であれ、公開であれ、非公開であれ、討論であれ、文書討論であれ、相手の希望される方法で、時と場所を問わず、本当の親鸞聖人のみ教えを開顕するために、喜んで対決に応じます。」

これが口先だけであったとは、言わせません。

私の主張は、「親鸞会教義の誤り」「飛雲」「親鸞会の邪義を正す」等のブログで書かれている通りです。一読された上で、法論に臨んで頂きたいと思います。
親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点を以下に列記しておきます。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間


2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている


3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である


4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない


5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力


6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ


7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ


8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない


9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる


10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ

なお、法論に応じられても応じられなくても、返事を頂いても頂かなくても、すべて公開しますので、御了承ください。

                                           ○○○○
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

mixiでの三願転入の法論は、親鸞会の逃亡とトピック削除で幕を閉じましたが、とりあえずその続きをしたいと考えております。

なお、上に挙げたブログをすべて読まれるのは大変でしょうから、最低限、添付ファイルのところだけでも読んでおいて頂けませんでしょうか。

目的は親鸞聖人のみ教えを開顕するためですので、よいお返事をお待ちしております。

○○○○

法論の実現も、返事も期待しておりませんが、万が一法論が実現すれば、また退会者が増える縁になるでしょうから、喜ばしいことです。

その後、何の連絡もなく4年が経ちました。口先だけの親鸞会だということがよく判ります。

なお、私には直接反論してこないで、『顕真』で「ひと口問答」を連載したり、講師部講義で取り上げたりと、陰でこそこそしていましたが、それに反論すると沈黙でした。

詳しくは

浄土真宗親鸞会は、親鸞聖人のみ教えと同じか?

こちらをご覧ください。

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法論」カテゴリの記事

コメント

人間にとっての本当の救いはどういうものですか?

投稿: | 2016年3月19日 (土) 16時23分

名無し 様

本当の救いとは、まずは出離して、最終的に仏になることです。
これが仏教で教える本当の救いです。

投稿: 飛雲 | 2016年3月19日 (土) 16時31分

「歎異抄をひらく」の反論書を出版なさってはいかがでしょうか?

投稿: | 2016年3月19日 (土) 16時58分


>本当の救いとは、まずは出離して、最終的に仏になることです。
これが仏教で教える本当の救いです。

まずは出離とは何でしょう?出離と成仏は時間差があるのですか?

投稿: | 2016年3月19日 (土) 17時00分

真宗会から他宗扱いされている親鸞会の本『歎異鈔をひらく』の反論本を書いて、誰が買いますか?

投稿: 飛雲 | 2016年3月19日 (土) 17時01分

仏教徒が最初に目指すのが出離です。
機の深信を御存知ないようですね。
法然上人までは往生してから浄土で修行して成仏という解釈でした。
ただし、親鸞聖人の解釈は往生即成仏ですから、出離と成仏は同時です。

投稿: 飛雲 | 2016年3月19日 (土) 17時05分

>真宗会から他宗扱いされている親鸞会の本『歎異鈔をひらく』の反論本を書いて、誰が買いますか?

いると思います。

投稿: | 2016年3月19日 (土) 17時11分

本を出すと言うことは、出版社も利益を見込まないと出しません。つまり、数十冊売れた、とかそんなレベルでは話にもなりません。
その程度の知識もない無知なコメントをしないようにお願いします。

投稿: 飛雲 | 2016年3月19日 (土) 17時14分

親鸞会を攻撃するようなことばかりかいて、貴方の目的は何でしょうか?

投稿: | 2016年3月19日 (土) 17時17分

親鸞会に騙されている貴方のような無知な人に知識を与えるためです。

投稿: 飛雲 | 2016年3月19日 (土) 17時18分

口先だけでやっていることは正反対と言うのは今の首相みたいですね。(笑)
あの人の親晋太郎は私は朝鮮人だと吐露をしたことがあるそうです。
日本人にはすでに数百年前から渡ってきた朝鮮人の末裔が混じっている。
彼らは血が濃いらしく、それだけ経っても息をするように嘘を吐くあの民族の特性は依然残るみたいです。(笑)

投稿: 123 | 2016年3月20日 (日) 05時24分

123 様

個人や団体全体が嘘をついている、口先だけ、というのは、事実としてあります。
しかし、特定の民族全員が嘘つき、口先だけ、ということは、事実ではなく、それに該当しない人には不快感しか与えません。
このブログの閲覧は大和民族限定ではありません。
今回と同様のコメントは今後削除しますので、よろしくお願いいたします。

投稿: 飛雲 | 2016年3月20日 (日) 08時53分

>3.善人と悪人について    

高森会長は、<<自分の力だけでは>> の補足説明を加えるべきだと思います。


>4.獲信のために善は必要か   親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要 

>7.19願について       親鸞聖人 19願を捨てよ

4.と7.は矛盾していないでしょうか?

>8.宿善について        高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

高森会長は、宿善の定義を過去世の善根とされていない気がします。
高森会長に再度宿善の定義からお尋ねになられたほうが良いと思います。


>2.五逆罪・謗法罪について 高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている
>9.機の深信について    高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

高森会長に2と9の根拠を聞きたいです。

① 現在世が五濁悪世であること。

② 往生要集に 

問。若し破戒の者は、三昧成ぜずんば、云何が『觀佛經』(卷九)に「此の觀佛三昧は、是一切衆生の犯罪の者の藥なり。破戒の者の護なり」と云へるや。答。破戒の已りて後に、前の罪を滅せんが爲に、一心に佛を念ず、此が爲に藥と名く。若し常に毀犯せば三昧成じ難し。  

とあるからなのでしょうか。

>10.善知識に無条件服従しなければならないか。 高森会長 善知識に無条件服従せよ

高森会長は、蓮如上人御一代記聞書の

一 善知識の仰せなりとも成るまじきなんど思うは、大きなるあさましきことなり。なにたる事なりとも、仰せならばなるべきと、存ずべし。此の凡夫の身が仏になるうえは、さてなるまじきと存ずること、あるべきか。しかれば、「「道宗、近江の湖を一人してうめよ」と、仰せ候うとも、「畏まりたる」と、申すべく候う。仰せにて候わば、ならぬこと、あるべきか」と、申され候う。

を根拠にされていると思います。

なので、善知識の定義をお尋ねされた方が良いと思います。


南無阿弥陀仏 長々と生意気書いてすみませんでした。どうかお許しください。

投稿: | 2016年3月20日 (日) 11時48分

これまで、何十回と法論をしてきた内容を簡単にまとめたのが、以下です。
http://sinrankaix.exblog.jp/

一度、お読み下さい。

投稿: 飛雲 | 2016年3月20日 (日) 12時03分

2016年3月20日 (日) 11時48分 さんへ

かなり理解がおかしいです。
高森会長の言っていることも理解できていないし、飛雲さんの言われていることもまるで理解できていないようで、困ったチャンですね。

投稿: 元々 | 2016年3月20日 (日) 14時32分

無条件降伏をせよ、と言う人間が善知識なわけないでしょう。
騙されていることに気づいて欲しいです。

投稿: | 2016年3月20日 (日) 16時40分

投稿: 元々 | 2016年3月20日 (日) 14時32分さんへ

詳細をお聞かせ願えたらと思います。

投稿: | 2016年3月20日 (日) 19時55分

投稿: | 2016年3月20日 (日) 16時40分 さんへ

無条件降伏ではなく無条件服従ですが、蓮如上人は善知識ではないという意味でしょうか。

投稿: | 2016年3月20日 (日) 20時01分

だから、リンク先を読んでからコメントしましょうよ。

高森会長は、
宿善の薄い者が、そのままで獲信することはありえない
と書いているのですが、それも知らないなんて、恥ずかし過ぎるでしょう。

投稿: 元々 | 2016年3月20日 (日) 20時09分

無条件服従は、蓮如上人のお言葉でないと飛雲さんが丁寧に解説されているから、読んでからコメントしましょうよ。

この程度の日本語が理解できない知能の持ち主だとばれてますよ。

投稿: 元々 | 2016年3月20日 (日) 20時11分

どうも私の言っていることが理解されていないようで、本当に困ったものです。

『本願寺なぜ答えぬ』には本願寺に対する7つの質問があり、その第一問にこうあります。

「宿善とは宿世の善根という意味で、現在から過去をふりかえっていう言葉である。すなわち、私どもが現在、尊い法に遇い、これを信じ喜ばせていただく身になったのは、宿世の善根によるのであるという」(回答書ⒶP・一三七)
「宿善とは遇法獲信の現在から過去にさかのぼって、その縁由を喜ぶものであって、その縁由となった過去の善根については、これを自己の修する善である(宿善自力説)」(回答書ⒶP・一四四)
このように過去をふりかえって喜ぶものが宿善なのに、親鸞会は未来に向かって求めよと修善をすすめるから、間違いだ、といわれています。
回答書ⒶⒷには、同趣旨のものが、四、五ヵ所もあります。
そこで疑問が生じます。
ならば、今年、獲信した人は、昨年、自己の修した善をふりかえって、宿善と喜ぶことになります。
無論、獲信と修した善が無関係ならば、喜ぶはずがありません。
明らかに獲信と修善は関係があったから喜ぶのです。
しかも、悪い関係ならば、喜ぶはずはないのですから、
当然、善い関係でなければなりません。
獲信と善い関係にある修善をすすめることを、なぜ、間違いとされるのか。
また、
「獲信の現在から過去にさかのぼって」の過去には、今生は、はいらないのか。
おたずねいたします。
要約
①獲信とよい関係にある修善をすすめることは、間違いか。
②過去に今生は、はいらないのか。


