親鸞聖人が大変重要視なされた龍樹菩薩の獲信までの体験
前々回のエントリーについて、もう少し詳しく解説してほしいとの御要望がありましたので、再度説明を致します。
まず、親鸞聖人は獲信までの道程について、具体的な例を挙げて説明されている個所がいくつかあります。
七高僧では、龍樹菩薩と曇鸞大師については、『正信偈』でも仰っているくらいですから、親鸞聖人がこのお二方の体験を大変重要視なされたことになります。
他には、阿闍世の獲信までの体験は、親鸞聖人は『涅槃経』を引かれて長々と紹介されています。その長さは、異様とも思えるほどで、その量は『教行信証』全体の約1割にも及び、信巻では約4割を占めています。ここから言えることは、阿闍世の獲信までの体験を通して、親鸞聖人は他力の信心を賜る道程を教えられているということです。
上記の3つの体験は、いずれも三願転入とは無関係です。
従って、親鸞聖人の教えは三願転入の教えではないことは、これだけでも簡単に説明できるのです。
3つの体験を順番に紹介していきますが、今回は龍樹菩薩について述べます。
『正信偈』では、
大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して安楽に生ぜん
とあるのは、さすがに会員でも知っているでしょう。
これを蓮如上人は『正信偈大意』で
「釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見 宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽」といふは、この龍樹菩薩は八宗の祖師、千部の論師なり。釈尊の滅後五百余歳に出世したまふ。釈尊これをかねてしろしめして、『楞伽経』に説きたまはく、「南天竺国に龍樹といふ比丘あるべし、よく有無の邪見を破して、大乗無上の法を説きて、歓喜地を証して安楽に往生すべし」と未来記したまへり。
と解説なされています。
龍樹菩薩は、聖道門で御修行なされて歓喜地を証されて後に、浄土門に帰依なされて往生なされた、という体験です。
また『教行信証』真仏土巻に曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』を引かれて
尊語を伏承して歓喜地にして、阿弥陀に帰して安楽に生ぜしむ。
(現代語訳)
釈尊のお言葉を承り、歓喜地の位にあって、阿弥陀仏に帰依して浄土に往生された。
と仰っています。
龍樹菩薩は、聖道門で歓喜地を証されて後に阿弥陀仏に帰依された体験をなされている、と親鸞聖人が仰っています。
念のため『高僧和讃』にも同様のことを仰っていますので、そちらも紹介します。
本師龍樹菩薩は
大乗無上の法をとき
歓喜地を証してぞ
ひとへに念仏すすめける
親鸞聖人は龍樹菩薩の体験を殊更強調されています。一箇所しか書かれていない三願転入の文よりも重要だと親鸞聖人は見做されているのは明らかです。
龍樹菩薩は三願転入をされたという表現は、どこにもありません。
判りやすく表現すると
聖道門 → 18願
こういうことです。
聖道門で歓喜地まで至られ出離された龍樹菩薩が、今更19願の実践をされる理由は全くありません。龍樹菩薩は、定善も散善も当然ながらできた方です。聖道門の修行によって歓喜地まで至られた方が、定善も散善もできなかったら、聖道門はギャグでしょう。
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コメント
今晩は。
阿弥陀さまに計らいをとって頂いてからも、俺はお聖教を拝読して、読めるところと読めないところがあるタイプみたいです(汗
ですが、信前信後を問わずに正しく真宗を学ぶことの重要性を最近は特に痛感します。
今更ながら飛雲さんのブログの過去ログを拝見して、本当に有り難く読ませて頂いています。
去年までは、たまにここを見る事があっても難しいしよく分からないからキチンと読んでいませんでしたが、根底には過去に聞いて信じてきたものが否定されるのが苦しいから、目を逸らしていた自分がいたような気がします。
幸い俺は善知識、御同行、御同朋に恵まれて阿弥陀さまのご恩を喜ばせて頂いていますが、未だに知らない方、間違った教えを聞かされてる方に浄土真宗、平成業成を正しく聞いて頂きたいです。
これからもお聖教を読み、勉強していこうと思います。
ここには色々な方が来られるみたいなので飛雲さんの根気には頭の下がる思いですが、俺みたいに陰ながら応援されている方も多いと思います。いつも有難うございます。
投稿: R1000 | 2016年3月24日 (木) 23時20分
平成じゃなく、「平生業成」でした。
誤字、失礼しました。
投稿: R1000 | 2016年3月24日 (木) 23時25分
R1000 様
ありがとうございます。私も日々勉強しておりますので、お互いに精進しましょう。
投稿: 飛雲 | 2016年3月24日 (木) 23時45分
