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2016年1月23日 (土)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義37

自慢できるものは体験談しかない、と華光会を批判している親鸞会ですが、親鸞会こそ、体験談しか自慢できるものがないです。高森顕徹会長の摩訶不思議な体験をもって、高森会長が唯一無二の善知識の証と吹聴しており、更には親鸞聖人が御自身の体験として仰った三願転入の文を、親鸞聖人の教えの根基といっている矛盾に気が付かない現会員も、酷い思考状態です。

『なぜ生きる2』16章に、三願転入の文の意訳を載せた後、
 この三願転入のご文は、個人の告白でありながら、阿弥陀仏の誓願で表現なされている。
 十方衆生(すべての人)相手の弥陀の救いの過程は、万人に通ずる金言でなければならないからであろう。
 百人百様の言い分では、弊害はあっても、三世十方を貫く普遍の教えとはならず、書き遺す主意を失うからと推測される。
 そして、こう表白されている。
 |親鸞、大悲の願船(十八願)に乗じて明らかに知らされたのは、これまで
 |阿弥陀仏の種々のご方便(十九願・二十願)があったことである。
 この三願転入のご文から、阿弥陀仏の善巧方便とは、弥陀の十九・二十の二願であることが明瞭となる。
と実に愚かなことを書いています。
他の体験文は万人に通じていないが、三願転入の文だけは万人に通じているとする理由が判りません。親鸞聖人が、三願転入の文だけは万人共通の体験だ、と仰っているなら別ですが、そのようなお言葉は全くありません。

親鸞聖人は七高僧の体験についても仰っているところがあります。
龍樹菩薩については『正信偈』で、

大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して安楽に生ぜん

とあるのは、会員でも知っているでしょう。
また『教行信証』真仏土巻に『讃阿弥陀仏偈』を引かれて

尊語を伏承して歓喜地にして、阿弥陀に帰して安楽に生ぜしむ。

(現代語訳)

釈尊のお言葉を承り、歓喜地の位にあって、阿弥陀仏に帰依して浄土に往生された。

と仰っています。
龍樹菩薩は、聖道門で歓喜地を証されて後に阿弥陀仏に帰依された体験をなされている、と親鸞聖人が仰っています。『高僧和讃』にも同様のことを仰っていますから、親鸞聖人は龍樹菩薩の体験を殊更強調されています。一箇所しか書かれていない三願転入の文よりも重要だと親鸞聖人は見做されているのは明らかです。

曇鸞大師についてはやはり『正信偈』に

三蔵流支、浄教を授けしかば、仙経を焚焼して楽邦に帰したまひき。

とありますし、『高僧和讃』にも、

本師曇鸞和尚は
 菩提流支のをしへにて
 仙経ながくやきすてて
 浄土にふかく帰せしめき

と仰っています。
曇鸞大師は道教から浄土教に入られた、と親鸞聖人が曇鸞大師の体験を繰り返し仰っていますので、これも一箇所にしか書かれていない三願転入の文よりも重要な位置にあるのは、言うまでもありません。
龍樹菩薩と曇鸞大師の体験については、親鸞聖人が一字一涙の思いで書かれたと高森会長が説明している『正信偈』にあるくらいですから、当然な結論です。

それと、親鸞聖人が善巧方便と仰った信巻には、阿闍世の獲信の体験談が長々と紹介されています。

親鸞聖人御自身の一箇所の体験文の方が、龍樹菩薩や曇鸞大師の複数箇所の体験文、信巻に長々と紹介された阿闍世の体験よりも格上だ

と訳の判らない屁理屈を言ってきそうですが、それならば、その最も重要な親鸞聖人の三願転入の体験文を覚如上人、蓮如上人が紹介されていないのはなぜでしょうか。

答えは、重要ではないし、知る必要がないからです。

高森会長の詭弁を論破することなど、赤子の手を捻るくらい容易いことです。

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コメント

ある和上に教えられたことが強烈に印象に残っています。
それは、「我々は阿弥陀仏の作られたご名号に救われるのであって、ある人の教えに救われるのではない」という教えです。
いわれてみて、なるほどと感じたものでした。

投稿: | 2016年1月24日 (日) 21時34分

>それならば、その最も重要な親鸞聖人の三願転入の体験文を覚如上人、蓮如上人が紹介されていないのはなぜでしょうか。

このことに関してですが、以前に脱会者の質問に対して現役会員と思しき人物が「領解文も読んだ事がないのか」という意味の答えを返していたのを見たので、早速読んでみたのですが…一体これのどこが三願転入なのかと思いました。「自力を捨てて他力に帰せ」とはあっても「十九願から入れ」なんてどこにもなかったのですが…。何でもいいからとにかく根拠らしきものをあげておけばいい、とまではまさか考えてはいないでしょうが、それにしても自分こそ読んでから出した方がいいのでは…と思いました(そういう私自身も会員時代は「読んだつもり」になっていただけでしたから、あまり大きな事は言えないのですが)。

投稿: あずきあらい | 2016年1月24日 (日) 23時54分

あわれあわれ親鸞会員。思考停止して虚勢を張り、高森教にすがり付く姿、見てられません。

投稿: | 2016年1月25日 (月) 19時32分

聖人は「更に珍しき法をも弘めず」「唯可信斯高僧説」のお立場なら、七高僧方に三願転入の御文があるはず、当然釈尊にも。

投稿: | 2016年1月27日 (水) 19時34分

先ほどの追加です。親鸞聖人は「珍しき法を弘めず」「唯可信斯高僧説」のお立場であれば、お釈迦様、七高僧方が三願転入を勧められた御文を著作の至る所にご紹介されたでしょう。なぜ、ないのでしょうか?

投稿: | 2016年1月27日 (水) 19時52分

コメント頂いた皆様

三願転入の体験文を親鸞聖人がなぜ、化土巻のみで語られたのかと考えれば、その意味が理解できると思います。
化土巻は、聖道門が重要視した19願と自力念仏に留まっている法然上人の兄弟弟子の考え違いを正すために書かれたものです。
要するに、19願と20願では報土往生はできないが、19願と20願にはそういう対象の人に対しては方便の意味がある、自分がそうであった、というだけです。
一般の人には関係がないので、『教行信証』以外では言及がない。
簡単な話を理解しようとしない思考停止会員が哀れです。

投稿: 飛雲 | 2016年1月27日 (水) 22時09分

>>要するに、19願と20願では報土往生はできないが、19願と20願にはそういう対象の人に対しては方便の意味がある、自分がそうであった、というだけです。

これは名文ですね。的確かつ簡潔で、わかりやすいです。
これなら親鸞会教義が浸み込んでしまっていても、さすがに分かるのではないでしょうか?

投稿: YGM | 2016年1月28日 (木) 13時19分

これが、いわゆる「信心の沙汰」でしょう。

投稿: | 2016年1月28日 (木) 18時44分

「三願転入に、よらずばアリ一匹助からない」と高森氏は公言していましたが、19願から20願に廻入して18願に転入するのは、全ての人ができることってことでしょう。職業でやっている講師が、30年も活動しているにも関わらず入口にも立っていないとは、なんじゃそりゃ。

投稿: | 2016年1月29日 (金) 19時27分

YGM 様

これがなかなか理解できないようで、困ったものです。

投稿: 飛雲 | 2016年2月 6日 (土) 21時54分

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