宿善とは、過去世の善根であることを大前提として、獲信までの現在世の善根も過去の善根になると高森会長は言っている訳ですよ。
こんなことは、親鸞会にいたなら、超常識てきな高森会長の主張なので、一々説明する気にもなりませんでしたが、説明する必要があったことに驚きました。

投稿: 飛雲 | 2016年3月20日 (日) 20時28分

『本願寺なぜ答えぬ』にはこんな言葉もあります。

諸善は、信心獲得の因縁なり

宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。

親鸞会のHPにも

宿善とは、宿世の善根のことであり、阿弥陀仏に救われる(信心獲得)因縁をいう。

と断言されていますが、御存知ないのですか?

高森会長は、
宿善=過去世の善根(獲信までの今世の善根も含む)
と定義しているのですが、あなたは高森会長の話を聞いたことがないのでしょうか?

投稿: 飛雲 | 2016年3月20日 (日) 20時31分

>>3.善人と悪人について    

>高森会長は、<<自分の力だけでは>> の補足説明を加えるべきだと思います。

これは全く意味不明です。

高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

これを

高森会長 自分の力だけでは善人はいない、すべての人は悪人である

としろということですか?
日本語として理解できませんし、高森会長でさえ、こんな愚かな説明はしたことがないです。

投稿: 飛雲 | 2016年3月20日 (日) 20時34分

善知識の定義は、紹介したブログに書いた通りです。

以下抜粋

問い


「善知識の能といふは、一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、ひとをすすむべきばかりなり。」(御文章2帖目第11通)と蓮如上人が仰っているように、阿弥陀仏一仏に向け、と教える善知識に従うのが当然ではありませんか。


答え


ならば、高森会長と講師部員に従ってはならないということですね。
「諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。」(選択本願念仏集)、「一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。」(一念多念証文)と教えられていますように、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」とは、諸善を捨てて念仏一行になれ、ということです。
諸善を勧める悪知識には、従ってはなりません。

投稿: 飛雲 | 2016年3月20日 (日) 20時36分

阿弥陀如来に帰命せよ、と念仏の信心を勧めるのが善知識。

獲信のために、私に金や時間をお布施しなさいと勧めるのが悪知識。

説明されても理解出来ないかもね。

投稿: | 2016年3月20日 (日) 21時03分

>高森会長は、宿善の定義を過去世の善根とされていない気がします。
高森会長に再度宿善の定義からお尋ねになられたほうが良いと思います。

完全に間違っていました。誠に申し訳ありませんでした。

一 光明名号の因縁という事。
 十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに、とくがごとく、過去の宿善あつきものは、今生にこの教におうて、まさに信楽す。宿福なきものは、この教にあうといえども、念持せざれば、またあわざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて、宿善の有無あきらかにしりぬべし。 抄出( 口伝鈔 )

8は、高森会長のご説明で正しいのではないでしょうか?

投稿: | 2016年3月20日 (日) 22時02分

間違っています。
過去に何度も書いてきたことですし、先程のブログを読まれれば、普通に理解できると思いますが、読む気もお持ちでないようでは仕方がありません。
リンク先を紹介しても、読まれないでしょうから、過去のエントリーをそのまま以下に書いておきます。

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り2

『観無量寿経』の下品下生で説かれているのは、五逆罪を造った極悪人という最下の者の臨終という最悪の状況での往生です。

仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

(現代語訳)

続いて釈尊は阿難と韋提希に仰せになった。
「 次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい>と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。


耳四郎よりも悪い五逆罪を造ったものが、平生には善もせず、仏法も聞いていない状況で、臨終になってようやく善知識に巡り遇って、初めて阿弥陀仏を念じて浄土を願ったのです。ところが善知識から勧められるままに念仏を称えようとするものの、臨終の苦しみのために、阿弥陀仏も浄土も念じられず、口先だけのお粗末な念仏にしかならなかったのですが、10回の念仏で往生したと説かれています。


ここで釈尊が教えられていることは、阿弥陀仏の18願は、最下の極悪人の最悪の状況でも救いたもう本願だということです。したがって、十方衆生洩れることなく救われるのです。ここで注目すべきは、下品下生のものは平生も臨終にも善を勧められてはいませんし、善をしてもいないことです。

では何もしなくても、誰でも救われるのかといえば、そうではありません。阿弥陀仏の18願を教えてくれる善知識に遇って、教えを聞いて念仏を称えた人が救われているのです。

ですから、条件としては善知識、教えに遇って、教えに従わないと救われないのです。
当たり前のことですが、キリスト教を信じていても、聖道門を信じていても、18願での救いを願わなければ救われません。

この18願での救いを願うかどうかが非常に重要になります。それを「宿善」といわれているのです。存覚上人の『浄土見聞集』に

この法を信ぜずはこれ無宿善のひとなり。
(中略)
おぼろげの縁にては、たやすくききうべからず。もしききえてよろこぶこころあらば、これ宿善のひとなり。善知識にあひて本願相応のことはりをきくとき、一念もうたがふごころのなきはこれすなはち摂取の心光行者の心中を照護してすてたまはざるゆへなり。
光明は智慧なり。この光明智相より信心を開発したまふゆへに信心は仏智なり。仏智よりすすめられたてまりてくちに名号はとなへらるるなり。

とあるのも、また蓮如上人が『御文章』で

これによりて五重の義をたてたり。
一つには宿善、二つには善知識、三つには光明、四つには信心、五つには名号。この五重の義、成就せずは往生はかなふべからずとみえたり。(2帖目第11通)

とあるのも、「善知識」にあって18願を聞かなければ救われることはありません。それで存覚上人も蓮如上人も一番最初に「宿善」を出されて、次に「善知識」なのです。「善知識」の後に「宿善」ではないことをよく知らねばなりません。「善知識」、18願の教えに遇う条件が「宿善」なのです。

更には『口伝鈔』第2章では

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

とあり、『御文章』でも

それ、当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、まづ宿善・無宿善の機を沙汰すべし。さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、無宿善の機は信心をとりがたし。まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。されば無宿善の機のまへにおいては、正雑二行の沙汰をするときは、かへりて誹謗のもとゐとなるべきなり。この宿善・無宿善の道理を分別せずして、手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば『大経』(下)にのたまはく、「若人無善本不得聞此経」ともいひ、「若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」ともいへり。また善導は「過去已曾 修習此法 今得重聞 則生歓喜」(定善義)とも釈せり。いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり。しかれば宿善の機をまもりて、当流の法をばあたふべしときこえたり。(3帖目第12通)

されば弥陀に帰命すといふも、信心獲得すといふも、宿善にあらずといふことなし。
しかれば念仏往生の根機は、宿因のもよほしにあらずは、われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。このこころを聖人の御ことばには「遇獲信心遠慶宿縁」(文類聚鈔)と仰せられたり。これによりて当流のこころは、人を勧化せんとおもふとも、宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。
このゆゑに、宿善の有無の根機をあひはかりて人をば勧化すべし。(4帖目第1通)

無宿善の機にいたりてはちからおよばず。(4帖目第8通)

とあるように、善知識に遇って、18願の教えを聞いて18願で救われたいと願う人かどうかを覚如上人は「過去の宿善あつきもの」「宿福なきもの」と表現なされ、蓮如上人は「宿善の機」「無宿善の機」と仰っています。

ですから、「宿善」があって「善知識」に遇い、18願を聞いて、その通りに救われたならば、「宿善」のあったことを慶ぶのです。それを親鸞聖人は『教行信証』総序で

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ

と仰り、『浄土文類聚鈔』 にも

たまたま信心を獲ば、遠く宿縁を慶べ

と仰っているのです。

これを善の勧めと誤解させているのが親鸞会です。高森会長は華光会にいた時には、「宿善」ということは言っていないので、親鸞会という組織を作って、金集め人集めを会員にさせる口実が、「宿善」だったのです。

