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2016年2月

2016年2月23日 (火)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義41

最近の親鸞会は、新規会員獲得に血眼になっています。現会員から大金を巻き上げる方法がいつもいつも出てきませんので、入会金5万円が大きな魅力となっているのでしょう。

現会員も新規会員も訳のわからない宿善という言葉に騙されてお金を出していることが多いのですが、その時によく使われるのが『御一代記聞書』の

陽気・陰気とてあり。されば陽気をうる花ははやく開くなり、陰気とて日陰の花は遅く咲くなり。かやうに宿善も遅速あり。されば已今当の往生あり。
弥陀の光明にあひて、はやく開くる人もあり、遅く開くる人もあり。
とにかくに、信不信ともに仏法を心に入れて聴聞申すべきなりと[云々]。
已今当のこと、前々住上人(蓮如)仰せられ候ふと[云々]。
昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もありと仰せられしと[云々]。

です。『なぜ生きる2』18章でも最後の2文を除いて取り上げられています。
ただし、この意味がまた無茶苦茶です。この意訳として

陽の当たるところの花は速く咲き、日蔭の花は遅いだろう。
陽の当たるところの花が速く咲くように、弥陀の本願を真剣に聞き速く救われる人もある。聞法を怠れば日蔭の花のように救われるのも遅くなる。
同じく弥陀の光明(聞法)に遇っても、救われるのが速い人と遅い人があるのは、人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。
救われている人も、救われていない人も、ともかくも、大事なことは真剣な聴聞である。

としています。
かなり無理な訳にしていることがお判りでしょうか。
最も問題なのが

かように宿善も遅速あり

ですが、この意味は高森顕徹会長の言葉を使うなら、

同じく弥陀の光明(聞法)に遇っても、救われるのが速い人と遅い人がある

です。

人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ

の意味はありません。
その証拠をお見せしましょう。

このお言葉は蓮如上人が「金を掘り出すような聖教」とまで絶賛されました『安心決定鈔』にあるお言葉を言い換えられたものです。事実、『御一代記聞書』には、『安心決定鈔』からの引用が多数あります。
ここの関連部分は

かるがゆゑに仏の正覚のほかは凡夫の往生はなきなり。十方衆生の往生の成就せしとき、仏も正覚を成るゆゑに、仏の正覚成りしとわれらが往生の成就せしとは同時なり。仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば、すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり。機によりて三世は不同なれども、弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり。
(中略)
かくこころうれば、われらは今日今時往生すとも、わがこころのかしこくて念仏をも申し、他力をも信ずるこころの功にあらず。勇猛専精にはげみたまひし仏の功徳、十劫正覚の刹那にわれらにおいて成じたまひたりけるが、あらはれもてゆくなり。覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり。已・今・当の三世の往生は不同なれども、弘願正因のあらはれもてゆくゆゑに、仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり。

です。
ここに書かれてあることは、
阿弥陀仏が十劫の昔に、本願を成就されているのに、人によって往生の時期に前後ができるのはなぜかということについてです。
『御一代記聞書』と比較するとよく判ります。

已今当の往生あり(『御一代記聞書』)

すでに往生するひともあり、いま往生するひともあり、当に往生すべきひともあり(『安心決定鈔』)

已・今・当の三世の往生は不同なれども(『安心決定鈔』)

このことより、

宿善も遅速あり(『御一代記聞書』)

仏の方よりは往生を成ぜしかども、衆生がこのことわりをしること不同なれば(『安心決定鈔』)

覚体の功徳は同時に十方衆生のうへに成ぜしかども、昨日あらはすひともあり、今日あらはすひともあり(『安心決定鈔』)