真偽のほどは分かりませんが、親鸞会会員さんの中に自殺された方がいるという話を聞いた事があります。
自分自身、自殺未遂者なので本当に胸が痛みます。俺は会員時代も辞めた後も死のうとした事があるので一概に親鸞会の教えのみに原因を求めるつもりはないのですが、「一切衆生必堕無間」と「三願転入によってしか、アリ一匹救われない」の呪いに縛られて苦しんでいた事が思い起こされます。死にたくないけど、もうこれ以上生きられないから死ぬしかないと追い詰められているのに、死んだら無間地獄だから死ぬこともできない。救われて楽になりたいのに、阿弥陀仏はまず善をせよという。生きるだけで、死なないだけで精一杯なのに、何年、何十年と一生懸命善に励んでいる講師や会員さんが救われてない。俺には無理だと諦めようとしても、諦めたら、親鸞会を辞めたら必堕無間が待っている。どうしていいか分からなくなって、発狂しそうになりました。壁に頭をガンガン打ち付けたり、富山帰りの高速道路を運転中、何度も絶叫した事もあります。小杉駅のホームで一人電車を待つ間、何度飛び込もうと思ったか知れません。
もし、俺のように苦しんでいる会員さんがここを見られていたら。絶対に、まだ死なないで下さい。阿弥陀さまは、俺のような奴でも無条件で助けて下さいました。もう私を仏にする働きは働いているんです。なにか計らわないと救われない、となったら、今が臨終なら間に合わないんです。「善をしたら」とか「称えたら」とか「喜んだら」とか。「たら」がついたら、今の救いにならない。それがいらない、というのが浄土真宗であり、平生業成なんです。
怠惰な俺ですが、ようやく最近、お聖教を読むようになりました。今日からこちらのブログも最初から読ませてもらおうと思ってブログ開設の日付から読み始めたのですが、どうか最初のページだけでも読んで頂きたいです。「必堕無間」の誤り、本当の後生の一大事など。合わせて、リンク先の安心問答の記事も是非読んで頂きたいです。
飛雲さんのお邪魔をしたくないので基本的にROM専ですが、どうしてもこれだけは書かせてもらいたく、失礼しました。
投稿: R1000 | 2016年3月27日 (日) 16時26分
R1000 様
会員の自殺は、少ないですが昔からありました。
会長の側近の弟も自殺しましたし、幹部会員の自殺も何人もありますし、末端会員の自殺もあります。
理由は様々なのでしょうが、自殺を防ぐ唯一の教えと言いながら、会員のしかも幹部の自殺さえ防げないのは、教えの破たんを意味します。
必堕無間を未だに会長は言っていますが、真宗に脅しの教えはあり得ません。阿闍世は必堕無間の我が身に恐れおののいて悶え苦しんでいましたが、必堕無間、必堕地獄を釈尊が徹底的に否定なされて獲信しています。親鸞会とは正反対の教えが真宗なのです。
投稿: 飛雲 | 2016年3月27日 (日) 16時56分
なんで親鸞会みたいなのがあって自分はひっかけられとんでもない無益な遠回りと徒労をさせられたのか、
それに意味はあるのか考えさせられる毎日です。
投稿: | 2016年3月28日 (月) 01時21分
私達が本当に救いになる言葉は
善をせよ、とか
悪をするな、とかではないんです。
善いも悪いもないから、真っ直ぐ私の声を聞いてこっちに来なさい。
こう呼びかけてくださることだとおもいます。
因果の道理は信頼できる人の支えや暖かい励まし、友人の声で変わってゆく。
これが本当の真宗の教えだと、飛雲さんに教えていただきました。
なんまんだぶつ
投稿: 田舎者 | 2016年3月28日 (月) 07時13分
田舎者 様
いつもコメント有難うございます。
>因果の道理は信頼できる人の支えや暖かい励まし、友人の声で変わってゆく。
この意味がよく判りませんが、親鸞会で教えているところの因果の道理は間違っていますので、そのように理解されれば結構です。
これを言葉通りに私が言ったとかいう話になると、挙げ足をとりたくて狙っている親鸞会にとっては、格好の材料になりかねませんので、念のため。
投稿: 飛雲 | 2016年3月28日 (月) 08時59分
飛雲様
ご指摘いただき、有難うございます。
因果の道理という表現が不適切で意味が通りませんでしたね。反省しています。大変失礼致しました。
お詫び致します。
私が申し上げたかったことは、信罪福心に凝り固まった、因果の道理を信ずることではありません。
むしろその見方、とらえ方が信を獲た人の導きによって、真実の行信に気づかされていくことを伝えたかったのです。
一言お礼申しあげたくて、コメントを出した次第です。
私のような者にこのように接してくださり、感謝いたします。
投稿: 田舎者 | 2016年3月28日 (月) 12時31分
二河白道の譬。
会も好んで持ち出していたが、群賊・悪獣・悪知識は白道を渡らんとする行者にそっちは危ないぞ、戻って来いと呼び戻そうとすると教えられる。
それらが実は会の人間自身たちだったということ。
投稿: | 2016年3月30日 (水) 15時09分