投稿: 飛雲 | 2016年3月20日 (日) 22時14分

もう一つ紹介します。
これも本来はリンク先の紹介だけにしたいのですが、読まれないでしょうから、敢えて以下に紹介する次第です。


宿善の意味(抜粋)


往生と諸善とは、宿善という言葉で繋がっていると考えているのが、親鸞会です。その間違いを、『口伝鈔』第2章では

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

と教えられています。

宿善あつきもの=浄土教を信受する機
宿福なきもの=信受せざる機

です。聖道門を信じている人は、我々よりも遥かに宿世の善根は厚い人ですが、「浄土教を信受する」ことができない「信受せざる機」、「宿福なきもの」です。宿世の善根のない下品下生の逆謗の機でも、善知識に遇って「浄土教を信受する」人は、「宿善あつきもの」になります。宿善を諸善で説明する親鸞会ではとても理解できない内容でしょう。
つまり宿善とは

浄土教(18願)を信受する善因縁
遇法の善因縁

ということです。これを、

獲信の善因縁
往生の善因縁

と勘違いしているのが親鸞会です。このことが判れば、善知識方が往生のため、獲信のために諸善を勧められていないのも、難なく理解できるのです。

親鸞会では宿世の善根によって、信心決定できるかどうかが決まると教えています。

その根拠の1つが、『御文章』4帖目第15通

あはれ、あはれ、存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、朝夕おもひはんべり。まことに宿善まかせとはいひながら、述懐のこころしばらくもやむことなし。

です。宿善とは宿世の善根であり、信心決定までの善根が宿善となる、と聖道門的な解釈で教え込んでいます。しかし、宿善を厚くせよというのが、根本的におかしいのです。

投稿: 飛雲 | 2016年3月20日 (日) 22時21分

高森会長 自分の力だけでは、すべての人は悪人である

上記で良いのではないでしょうか?

>「諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。」

極楽往生のためにはですよね。
極楽往生の為でなければ諸善を行っても構わないわけですよね。


投稿: | 2016年3月21日 (月) 00時06分

帰命は、信と同じです。

>阿弥陀如来に帰命せよ、と念仏の信心を勧めるのが善知識。

ひょっとして飛雲さまの信心は、
信心歓喜後に念仏を称えずに突然死すると
信心歓喜の「歓喜」がぬか喜びになる信心ですか?

投稿: | 2016年3月21日 (月) 01時17分

コトバンク 
大辞林 第三版の解説 ねんじ【念持】( 名 ) スル
〘仏〙(仏の教えなどを)しっかりと心にとどめて保つこと。

念持って何でしょうか?てっきりお念仏かと思って調べたら違いました。


実際「三輪空できるもん」みたいな子どもがいたら善の実践をすすめてしまいそうになりますが・・・。

その場合、聴聞をしっかり心にとどめて保つだけで良いのでしょうか?

念持って具体的には何なのでしょうか?

投稿: | 2016年3月21日 (月) 01時25分

>高森会長 自分の力だけでは、すべての人は悪人である

>上記で良いのではないでしょうか?

正直驚いて、開いた口が塞がりません。
宿善についての高森会長の主張も理解してなかったり、基本的な国語の能力に問題があると思われます。

諸善、念仏、信心の関係については、何百回と書いてきたことですが、全く理解されていないようです。

最低でも高森会長レベルの基礎学力がないと会話が成立しませんので、大変申し訳ないですが、今後のコメントは御遠慮ください。

投稿: 飛雲 | 2016年3月21日 (月) 01時30分

もし、ぬか喜びになる信心ならば以下を読んで見て下さい。

さよなら親鸞会 やめた人の責任 投稿: | 2016年3月13日 (日) 01時56分

投稿: | 2016年3月21日 (月) 01時33分

私は信心決定しとうございます。

念仏は毎日欠かさず唱えておりますが、未だに獲心出来ません。

後生が恐ろしくて不安でなりません。

どうすれば他力の念仏が唱えられるでしょうか?

投稿: せみまる | 2016年3月23日 (水) 17時52分

せみまる 様

まず、信心決定とはどんなことかを、よく知らなければならないと思います。
念仏と信心との関係で言えば、
念仏1つで往生できる(他のどんなことをしても往生できない)と心が定まったことを信心といいます。
念仏を毎日称えているとのことですが、その称えた念仏で助かろうとすると自力です。
そうではなくて、その称えた念仏で間違いなく往生できるとなったのが他力です。

判りにくいかもしれませんが、言い換えると死後のことをすべて阿弥陀仏におまかせしたのが信心です。
死後のことが判るのでもなく、どうすれば助かるのかも判らないまま、その一切を阿弥陀仏に丸投げしたのが、信心であり他力念仏です。

ただ、1つ言えることは、せみまるさんの今の方向性が間違っているのではありませんので、時間の長短はありますが、必ず信心決定できますので、肩の力を抜いてください。

以下参照

『執持鈔』

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人(源空)の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。
そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

投稿: 飛雲 | 2016年3月23日 (水) 18時11分

せみまるさま

信心決定とはいかなる事か、飛雲さんが書かれたのはほんの一部です。
なぜならとても書き切れるものではないからです。
奥はとても深い。
でも、いま、貴方は最も阿弥陀様と向かい合っているところにいます。
とことん阿弥陀様の本願を聞いて下さい。
具体的には仏願の生起本末を徹底的に聞いて下さい。
私的に言えば、機無、円成、廻施です。
とりあえず信心決定したいという思いは分かりますが、私の思いを横に置いて仏願を聞いてみて下さい。たぶん読まれていると思いますが、嶋田さんの私の白道は結構まとまっていますのでもう一度読んで見て下さい。
さらに分からなければ、飛雲さんのブログにコメントして下さい。
飛雲さんを始め、いろんな人からアドバイスがいただけますから。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2016年3月24日 (木) 00時35分

追加 徹底的と書きましたが、まず冷静になって何を言われているのかを読む事が大事だと思います。

投稿: とくよしみね | 2016年3月24日 (木) 07時44分

それ報を案ずれば、如来の願海によりて果成の土を酬報せり。ゆゑに報といふなり。
しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。
(教行信証真仏土巻)

仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。
真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。
これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし。ことに奉持すべきなり。知るべしとなり。
(教行信証真仏土巻)

親鸞聖人は、「真」と「仮」の区別を徹底して鮮明にせられたお方。
そして、
「仮」にとどまり、惑うてはならないぞ、
「真」こそが弥陀の真意である、
と懇ろに教えてくだされている。

それを、

「仮を誡められている」
「これから説く化巻の方便の行信は無関係だから
意識して捨てなさいということ」

というのは正しい理解ですか?


「仮(弥陀の方便)」を戒めるとはどういう意味かが問題です。

親鸞聖人は「仮」そのものを、あたかも危険物かの如く
「はじめから近寄るな」と戒められたお言葉はどこにも無い。
「仮」は必要不可欠のものであり、
親鸞聖人御自身も「仮」から「真」に入られたお方。
「仮」に関わるなと言われているのではない。

「それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、
難思往生を願ふべし。」
と、仮を勧めておられる御言葉からも明らか。

親鸞聖人は飽くまでも、
「仮に”留まる”こと」を懇ろに繰り返し戒められているのです。

「仮が無関係」「意識して捨てることができる」
などは無知の骨頂。
弥陀のお計らいを、どうして愚かな人間の智恵で捨てられようか。

仮から真に入られ、はじめて「真仮」を知られた親鸞聖人は、
偉大な恩徳讃を体得せられている。


「仮」はみな私を「真」へ誘うものであった。
これ「すべて弥陀の御恩」
と味わわれている親鸞聖人と、
「方便は通る必要がない」などと見下している者とは似ても似つかない。

仮から真に入られ、はじめて「真仮」を知られた親鸞聖人とは隔絶しており、
まさに、
『真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。』
です。

投稿: | 2016年3月24日 (木) 10時56分

残念ですが、全くの勘違いです。

>「仮を誡められている」
>「これから説く化巻の方便の行信は無関係だから
>意識して捨てなさいということ」

>というのは正しい理解ですか?

正しい理解です。
方便といえば、聖道門も方便です。
方便が必要なら、聖道門から始めないといけないですね。
化土巻には聖道門についても、更には外道についても書かれています。
外道もしなければならないという理解で宜しいですか?