となります。

に当ります。「ことわりをしる」「あらわす」とありますし、『御一代記聞書』の最後に

昨日あらはす人もあり、今日あらはす人もあり

とありますので、『御一代記聞書』の「宿善」とは、信心のことを指していることがお判り頂けると思います。

つまり『御一代記聞書』では、信心をうることに遅速があるから、已今当の往生がある、と教えられたお言葉と理解できます。

『安心決定鈔』の「ことわりをしる」「あらわす」ことは、自分のやった善とは全く関係ないのです。『安心決定鈔』の、

弥陀のかはりて成就せし正覚の一念のほかは、さらに機よりいささかも添ふることはなきなり

仏の願行のほかには、別に機に信心ひとつも行ひとつもくはふることはなきなり

に、そのことが明確に解説されています。
要するに、『御一代記聞書』の「宿善」には、自力的な意味の善は含まれていないのです。

結局

人それぞれの宿善(過去の善根)に遅速(厚薄)があるからだ。

こんな意味になることは、100%あり得ません。
高森会長が妄想で築き上げた砂上の楼閣など、聖教の前では瞬時に崩れ去る本当に脆いものなのです。

悔しければ、いつでも法論をしますので、遠慮なく申し出てください。ただし、聖教上での法論しかしませんので、体験談のごり押しは拒絶します。

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2016年2月11日 (木)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義40

先日、親鸞会の自称獲信者と、法論をしました。厳密には、法論といえるようなレベルではなく、相手が体験談を延々と述べ続けるだけでした。5年前にも、同人物とやりあっていますので、最初から結果は判っていましたが、数回のやり取りであっけなく逃亡してしまいました。ここに紹介するまでもない内容ですが、簡単に報告だけしておきます。

さて、高森顕徹会長も自称獲信者も、二種深信を、地獄一定と極楽一定が同時に知らされることという、異教徒のような体験と説明していますが、そうではないことを前回説明しました。

ところで今日の真宗では、二種深信を、自力無功、他力全託と説明しますが、これは存覚上人の『六要鈔』にある二種深信の解説によっています。

「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。
「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。

何のことか判りにくいかもしれませんが、前半が機の深信の説明で、後半が法の深信の説明です。
善導大師、親鸞聖人の仰っている内容を深く掘り下げて、

機の深信を「自の功を仮らず」
「自力の功なきこと」
法の深信を「出離は偏に他力に在る」「偏に仏力に帰す」

とまとめられています。

もちろん存覚上人の解釈にも、高森会長や親鸞会の自称獲信者の体験に合うようなことはどこにもありません。

それでは、お待ちかねの第三深信について述べます。

『散善義』にある第三深信

また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。

を親鸞聖人は『教行信証』信巻と化土巻で引かれています。

『観無量寿経』の定散二善および19願は浄土を「欣慕」、つまり願い慕わせるためだけで捨て去るべきものという意味と、聖道門から浄土門へ導くという方便の役割を説明されていることになります。念のために説明しておきますと、浄土を願わせるのですから、浄土を願っていない人、つまりは聖道門の人のために、『観無量寿経』の定散二善および19願という方便があるのだ、ということです。

親鸞聖人は、同じ化土巻で

如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。

と仰っています。

存覚上人は『六要鈔』でこの解説を

『観経』の所説は定・散・弘願の三門なり。而るに定散を説くことは弘願を顕わさんが為なり。『選択集』に云わく「また定散を説くことは、念仏の余善に超過せることを顕さんが為なり。もし定散なくは、何ぞ念仏の特に秀たることを顕さん。例せば法華の三説の上に秀でたるが如し。もし三説なくは、何ぞ法華の第一なることを顕さん。故に今定散は廃のために而も説き、念仏三昧は立のために而も説く」已上。故に定善を請するは随他の教を顕わす。その定善の外に、仏は散善を開して散動の機に応ず。その散機の中に、なお廃悪修善に堪えざるあり。仏はその機の為に念仏の行を説く。この義に依るが故に、初に微咲する所は、定機に約すといえども、仏の本懐は遂に念仏に在り。今この解釈はこの義を顕わすなり。

