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2016年1月

2016年1月31日 (日)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義38

親鸞会をネット上で非難している人は、表に出てこれなくて陰でこそこそしている

と親鸞会は的外れのことを言って、会内だけの陰でこそこそしています。
書籍は表の世界だと言いたいのでしょうが、ネットこそが世界中に公表された最も開かれた世界です。
私の正体も、親鸞会の上層部では十二分に知れ渡っていますが、高森顕徹会長も講師部員も幹部会員も、一人として、直接私に反論してくることはありません。

私のことが怖くて怖くて仕方がないようですが、親鸞会とはそんな臆病者の集団だということです。

因みに、当ブログへのアクセスが一番多い県は、富山県です。他県を圧倒しています。これが何を意味しているかは、言うまでもないでしょう。

さて、『なぜ生きる2』16章にこんなことが書かれています。

 なぜ十八願のみを真実の願と言われるのか。
 十八願には阿弥陀仏の本心が誓われている、唯一の願であるからだ。
 十八願は弥陀が自らの心(自意)を、そのまま(随)誓われた願であるから「随自意の願」と言われる。
 いわゆる「真実の願」のことである。
(中略)
 こんな十方衆生を真実の十八願まで、どう導き救おうか。
 弥陀が五劫の思惟をなされた末に、一時相手の程度(他意)に合わせて(随)誘導する十九・二十願を建てられたのだ。
 よって十九・二十の願を「随他意の願」と言われる。いわゆる「方便の願」である。
(中略)
 では釈迦の善巧方便とは、何だろう。
『観無量寿経』と『阿弥陀経』の釈迦の教説である。
 弥陀の十九願の御心を釈迦は『観無量寿経』にどう解説されたか、すでに述べてきた。
 二十願の弥陀の御心は『阿弥陀経』に釈迦が解説されている。
『観無量寿経』も『阿弥陀経』も、弥陀の真実・十八願へ導く、釈迦の善巧方便に他ならない。

実は、これを書くための元があります。これまで何回も紹介してきた教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)』の補註です。

 方便とは、仏が衆生を救済するときに用いられるたくみな方法をいう。その中に真実と権仮とがある。真実の方便とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法で、随自意の法門をいう。それは、大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるというので、善巧方便ともいう。阿弥陀仏を方便法身というときの方便がそれである。
 権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、その機に応じて、仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられる。このように暫く用いるが、後には還って廃するような随他意の法門を権仮方便という。「方便化身土」といわれるときの方便がそれである。
 親鸞聖人は四十八願の中で、往生の因を誓われた第十八願、第十九願、第二十願のうち第十八願のみが真実願であり、第十九願、第二十願は方便願であるとされた。第十八願は、他力回向の行信によって、真実報土の果を得しめられる真実願であり、第十九願は、自力諸行によって往生を願うものを、臨終に来迎して方便化土に往生せしめることを誓われたものであり、第二十願は、自力念仏によって往生を願うものを、方便化土に往生せしめることを誓われた方便願であるといわれるのである。そしてこの三願は、聖道門の機を浄土門に誘うために第十九願が、自力諸行の機を念仏の法門に導き、さらにその自力心を捨てしめて第十八願の他力念仏往生の法門に引き入れるために第二十願が誓われたとされている。

如何でしょうか。

随自意」「随他意」「真実願」「方便願」、ここまで真似しながら肝心な「善巧方便」の意味を故意に曲げています。「権仮方便」は隠しています。

三つの願の関係を正しくまとめると

18願=「随自意の願」=「真実願」=「善巧方便」
19願・20願=「随他意の願」=「方便願」=「権仮方便」

です。
19願は権仮方便です。

根拠は、『教行信証』化土巻

これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。

今回の邪義は、高森会長の無知が理由ではありません。高森会長の悪意そのものです。

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2016年1月23日 (土)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義37

自慢できるものは体験談しかない、と華光会を批判している親鸞会ですが、親鸞会こそ、体験談しか自慢できるものがないです。高森顕徹会長の摩訶不思議な体験をもって、高森会長が唯一無二の善知識の証と吹聴しており、更には親鸞聖人が御自身の体験として仰った三願転入の文を、親鸞聖人の教えの根基といっている矛盾に気が付かない現会員も、酷い思考状態です。

『なぜ生きる2』16章に、三願転入の文の意訳を載せた後、
 この三願転入のご文は、個人の告白でありながら、阿弥陀仏の誓願で表現なされている。
 十方衆生(すべての人)相手の弥陀の救いの過程は、万人に通ずる金言でなければならないからであろう。
 百人百様の言い分では、弊害はあっても、三世十方を貫く普遍の教えとはならず、書き遺す主意を失うからと推測される。
 そして、こう表白されている。
 |親鸞、大悲の願船(十八願)に乗じて明らかに知らされたのは、これまで
 |阿弥陀仏の種々のご方便(十九願・二十願)があったことである。
 この三願転入のご文から、阿弥陀仏の善巧方便とは、弥陀の十九・二十の二願であることが明瞭となる。
と実に愚かなことを書いています。
他の体験文は万人に通じていないが、三願転入の文だけは万人に通じているとする理由が判りません。親鸞聖人が、三願転入の文だけは万人共通の体験だ、と仰っているなら別ですが、そのようなお言葉は全くありません。