違いますよね、外道も聖道門も我々には関係ないからするな、同様に19願も関係ないからするな。

こういうことです。

問題は20願ですが、20願のみ、親鸞聖人は勧められたお言葉があります。
逆に言えば、20願以外の方便は勧められたお言葉が存在しません。

20願は一旦勧められていますが、後で誡められています。
その御心は、20願から18願への転入を親鸞聖人は否定されていないからです。
浄土和讃には

定散自力の称名は
 果遂のちかひに帰してこそ
 をしへざれども自然に
 真如の門に転入する

とあります。
20願から18願は自然に転入するので、20願をそういう意味では否定はされていませんが、ただし、20願に拘って留まってしまう人もいたので、他所では20願を信じること自体誡められています。

簡単な話ですがまとめると、

聖道門を勧められたお言葉は存在しない。すべて誡められたお言葉。
19願を勧められたお言葉は存在しない。すべて誡められたお言葉。
20願を勧められたお言葉は存在するが、ほとんどは誡められたお言葉。

こういうことです。


投稿: 飛雲 | 2016年3月24日 (木) 11時11分

「たとひ
われ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修し、心を至し発願して、わが国に生ぜんと欲はん。寿終のときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に
現ぜずは、正覚を取らじ」(19願)

>方便といえば、聖道門も方便です。
方便が必要なら、聖道門から始めないといけないですね。
化土巻には聖道門についても、更には外道についても書かれています。
外道もしなければならないという理解で宜しいですか?


十方の衆生と誓われているのが19願。
聖道門は釈迦が阿弥陀仏如来の19願の御心を明らかにされた真実に近づける方便だが、助からない。末法の我々には必要ない。
必要な方便(手段)は、19願、20願。
19願、20願は、18願から出た、阿弥陀如来のお計らい。誓いの相手は、十方の衆生。

あなたにとって、何が方便ですか?でしたか?

投稿: | 2016年3月24日 (木) 11時28分

このことは、何十回と書いてきたことですが、以前にまとめたものがありますので、そのまま転載しておきます。


Q.19願に「十方衆生」とあるから、19願は我々に関係がない筈がない、と親鸞会では教えていますが?

A.完全なトリックですね。

聖道門の人は、18願に「十方衆生」とあっても、自分たちが18願に関係あるとは思っていません。18願の「十方衆生」とは、下劣根機、つまり悪人のことだと思っています。19願の「十方衆生」とは、上根機、つまり善人のことだと思っています。

一方で、浄土門の善知識方は、19願に「十方衆生」とあるから、全ての人に関係があることだとは言われていません。
先に述べたように、法然上人は19願についてほとんど言及さえされていませんでしたので、聖道門から非難されたくらいです。蓮如上人の『御文章』を読んでも、19願について書かれたところはありません。

高森会長のたとえを使えば、ある国の大統領選挙に立候補した人が、「私が大統領に当選したら、所得税を撤廃します」と公約したとします。国民全員と約束したのですが、国民全員に直接関係があるのではありません。所得税を払っていない人には、関係のないことです。
これが、「国民全員に、定額給付金を出します」となれば、関係のない人はありません。国民全員との約束ではあっても、約束の内容によって、国民全員に関係があるかないかが分れるのです。

高森会長が、人集め金集めのために19願を利用する口実として、「十方衆生」を持ち出しただけのことです。


Q.三願転入は親鸞聖人の教えの根基といわれていますが?

A.高森会長が勝手に言っているだけです。高森会長は、親鸞会の35周年大会の際に、”三願転入の教え”を突如言い始めて、その直後から、「三願転入は親鸞聖人の教えの根基」と言い出しました。つまり、そんな大事な「親鸞聖人の教えの根基」を今まで話をしてこなかったのです。いわば、秘密の法門です。

元々は大沼法竜師が、『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』という著書の中で、
「大沼は三願転入を根基として布教して居るのだ」
と書かれたのが最初です。大沼師は、本願寺の無帰命安心を批判するために、信前信後のあることを親鸞聖人の三願転入の文で説明しただけで、高森会長の言っている意味で、三願転入を使っていた訳ではありません。


Q.では、親鸞聖人には19願についての言及がありますが、どのようなものですか?

A.親鸞聖人も、19願の「十方衆生」については、聖道門の人と同じで、上根機と解釈されています。
それは、『大無量寿経』の異訳経からもいえますが、まとめると以下になります。

  大無量寿経19願の十方衆生
平等覚経 諸佛國人民有作菩薩道者(諸々の仏国の菩薩道をなす者)
大阿弥陀経 八方上下無央數佛國諸天人民若善男子善女人有作菩薩道(諸々の仏国の菩薩道をなす善男人善女人)
尊号真像銘文 「唯除五逆誹謗正法」がないから、五逆・謗法の者は除かれている
化土巻・要門釈 半満・権実の法門(聖道門)を断念した人
西方指南抄 諸行の人
浄土和讃 定散諸機

要するに、19願の「十方衆生」とは善人のことであるというのが、聖道門、浄土門共に共通した見解なのです。
従って、高森会長の解釈は、浄土門でないことはもちろんですが、聖道門とも違っているのです。

18願は悪人正機
19願は善人正機

ということです。このことを法然上人は判りやすく教えておられます。
『勅伝』に

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

とあります。善人に勧められた教えと、悪人に勧められた教えを区別されていることを知った上で、我々最下の凡夫は、悪人に勧められた教えを聞いていくことで、信心決定し、往生ができるのです。
高森会長の教えは、まさしく「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり」なのです。
まともに真宗の先生について仏教の勉強をしたことがないから、阿弥陀仏の本願を独自のデタラメ解釈に陥り、浄土門でも聖道門でもなくなった新興宗教と化しているのです。

投稿: 飛雲 | 2016年3月24日 (木) 11時36分

『19願、20願は私には関係ない、頭で捨てよ』

あなたの主張は分かりました。

よっぽど、19願の軌道に乗りたくない理由があるのですね。

結局、
あなたにとって、何が方便ですか?でしたか?

ひょっとすると、真実に入ったと錯覚しているのですか?

投稿: | 2016年3月24日 (木) 12時39分

>『19願、20願は私には関係ない、頭で捨てよ』

>あなたの主張は分かりました。

>よっぽど、19願の軌道に乗りたくない理由があるのですね。

歴代の善知識方と同じ理由ですが。

歴代の善知識方で、19願が必要だ、19願を勧められた方は、0です。皆無です。

私の方便とか、個人の体験談が聞きたいのですか?
私の体験談を語ると、「自慢できるのは体験談のみ」としか非難できないのが親鸞会ですから、言いませんよ。

親鸞聖人のお言葉を挙げれば、

高僧和讃

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

これは源信僧都のお言葉の言い換えですが、他の方便(19願・諸善)は必要ないと親鸞聖人が断言されているのですけど理解できますか?

結局、高森顕徹という人物が、歴代の善知識方の仰ったことを完全否定していることを認めたくないだけですよね。
高森顕徹という人物が、信心決定していると錯覚し、善知識であると錯覚しているのですよね。
何をもって、高森顕徹という人物が信心決定していると言えるのですか?高森顕徹という人物が正しい解釈をしていると言えるのですか?
聖教にしか根拠はない筈ですが、聖教に基づけば、高森顕徹という人物は異安心で、悪知識としか判断できません。

高森顕徹という人物の体験談のみを信じて、聖教を否定するのが、貴方と言うことです。

投稿: 飛雲 | 2016年3月24日 (木) 12時46分

歴史的な流れを箇条書きにしておきます。

1.龍樹菩薩は第十九願について言及されなかった。
2.天親菩薩は第十九願について言及されなかった。
3.曇鸞大師は第十九願について言及されなかった。
4.道綽禅師は第十九願について言及されなかった。
5.善導大師は第十九願について「往生を誓われた願の1つ」としか仰っていなかった。
6.源信僧都は第十九願について「臨終来迎を誓われた願」としか仰っていなかった。
7.法然上人は第十九願について選択集では言及されなかった。
8.法然上人が第十九願を無視されたことに対して聖道門から「第十九願を隠して第十八願だけを本願というのはおかしい」との非難が有った。
9.承元の法難
10.法然上人の死後、明恵が「菩提心等の諸善を勧められた第十九願は本願ではないのか」と法然上人を厳しく非難した。
11.法然上人のお弟子の中に、「第十九願も尊重すべきでは」と動揺する者が現われた。
12.親鸞聖人が、聖道門の非難とそれに動揺した兄弟弟子のために教行信証を書かれ、「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」と第十九願についての考え違いを正された。
  (その内容は化土巻で詳しく説明され、三願転入の文で御自身の体験を告白なされた)
13.親鸞聖人は同行に対して、唯信鈔・後世物語聞書・一念多念分別事・自力他力事・唯信鈔文意・一念多念証文を読むように勧められたが、それらに三願転入の言及はなかった。
14.覚如上人は第十九願について「諸行往生を誓われた願・臨終来迎を誓われた願」としか仰っていなかった。三願転入について言及されなかった。
15.蓮如上人は第十九願と三願転入について言及されなかった。

以上から何がわかりますか?

「三願転入は全人類が通る道だ」とは誰も教えられていないということです。

親鸞聖人の場合は、第十九願に拘った聖道門からの非難に対する反論として、第十九願について詳説せざるを得なかった訳で、その結論としていわゆる三願転入の文を仰っただけだということですよ。

投稿: 飛雲 | 2016年3月24日 (木) 13時09分

>>よっぽど、19願の軌道に乗りたくない理由があるのですね。

→上のコメントした方へ

このコメント見て多くの人が笑ってますよ。何故かわかりますか??