とされています。

判りにくいかもしれませんが、簡単に言うと、『選択本願念仏集』の「また定散を説くことは、念仏の余善に超過せることを顕さんが為なり。もし定散なくは、何ぞ念仏の特に秀たることを顕さん。」の意味ということす。

更には「定善の外に、仏は散善を開して散動の機に応ず。その散機の中に、なお廃悪修善に堪えざるあり。仏はその機の為に念仏の行を説く。」と、善人に定散二善を説かれ、廃悪修善のできない悪人のために念仏は説かれたとの解説もつけられています。

6年前のmixiでの三願転入の法論では、ここが最大のウイークポイントでした。今でもそれは変わりません。

第三深信についてまとめると、

19願諸善は聖道門の善人のために建てられて、その意義は、聖道門の人を浄土門に導きいれるための方便。
一方で、廃悪修善のできない悪人には、19願諸善は関係なく、18願念仏を最初から説かれて勧められている。

こういうことです。

親鸞聖人の教えられていることはどこを読んでも同じですが、それを故意に捻じ曲げているのが高森会長なのです。

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2016年2月 6日 (土)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義39

高森顕徹会長は、自分の摩訶不思議な体験をもって、真実の信心だと思い込んでいるようですが、とんだ誤解です。高森会長が真実の信心を説明するときに必ず出すのが二種深信ですが、この内容が顕わされた文章と高森会長の信心は違います。

『なぜ生きる2』17章には、知りもしない七深信が説明もなく出されて、結論として

「七深信」を要約すると、こうである。
 第一の深信は「機の深信」と言われる。
 第二の深信を「法の深信」と言う。
「法の深信」を五つに開かれたのが[三]から[七]の深信であるから、「七深信」は「機・法、二種の深信」となる。

と説明しているだけです。

法話や講義、そして著書の中で七深信について触れたことがないので、これ以上の説明は不可能でしょう。
というよりも、元々は6年前のmixiでの三願転入の法論の中で、高森会長が全く知らなかった七深信の中の第三深信を出されて、高森会長がしどろもどろになった大失態を、『なぜ切る2』に載せておいて、本当は前から知っていたんだぞ、と誤魔化したいだけのことです。

第三深信については次回述べることとして、今回は根本の二種深信について、高森会長の摩訶不思議な体験とは明らかに異なっていることを説明します。

二種深信については、親鸞会でも引用されるのが、『教行信証』信巻にだけある

一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。

です。
ところが善導大師は他の表現でも二種深信を仰っていて、それは『教行信証』の行巻と信巻の二か所に引かれています。

自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。
いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。

前者が一か所で、後者が二か所で紹介されているから、単純に後者の方が重要という話ではありませんが、少なくとも、親鸞聖人は後者の二種深信を重要視されていたので、それを知らない高森会長は、『教行信証』を全く読んだことがないとここでも判明します。

内容については、前者よりも後者の方が、より明確になっています。
簡単にまとめると

機の深信は、自分が今までやってきた程度の善では出離できない、と信知すること。
法の深信は、阿弥陀仏の本願は念仏で必ず往生できる、と信知すること。

こういうことです。もっと簡潔に言うと、

善では出離できない、念仏によってのみ出離し往生できる、と信知する

これが真実の信心だと言うことです。
善導大師のことを念頭におけば、

聖道門では出離できない、阿弥陀仏の18願念仏によってのみ往生できる、と信知する

と言い換えることもできます。

高森会長の言うような、摩訶不思議な体験とは大いに異なっていることがお判りでしょうか。

要するに、念仏1つで助かる、と深信したのが二種深信だということです。

ですから、念仏1つで助かると言っても、信心1つで助かると言っても、同じことなのです。念仏と信心が別ものとしか考えられないから、摩訶不思議な信心が、突然どこからか自分の心の中に飛び込んでくるとしか思えないのでしょう。
まるで神の啓示のようにしか説明していないところが、親鸞会は異安心集団だという証明になります。

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