『なぜ生きる2』のトンデモ邪義38
なぜ十八願のみを真実の願と言われるのか。十八願には阿弥陀仏の本心が誓われている、唯一の願であるからだ。十八願は弥陀が自らの心(自意)を、そのまま(随)誓われた願であるから「随自意の願」と言われる。いわゆる「真実の願」のことである。(中略)こんな十方衆生を真実の十八願まで、どう導き救おうか。弥陀が五劫の思惟をなされた末に、一時相手の程度(他意)に合わせて(随)誘導する十九・二十願を建てられたのだ。よって十九・二十の願を「随他意の願」と言われる。いわゆる「方便の願」である。(中略)では釈迦の善巧方便とは、何だろう。『観無量寿経』と『阿弥陀経』の釈迦の教説である。弥陀の十九願の御心を釈迦は『観無量寿経』にどう解説されたか、すでに述べてきた。二十願の弥陀の御心は『阿弥陀経』に釈迦が解説されている。『観無量寿経』も『阿弥陀経』も、弥陀の真実・十八願へ導く、釈迦の善巧方便に他ならない。
方便とは、仏が衆生を救済するときに用いられるたくみな方法をいう。その中に真実と権仮とがある。真実の方便とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法で、随自意の法門をいう。それは、大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるというので、善巧方便ともいう。阿弥陀仏を方便法身というときの方便がそれである。権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、その機に応じて、仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられる。このように暫く用いるが、後には還って廃するような随他意の法門を権仮方便という。「方便化身土」といわれるときの方便がそれである。親鸞聖人は四十八願の中で、往生の因を誓われた第十八願、第十九願、第二十願のうち第十八願のみが真実願であり、第十九願、第二十願は方便願であるとされた。第十八願は、他力回向の行信によって、真実報土の果を得しめられる真実願であり、第十九願は、自力諸行によって往生を願うものを、臨終に来迎して方便化土に往生せしめることを誓われたものであり、第二十願は、自力念仏によって往生を願うものを、方便化土に往生せしめることを誓われた方便願であるといわれるのである。そしてこの三願は、聖道門の機を浄土門に誘うために第十九願が、自力諸行の機を念仏の法門に導き、さらにその自力心を捨てしめて第十八願の他力念仏往生の法門に引き入れるために第二十願が誓われたとされている。
これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。
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