投稿: | 2016年3月24日 (木) 20時42分

嶋田さんの「私の白道」をちょっと宣伝しただけで、脊髄反射がすごいですね。
よほど嶋田さん始め、飛雲さんや宮田さんは目の上のたんこぶなんでしょう。
また、それをそのまま講師達が同じように思って反論する。
有り難い事です。
また、退会する人が増えます。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2016年3月24日 (木) 21時52分

>よっぽど、19願の軌道に乗りたくない理由があるのですね。

浄土真宗の教えから言えば「よっぽど、18願に乗じたくない理由があるのですね」「よっぽど、19願・自力を捨てたくない理由があるのですね」になるんじゃないかな。

投稿: | 2016年3月24日 (木) 22時32分

「結局、あなたにとって、何が真実ですか?でしたか?
ひょっとすると、真実を知ったと錯覚しているのですか?」

親鸞会の人にはこのようなブーメランになるんじゃないかな。
しかしそんなことよりも、親鸞聖人の教えを学ぶにはお聖教に帰る必要があるでしょうね。

投稿: | 2016年3月24日 (木) 22時40分

【真仮の違いをハッキリ知らない退会者達へ】


「真実の山からは「仮」の山の頂上は見えるが、
仮の山からは真実の山は見えないのである。」

などと、もっともらしく真宗を語り、
真実知ったつもりで方便を見下ろし、
「従仮入真」を説く親鸞会の方々を非難している本人が、

「方便」を通らずして語っている「真実」や「方便」など、
観念上の妄念であり、
真実でもなければ方便でもないから
真仮を知らず、如来広大の恩徳を迷失し、

”実に簡単な教え” ”獲信しても知らされることは僅か”

と無信仰を平気で晒している、その自覚さえもないだけである。

不思議の仏智、信楽を知らず。

「机上の空論」「人智観念のお遊戯」に尽きる。


親鸞聖人は「真」から「仮」を見下ろさせる為に
「真→仮」の次第で書かれたのではない。

「真仮」の「弥陀の広大な恩徳」を知ってもらいたい

これより外はないのである。


根本の他力の信心が抜けていて、
頭だけで済ませたつもりの合点信仰どまりの者には、
恩徳讃もないし、非難も”まとも”ではない。


「方便を”通らなければ”真実へは至れない」という親鸞会の説示を、

「方便を”知らなければ”真実へ至れない」と捏造して非難している。

親鸞会のお話しで、
「方便を知らなければ真実へ至れない」などと聞いたことがない。

ありもしない非難は天に唾を吐く愚かな所業。


親鸞会では常に、

「真実を知らされてはじめて、真実も方便も同時に知らされる」

としか説かれていない。

「真実を知らせる為のものが方便」と言われているのである。


これは真宗伝統の教えであることはすでに述べてきた通り。

これを珍説と言う者が珍説の主である。


それにしても親鸞会を非難しているものに、高尚なものが一つもない。

いまどき、親鸞会を相手に非難する元気があるならば、
もっと正確に、親鸞会の説示を把握してからにしなければ、
非難していないに等しいのであるから、無駄な苦労である。


いつの時代でも、善知識には非難がつきもの。
高森顕徹先生に、数多くの非難があるのは当然であろう。
それらを受けられても逞しく、そして淡々と、
着実に浄土真宗の再興を遂げていかれる輝かしい恩徳讃のお姿から、
親鸞聖人や蓮如上人を偲ばれるお気持ちがひしひしと伝わってくる。

投稿: | 2016年3月24日 (木) 22時52分

>私の方便とか、個人の体験談が聞きたいのですか?
私の体験談を語ると、「自慢できるのは体験談のみ」としか非難できないのが親鸞会ですから、言いませんよ。

親鸞聖人のお言葉を挙げれば、

高僧和讃

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

これは源信僧都のお言葉の言い換えですが、他の方便(19願・諸善)は必要ないと親鸞聖人が断言されているのですけど理解できますか?

『極悪深重の衆生』とは、退会者のことですか?

投稿: | 2016年3月24日 (木) 23時03分

負け犬の遠吠えは終わりましたか?

私は聖教の御文を通して話をしています。親鸞会は空想創作の話しかしません。高森会長が聖教の御文を出しても断章取義と文法無視の無知な解釈だけです。

親鸞聖人は「他の方便なし」と断言されているのに、他の方便が必要と必死に言い続けないと自分が完全否定されて怖いのでしょう。

少しだけ教えて差し上げます。

「極重の悪人」とは下品下生のことです。

下品下生の往生とは、五逆の罪人が過去に善をしたこともなく、平生に仏法も聞いたことのないのに、臨終になって初めて善知識から仏法を聞いて、善知識から念仏を勧められて十回の念仏で往生を遂げるという内容です。

善をしていないし、善知識から善を勧められていないから「他の方便なし」
念仏だけで往生するから「ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまふ」

簡単な話ですよ。

退会者は五逆の罪人ではありませんが、「極重の悪人」である五逆の罪人が「他の方便なし」で往生できるので、「極重の悪人」ではない人も「ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまふ」ですよ。

その「極重の悪人」である五逆の罪人の実例として親鸞聖人は、阿闍世を挙げておられます。

阿闍世は無善で獲信しています。阿闍世曰く「無根の信を獲た」と。
釈尊は阿闍世に善を勧められることなく獲信まで導いておられます。
19願とか三願転入とか無関係です。

理解できましたか?

理解したくないでしょうけど、これが親鸞聖人の教え。高森邪義とは正反対。

投稿: 飛雲 | 2016年3月24日 (木) 23時42分

>親鸞聖人は「他の方便なし」と断言されているのに、他の方便が必要と必死に言い続けないと自分が完全否定されて怖いのでしょう。

少しだけ教えて差し上げます。

「極重の悪人」とは下品下生のことです。

>下品下生の往生とは、五逆の罪人が過去に善をしたこともなく、平生に仏法も聞いたことのないのに、臨終になって初めて善知識から仏法を聞いて、善知識から念仏を勧められて十回の念仏で往生を遂げるという内容です。

善をしていないし、善知識から善を勧められていないから「他の方便なし」
念仏だけで往生するから「ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまふ」

簡単な話ですよ。

>退会者は五逆の罪人ではありませんが、「極重の悪人」である五逆の罪人が「他の方便なし」で往生できるので、「極重の悪人」ではない人も「ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまふ」ですよ。

理解できましたか?

極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ
『高僧和讃』

極悪深重の人間は、
他の如何なる善、仏・菩薩の方便などによろうとも
迷いを離れて浄土に参る方法は一つもない。
ただ信楽獲得して他力の念仏を称える身になりてこそ、
生死を離れて極楽浄土に生まれることができるのだ
と仰せられている。


親鸞聖人が仰る「他の方便さらになし」とは、
善導大師の「出離の縁有ること無し」と同じで、
実機の信知、「機の深信」を言われたものである。


ところがあなたは、あまりにも大胆な珍説を述べている。

> 機の深信は「定散の諸機」も「極重の悪人」も同じです。
> しかし、「極重の悪人」には他の方便がありませんが、
> 「定散の諸機」には他の方便がありますので、
> 「定散の諸機」は「極重の悪人」よりも報土往生が遠回りになります。
>「極重の悪人」である五逆の罪人が「他の方便なし」で往生できるので、「極重の悪人」ではない人も「ひとへに弥陀を称してぞ 浄土にうまるとのべたまふ」ですよ


あっぱれここまで断言できるあなたは、
流石「真宗界では誰も知りません」
と断言できただけのことはある。
惨い自惚れ方である。


「他の方便がある機の深信」

このあなたの説は、真宗史上初の珍説ではなかろうか。
他力の信楽を自力で計らう、これが成りの果てであろう。


あなたには「他の方便が無い」の意味が全く判っていない。
信仰だけでなく、教学レベルも赤子のようである。

「他の方便がない」そのものが「機の深信」であることを知らない。

「他の方便がある」ならば、
助かる縁手がかりがあるのだから
「機の深信」の信知は有ること無しである。


「他の方便さらになし」には、
「余の善、余の仏・菩薩の方便にては生死出でがたしとなり」
と【左訓】されている。

「他の方便さらになし」は「機の深信」なのである。

「機の深信」は、古今東西万人に共通するものであるから、
この御和讃の内容は、
弥陀に救われれば誰もが信知する心の世界であり、
すなわち不可思議の信楽、他力の信心、不可思議の徳海である。

投稿: | 2016年3月24日 (木) 23時57分

機の深信も全く理解できていないようですね。

機の深信とは、自分のやった善では出離できない、のであって「他の方便なし」とは意味が違います。

観経を読んでみれば判りますが、中品下生までは善が勧められています。定散ニ善によって往生できる、つまり「他の方便あり」。ただし、この往生は化土往生。
下品上生以下には善の勧めがありません、つまり「他の方便なし」。下品上生以下は、善根あることなし、なので、善による往生はできない。

要するに、極重の悪人には、善が全くできないのだから、善を勧める意味がないので、他の方便なし、善では出離できないということ。

親鸞会で教学的には完璧と評している『教行信証講義』から

第三文は『観経』下々品の取意の文であってこの(法)に救済〈すく〉わるる機は極重の悪人であるという(機)ことを示し給うのである。それでこの三文をつづけて見れば下々品の逆悪の機が極善最上の法、即ち第十八願の念仏に依って助けられることを説き明し給うたのである。親鸞聖人は今ここに引用した文を常に重んじ給うたもので、『化巻』八(十九左)に「楞厳和尚の解義を按ずるに第十八願は別願中の別願」と宣うたのもこの第二文に依り給うたのであろう、また『化巻』御自釈(四十三右)に『観経』定散の諸機は極重の悪人「唯弥陀を称せよと勧励し給う」というのも、この三文に依り給うたものである。今この文の中に、親鸞聖人が定散の諸機みなことごとく極重悪人であるように仰せられるのも、深く源信和尚の真意を得て、仰せられるので、源信和尚の御意にしてみるもこの引用文の第一文の三輩の業浅深ありと雖もというのが、定散九品の機は種々わかれてあれども、詮じつむれば、極重の悪人にしても自力無功と知って弥陀弘願の救済〈おすくい〉にすがるより外はないぞということを暗示〈あんにしめ〉し給うたのである。親鸞聖人この意を得て定散九品の機も悉く極重悪人であると決し給うたものである。

投稿: 飛雲 | 2016年3月25日 (金) 00時08分

もう一つ『教行信証講義』から


我が聖人の御思召しを伺うに、上来説き明かし来れるが如く、弥陀如来に方便の第十九願あり、釈迦如来は『観経』に定散両門を開いて、諸機の仮益し給うたが、これ畢竟、方便誘引の教門である。横川の源信僧都も第十八願は別願中の別願であると宣うてある。また「極重悪人無他方便唯称弥陀得生極楽」と勧め給うて在します。されば方便要門の法に滞らず、弥陀如来の別願中の別願たる真実弘願の法に帰命して、真実報土に往生せねばならぬ。また『観経』には表に定散の諸機について、定散両善を勧めてあるけれども、実を尅すれば、すべてこれ極重の悪人である。されば弥陀の名号を称念して浄土往生を得る外はないという意である。これで「化巻」始めの「是を以て釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して、群生海を誘引し、阿弥陀如来、本〈もと〉誓願を発して普く諸有海を化し給う」にかっきりと当たるのである。釈迦牟尼仏福徳蔵を顕説し給うも、実は極重悪人無他方便唯称弥陀の弘願法を説かんがためであり、阿弥陀如来の誓願を発し給うも別願中の別願を以て衆生を救わんがためであるということになるのである。中間に引用せられている経文釈文はこの証明となるのである。

投稿: 飛雲 | 2016年3月25日 (金) 00時12分

相変わらずですね。

浄飯王に釈尊は、善を勧められていない、他の方便なしですね。

アジャセに釈尊は、善を勧められていない、他の方便なしですね。

ビンバシャラ王に釈尊は、善を勧められています、そして出離しています、他の方便ありですね。

真宗の常識を否定する親鸞会が真宗の常識を持ち出して誤魔化そうとしているのは、滑稽である。

投稿: 元幹部 | 2016年3月25日 (金) 01時15分

定善の機、上品上生から中品下生までの定散諸機は、善ができるから、善が勧められている
他の方便あり


下品上生から下品下生までの逆悪の機は、仏法・世俗の二種の善根あることなしで、善ができないから善が勧められていない
他の方便なし

機の深信は、他の方便があってもその方便では出離できないの意であるが、他の方便のない逆悪の機は元々出離できないという意。


この違いが全く理解できないのに、偉そうにアホなコメントをするのが、親鸞会会員

投稿: ダイマン | 2016年3月25日 (金) 06時44分

簡単にまとめると

善を勧められている人
善を勧められていない人

この2つに分かれる訳で、

善を勧められている人に善と言う方便(他の方便)あり、
善を勧められていない人に念仏を勧められて善という方便(他の方便)なし

これを存覚上人は『持名鈔』で

機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。

と仰っているのです。
法然上人は先に紹介した通り

しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。

と仰っている訳ですよ。
機の深信は「善の有無を論ぜず」と存覚上人が定義されているので、善の有る人と善の無い人の二種あることが前提になっているのですが、この程度のことは理解できますか?

投稿: 飛雲 | 2016年3月25日 (金) 07時38分

機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。

と仰っているのです。
法然上人は先に紹介した通り

しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。

と仰っている訳ですよ。
>機の深信は「善の有無を論ぜず」と存覚上人が定義されているので、善の有る人と善の無い人の二種あることが前提になっているのですが、この程度のことは理解できますか?

> 親鸞聖人 善人と悪人とがいる
> - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
> 高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

あなたの様な、この類の非難者は、真仮を知らざる者です。

この機会に飛雲氏が異安心である証明も、記しておきます。


<地獄一定は、 機の深信>

●高森顕徹先生

「いずれの行も及び難き身なれば、
とても地獄は一定すみかぞかし
(歎異抄)

修行も学問も修養も、自力のすべてが間に合わなかったと、
地獄一定の身が知らされた(機の深信)」

『親鸞聖人の花びら 藤の巻 P250(一万年堂出版)』

●本願寺

「機の深信とは、自らが地獄一定の存在であると、
機の真実を信知すること」

『真宗の教義と安心』(本願寺出版社)

●飛雲氏

親鸞聖人が『歎異抄』で「地獄一定」と仰ったのは、
懺悔からのことです。

懺悔とは罪悪感からくるものですが、
罪悪感、懺悔と機の深信との区別さえつかないような異安心です。

(飛雲のブログより)


(まとめ)

真宗界では常識の

「 地獄一定 = 機の深信 」 という御法義を、

飛雲氏は《 異安心 》と断定している。

本願寺、親鸞会、どちらから見ても 「 飛雲氏が 異安心 」

明白である。


機の深信とは、弥陀の第18願に摂取された行者の
誰もが例外なく信知する機の真実である。
異なれば異安心だ。

弥陀の第18願の正客は十方衆生。これに漏れる人はない。

その実機が地獄一定と信知すれば、
十方衆生に、地獄一定の悪人以外は存在しない。

これが、弥陀の随自真実の世界なのです。


あなたは、この機の深信を異安心と断定するのだから、
ご当人が異安心。歴然としています。


この真実に対して、「善人も悪人もある」 という御説教は、
弥陀の随他方便の世界を示されたものである。

これは随他の文字通り、
未信の衆生に合わせて導かれる方便だから、
未信者も、聞けばよく納得できる道理である。

否、こうでなければ納得できない。 あなたの様に。


あなたは、自信満々と

> 親鸞聖人 善人と悪人とがいる
> - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
> 高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

親鸞聖人と高森先生とを比較して、
親鸞会が違っていると、懸命に示していなさるおつもりでも、

その実は、方便と真実とを比較して違っていると言っているのであり、
こちらが恥ずかしくなる。

指摘や非難自体のクオリティがとてもお粗末。

信心が狂えば、末も狂う。
当然の帰結であろう。

真仮を知らざるによりて、
如来広大の恩徳を迷失す。
(親鸞聖人)


願わくば、恐ろしい罪に早く気づかれて、廻心懴悔あらんことを。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

投稿: | 2016年3月25日 (金) 15時10分

どこかのブログと同じ内容ですので、誰が書いたかすぐ判りますね。
同じことを何回も言われても、答えは同じです。


『真宗の教義と安心』

 機の深信とは、自らが地獄一定の存在であると、機の真実を信知することであり、法の深信とは、本願はそのような機をまちがいなく救う法であると、法の真実を信知することである。
 この二種深信は互いに矛盾した事実(地獄一定、往生決定)の信知と理解されやすい。しかし、機の深信の意味するところは自らの力が浄土往生についてなんの役にも立たぬと信知することであり、法の深信の意味するところは、出離ひとえに阿弥陀仏の救済の力にあると信知することである。すなわち、機の深信は自らのはからいを捨てさる(捨機)ということであり、また法の深信は阿弥陀仏の救済にすべてをまかせる(託法)ということである。このように二種深信は矛盾した信ではない。自らの力がなんの役にも立たないと知って、はからいを捨てさるということは阿弥陀仏の救済の力にまかせきるということであり、阿弥陀仏の救済の力にまかせきるということは自らの力がなんの役にも立たないと自力のすたるところであって、これは別なことではなく、『高僧和讃』にも、

 煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて 法性常楽証せしむ(五九一)

とうたわれている。


お得意の断章取義。

「地獄一定の存在であると、機の真実を信知する」とはどういうことであるかを、

・機の深信の意味するところは自らの力が浄土往生についてなんの役にも立たぬと信知すること
・機の深信は自らのはからいを捨てさる(捨機)ということ
・自らの力がなんの役にも立たないと知って、はからいを捨てさるということ
・自らの力がなんの役にも立たないと自力のすたるところ

と言い換えられています。
ですから、『真宗の教義と安心』にある「地獄一定」とは、

自力無功、捨機、捨自

という意味です。

それと本願寺と高森会長の主張が同じだから正しいという論法が恥ずかしくないですか?

本願寺は間違っているとあれだけ非難してきてそれで、本願寺と主張が同じ(本当は違う)があると鬼の首でも取ったように喜ぶ。
子供よりも幼稚ですね。


真宗の常識は善人に善を勧め、悪人に念仏を勧められたというものですが、本願寺と主張が違うのはどういうことでしょうか?

歴代の善知識 善人と悪人がいる
高森会長 善人はいない、全人類は悪人である

これが実態。

投稿: 飛雲 | 2016年3月25日 (金) 15時25分

仏眼からご覧になれば、全人類は十方諸仏が見捨てた極悪人。
これが真実。

投稿: | 2016年3月25日 (金) 15時37分

根拠のない妄想

投稿: 飛雲 | 2016年3月25日 (金) 15時44分

>仏眼からご覧になれば、全人類は十方諸仏が見捨てた極悪人。
これが真実。

→コメントするよりも、飛雲さんと法論して真実を明らかにするよう、会に伝えるのが貴方の役目ではないですか。どうして会は飛雲さんから逃げるのかが問題です。
真実開顕のためです。逃げていないのなら実行して下さい。逃げるのならもうコメントしないで下さい。

投稿: | 2016年3月25日 (金) 16時57分

仏眼からご覧になれば、全人類は、
一切煩悩悪業邪智=罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし=煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でず。

これが真実。

答ふ。仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して
(教行信証信巻)

如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。
(教行信証信巻)

深心釈
 〈二者深心〉。深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。 一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。
また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。
また決定して、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生ずることを得と深信するなり。

かの『懺儀』によりて要文を鈔していはく、「二つには深心、すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。
(教行信証信巻)

投稿: | 2016年3月25日 (金) 17時36分

要するに

「善根薄少」とあるから「無善根」ではないので、極悪人ではない証拠ですね。

『玄義分』

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。 ただ悪を作ることを知るのみ。


同じことを何度も何度もコメントしたって無駄ってことですよ。

同様の内容なら、削除しますので。

投稿: 飛雲 | 2016年3月25日 (金) 17時42分

善人であっても悪人であっても阿弥陀様にお浄土につれてもらうんでしょう。
十方衆生とは悪人だけを指すんですか?善をしなさいと勧めながら悪人と認定するんですか?
めちゃくちゃ矛盾してますよ。
どうあっても親鸞会はみんな悪人に仕立てないといけないんでしょうね。悪意があるとしか思えません。
飛雲さんのブログは大変わかりやすく、ありがたいことです。これからもよろしくお願いします。

投稿: 田舎者 | 2016年3月25日 (金) 20時21分

田舎者さんへ。

>善人であっても悪人であっても阿弥陀様にお浄土につれてもらうんでしょう。
十方衆生とは悪人だけを指すんですか?善をしなさいと勧めながら悪人と認定するんですか?
めちゃくちゃ矛盾してますよ。
どうあっても親鸞会はみんな悪人に仕立てないといけないんでしょうね。悪意があるとしか思えません。


聖人のお言葉では、
すべての人を
『悪人』
と言われるときと、
『善悪の凡夫』
と言われるときとが
あることを知っていなければなりません。

どうしても、十方衆生に、善人、悪人あるようにしか思えないのが、自力の心です。

善悪相対の知恵しか持たぬ十方衆生に、
仏様の絶対の智慧で見られた真実のすがたを知らせるのは、
至難のことです。

自力の心を粉砕し、
すべての人が悪人であると、
知らされたのが、
機の深信です。

深心釈
 〈二者深心〉。深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。 一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。
また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。
また決定して、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生ずることを得と深信するなり。
(教行信証信巻)

投稿: | 2016年3月25日 (金) 20時56分

田舎者 様

有難うございます。

投稿: 飛雲 | 2016年3月25日 (金) 20時59分

>聖人のお言葉では、
>すべての人を
>『悪人』
>と言われるときと、
>『善悪の凡夫』
>と言われるときとが
>あることを知っていなければなりません。

嘘ですね。どこに、

>すべての人を
>『悪人』
>と言われるとき

があるのか明示すればいいのに、できないですよね。無いのですから当たり前です。

過去に書いた一口問答でも読んでおいてくださいな。


問い
他力信心を獲得すれば万人等しく二つのことが知らされる『二種深信』の機の深信には、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫(逆謗)~乃至~と深信す」と、弥陀の救いに値えば明らかに知らされることであると説かれていますから、すべての人は逆謗の機ではないですか。


答え


「煩悩具足」と機の深信について、善導大師は『往生礼讃』に直接仰っていて、親鸞聖人も引用されています。
「自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。」(教行信証行巻・信巻)
善導大師は「煩悩を具足せる凡夫」であり、かつ「善根薄少」と仰っていますが、「善根無し」とは仰っていません。善導大師は下輩について「この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし」(観無量寿経疏)と仰っていますから、善導大師御自身は下輩でない、との告白です。もちろん下品下生の五逆の機ではない、極重の悪人ではない、ということです。

問い


本願文で機の深信に相当するのが「唯除五逆誹謗正法」と教えられているではないですか。


答え


これも妄想です。二種深信を詳しく解説された存覚上人が、『六要鈔』の中で、法の深信について本願の「若不生者不取正覚」を出されましたが、機の深信については本願文を出されていません。もちろん、善知識方も仰っていません。大沼法竜師が味わいを語った内容を教義と高森会長が勘違いしただけです。
「唯除五逆誹謗正法」について親鸞聖人は、「五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。」(尊号真像銘文)と教えられています。五逆謗法の者も漏れず、ですから、すべての人の中に五逆謗法の者もいる、つまり五逆謗法でない者も多い、ということです。

問い


機の深信とは、逆謗の屍で地獄行き間違いなし、と知らされることではないというなら、何が知らされるのですか。


答え


日本語が理解できるなら、文字通り解釈するだけです。
なお、善導大師は機の深信を更に別の言い方で詳しく説明されています。
「わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。 他はことごとく身命を惜しまず。 道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。 しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。 煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。」(観無量寿経疏)
私は法友と共に無始より廃悪修善に努めてきた。その中で数えきれない多くの法友が、出離して聖者となったのに、我ら凡夫は未だ出離できず、煩悩がますます盛んになり、微々たる善しかできない、ということです。
逆謗の屍とか地獄行き間違いなしの意味など皆無です。

問い


親鸞聖人は「地獄は一定すみかぞかし」(歎異抄)と仰っていますから、機の深信とは死んだら地獄に堕ちる、とはっきり知らされることではないですか。


答え


前にも言いましたが、この御心は『執持鈔』に詳しく書かれています。「われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。」という大前提を仰った後、「われら凡夫かならず地獄におつべし」「決定悪道へゆくべかりつる身」「三悪・四趣の生をひくよりほか」「六趣・四生よりほかはすみかもなく」「三途・八難にこそしづむべけれ」と様々に言い換えられています。
阿弥陀仏に救われても死後のことがはっきりすることはないと仰っているのですから、聖教上に書かれたことを踏まえて臨機応変に、地獄だ、三悪道だ、六道だ、と親鸞聖人が使い分けられているだけです。


問い


自分の罪悪を取り詰めていくと、必堕無間、逆謗の機と知らされるのです。


答え


自分の罪悪を取り詰めて、必堕無間に怯える阿闍世に対して、釈尊が仰ったことが『涅槃経』に説かれ、それを『教行信証』信巻に大変詳しく紹介されています。
最初に釈尊は「いかんぞ説きてさだめて地獄に入らんといはん。」と仰り、地獄に堕ちる罪ではない、と阿闍世の過剰な罪悪観を否定されています。その後、釈尊は空で罪悪について諄々と説かれ、阿闍世は「無根の信」を生じます。
つまり、釈尊は阿闍世の過剰な罪悪観を取り除く説法をされて、阿闍世は救われているのです。罪悪を押し付ける高森会長とは正反対です。

問い


機の深信とは、過去・現在・未来の三世における自己の相が、ハッキリすることです。


答え


機の深信に当たるお言葉として曇鸞大師は、「われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。」(讃阿弥陀仏偈)と仰っています。また親鸞聖人は、「煩悩具足と信知して 本願力に乗ずれば すなはち穢身すてはてて 法性常楽証せしむ」(高僧和讃)と仰っています。
つまり、曇鸞大師・善導大師・親鸞聖人が仰っていることは、煩悩によって輪廻し、自力では出離できない、ということです。
三世が判るとか、ハッキリするとかいう、大袈裟なものではありません。

投稿: 飛雲 | 2016年3月25日 (金) 21時02分

ここも読んでおいてください。

「飛雲」から親鸞会への教義非難
3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である


これに反論した親鸞会の回答
顕真平成24年7月号

問い

親鸞聖人は善人と悪人がいると仰っているのに、すべての人は悪人というのは間違いだと言う人がありますが、如何でしょうか。

答え

「一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」と『教行信証』に断言されています。
「一切の群生海」とは、すべての人のことです。「清浄の心無く、真実の心無し」とは、悪人ということです。
 善人は一人もいないと仰っています。
 これは親鸞聖人の一貫して変わらぬ人間観で、世に轟いていることです。


これに反論した回答
「飛雲」からの反論

問い
親鸞聖人は「一切の群生海、無始よりこの来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し」(教行信証信巻)と説かれています。「一切の群生海」とは、全ての人のこと、「清浄の心無く、真実の心無し」とは、悪人ということではないですか。


答え
以前にもいいましたが、これは全人類は煩悩に穢されていることを仰ったものです。親鸞会でも教えている通り、煩悩に穢された心で善を行っても「一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。」(教行信証信巻)と「雑毒の善」にしかならない、「真実の善」はできないということです。「真実の善」ができるのは仏です。「雑毒の善」しかできない人が善人です。「雑毒の善」さえもできない人が悪人です。

問い
『大無量寿経』に「心常念悪 口常言悪 身常行悪 曽無一善」と全人類の実相を教えられているから、全人類は悪人であることに間違いはないでしょう。


答え
いつもの断章取義です。これは『大無量寿経』の五悪段と呼ばれるところにあるのですが、五悪段の前に「諸仏の国土の天・人の類は、自然に善をなして大きに悪をなさざれば」と善人について説明なされていますので、全人類が悪人という意味にはなりません。
また親鸞聖人はこの五悪段を全く引用されていません。中国語に翻訳される際に儒教の影響を受けて五悪段が加えられた、と今日考えられていますが、親鸞聖人も同様のお考えであったのかもしれません。実際、親鸞聖人が重要視された異訳経の『無量寿如来会』には五悪段はありません。
親鸞聖人が触れられていない部分を、鬼の首でも取ったかのように強調して、「これが親鸞聖人の教えだ」と言っていること自体、恥ずかしいと思わないのですか。

問い
親鸞聖人は、全人類のことを「一生造悪」(正信偈)と仰っていますから、やっぱり全人類は悪人ではないですか。


答え
これについて蓮如上人は「一生造悪の機も」(正信偈大意)と解説されています。元は道綽禅師が「たとひ一生悪を造れども」(安楽集)あるいは「たとひ一形悪を造れども」(同)と仰ったことです。親鸞聖人も「一形悪をつくれども」(高僧和讃)と仰っていますから、たとえ一生悪を造っている機であってでも、ということで、全人類が「一生造悪」という意味にはなりません。日本語を正しく理解してください。

投稿: 飛雲 | 2016年3月25日 (金) 21時06分

毎度毎度の理解不能理論の押し付け。
これで高森邪義が正当なものと思えるかって話。
善根薄少
善根有ること無し
これが同じだってさ。どんな脳みそなのかね。
善根薄少は、善人
善根有ること無しは、悪人
善導大師の仰る機の深信は、下っ端の善凡夫でしかないことの懺悔であって、悪凡夫なんていう自覚は全くない。
善導大師は、菩薩まで至れないことを恥じているのであり、善が全くできないなんて微塵も思われていない。

まあ、日本語の問題ですから、日本語の能力が薄少の会員には、理解不能でしょうね。

投稿: 元々 | 2016年3月25日 (金) 22時12分

飛雲さん、お返事くださり、ありがとうございます。
親鸞会員、あなた方のような無知な連中に悪人呼ばわりされる筋合いはない。

因果の道理をふりかざし、恫喝することが、絶対の智慧などでは断じてないことは確かでしょう。

恥を知りなさい。

投稿: 田舎者 | 2016年3月25日 (金) 22時46分

つらつらとここのやりとりを読んでみましたが、『真宗の教義と安心』の引用は明らかに自分の首しめてるでしょ。
論点変えないで、親鸞会の人はここだけでも反論してみてよ。

まあ、どっちが正しいかは教学に詳しい方に判断してもらうとして、とにかく親鸞会の人が書き込んでる超上から目線の言葉が聞いてて実に不愉快。時折、親鸞会の文章を呼んでいると、内容がどうこうより人間性を疑ってしまう。
退会者の言葉もひどいこと多いけどね。

ここでのやりとりをどうケジメつけるのか楽しみにしてます。
逃げないでね。

投稿: | 2016年3月26日 (土) 00時33分

地獄一定について飛雲さんが丁寧に教えてくださっているのに理解できていない人がいるので、横から少し。

地獄一定とは

1.親鸞聖人は御著書の中でそれらしいお言葉も含めて、全く仰っていない。
2.他の善知識も全く仰っていない。
3.機の深信は、善が少ししか出来なくて出離できないという表現なので、【善人】でも出離できないと信知すること。
4.機の深信で、善の全くできない悪人は、元々出離できる要素が最初からないので、無善だから出離できないと信知すること。
5.機の深信に、地獄一定の意味はない。
6.『歎異抄』の中で著者が「地獄一定」という親鸞聖人のお言葉を聞いたと書いている。
7.覚如上人は『執持鈔』の中で、親鸞聖人が「地獄一定」と仰った経緯を説明されている。
8.『執持鈔』では親鸞聖人のお言葉が、
  「われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。」
  「われら凡夫かならず地獄におつべし」
  「決定悪道へゆくべかりつる身」
  「三悪・四趣の生をひくよりほか」
  「六趣・四生よりほかはすみかもなく」
  「三途・八難にこそしづむべけれ」
  という様々な表現が見られる。
9.『真宗の教義と安心』では機の深信の表現として「地獄一定」を採用しているが、その内容は
  「機の深信の意味するところは自らの力が浄土往生についてなんの役にも立たぬと信知すること」
  「機の深信は自らのはからいを捨てさる(捨機)ということ」
  「自らの力がなんの役にも立たないと知って、はからいを捨てさるということ」
  「自らの力がなんの役にも立たないと自力のすたるところ」
  としている。


※結論※

親鸞聖人を含め、善知識方で機の深信を「地獄一定」と表現された方はおられないが、『真宗の教義と安心』では機の深信の表現として「地獄一定」を採用しているに過ぎず、その内容は善知識方と同じである。

投稿: 横やり | 2016年3月26日 (土) 06時03分

親鸞会が、本願寺の説と同じだと言っている時点でアウトでしょう。
親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人がこう仰っているから、本願寺が何と言おうが親鸞会が正しいと言い続けてきたのに、この体たらくはなんだ。
そんな親鸞会の竜頭蛇尾の戯言に惑わされるのもどうかと思いますが。

投稿: アウト | 2016年3月26日 (土) 06時38分

お判りの方はスルーして頂いて結構ですが、念のため書いておきます。

親鸞会 地獄一定=必堕無間

本願寺 地獄一定=捨機≠必堕無間

同じ言葉を使っても、意味が違うと言うことです。

投稿: 飛雲 | 2016年3月26日 (土) 08時44分

久遠劫よりこの世まで あわれみましますしるしには
仏智不思議につけしめて 善悪浄穢もなかりけり

正像末和讃 聖徳奉讃

これが 御開山聖人のご領解です。
一切衆生必堕無間などという妄言は金輪際はかないことですね。
文句があるならどうぞ。偉そうに絶対の智慧などと言ったひとへ。

投稿: 田舎者 | 2016年3月26日 (土) 16時18分

もうひとつ

解脱の光輪きわもなし 光触れるかふるものはみな
有無をはなるとのべたまふ
平等覚に帰命せよ

浄土和讃

意味を説明しなければいけませんか?
平等覚という意味くらい、勉強しておきなさい。
あまりにも貴方々は無知なんです。自覚できましたか?

投稿: 田舎者 | 2016年3月27日 (日) 03時23分

光触かふるものはみな

誤字がありました、訂正します。

投稿: 田舎者 | 2016年3月27日 (日) 03時29分

んで、親鸞会さんはどこ行ったの?
逃亡ってことで、決着だね。

投稿: | 2016年3月28日 (月) 19時11分

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