親鸞聖人は七高僧の体験についても仰っているところがあります。
龍樹菩薩については『正信偈』で、

大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して安楽に生ぜん

とあるのは、会員でも知っているでしょう。
また『教行信証』真仏土巻に『讃阿弥陀仏偈』を引かれて

尊語を伏承して歓喜地にして、阿弥陀に帰して安楽に生ぜしむ。

(現代語訳)

釈尊のお言葉を承り、歓喜地の位にあって、阿弥陀仏に帰依して浄土に往生された。

と仰っています。
龍樹菩薩は、聖道門で歓喜地を証されて後に阿弥陀仏に帰依された体験をなされている、と親鸞聖人が仰っています。『高僧和讃』にも同様のことを仰っていますから、親鸞聖人は龍樹菩薩の体験を殊更強調されています。一箇所しか書かれていない三願転入の文よりも重要だと親鸞聖人は見做されているのは明らかです。

曇鸞大師についてはやはり『正信偈』に

三蔵流支、浄教を授けしかば、仙経を焚焼して楽邦に帰したまひき。

とありますし、『高僧和讃』にも、

本師曇鸞和尚は
 菩提流支のをしへにて
 仙経ながくやきすてて
 浄土にふかく帰せしめき

と仰っています。
曇鸞大師は道教から浄土教に入られた、と親鸞聖人が曇鸞大師の体験を繰り返し仰っていますので、これも一箇所にしか書かれていない三願転入の文よりも重要な位置にあるのは、言うまでもありません。
龍樹菩薩と曇鸞大師の体験については、親鸞聖人が一字一涙の思いで書かれたと高森会長が説明している『正信偈』にあるくらいですから、当然な結論です。

それと、親鸞聖人が善巧方便と仰った信巻には、阿闍世の獲信の体験談が長々と紹介されています。

親鸞聖人御自身の一箇所の体験文の方が、龍樹菩薩や曇鸞大師の複数箇所の体験文、信巻に長々と紹介された阿闍世の体験よりも格上だ

と訳の判らない屁理屈を言ってきそうですが、それならば、その最も重要な親鸞聖人の三願転入の体験文を覚如上人、蓮如上人が紹介されていないのはなぜでしょうか。

答えは、重要ではないし、知る必要がないからです。

高森会長の詭弁を論破することなど、赤子の手を捻るくらい容易いことです。

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2016年1月16日 (土)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義36

本願寺の報恩講で親鸞会批判の話が長々とあったことが、退会者の間で話題になっています。今まで無視され続けてきた本願寺に、相手にされてもらって、高森顕徹会長も本望だと思います。
尤も、本願寺は親鸞会を浄土真宗だとは見做していませんので、直接相手にすることは今後もないでしょう。

さて、6年近く前のmixiでの三願転入の法論で、最初から最後まで一貫して、高森会長に質問し続けてきたことの1つが、

19願を勧められた親鸞聖人のお言葉

でした。
そしてこれは最後の最後まで、全く答える気配もありませんでした。ないのですから答えることができないのは、当然なことです。19願の勧めがなければ、三願転入は始まりません。
そこで『なぜ生きる2』では必死になって無い知恵を絞って、お笑い詭弁を考え出したのですが、そのお笑い根拠が15章にあります。

『正像末和讃』の

如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらなをもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり

を出してきて、この解説を

”十八願・真実は信じられてはいないが[如来の諸智を疑惑して]、十九の願を深く信じて[罪福ふかく信ぜしめ]弥陀に向かって善に努めている。
 そして、二十願の南無阿弥陀仏の名号[善本]を称える[修習]身にまで進んだのは、なんと素晴らしいことであろうか”と声価されている。
 その上で、二十願は目的を果たさせる「果遂の誓」だから、行くてに待つ大悲の願船(十八願)まで進めよ、と激励されている『和讃』である。
 聖人の教えが、まさに三願転入である明証でもあろう。

としました。

ここは本願寺の僧侶からも、鼻で笑われています。高森会長はここまで愚か者だったのかと。

こんな愚かな会長を信じている会員は実に哀れですが、稀代の悪知識を無二の善知識と信じている現会員のために本願寺の一般の僧侶でさえ知っている正しい意味を教えてあげましょう。

これは親鸞聖人が20願成就文と仰った『大無量寿経』の一節を言い換えられたものです。

『三経往生文類』

願(第二十願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「(中略)仏、慈氏に告げたまはく、〈もし衆生あつて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修し、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じて善本を修習して、その国に生れんと願ぜん。

とありますが、御和讃と比較してみると判りやすいです。

{和讃}如来の諸智を疑惑して ――{成就文}この諸智において疑惑して
{和讃}信ぜずながらなをもまた ――{成就文}信ぜず。しかるになほ
{和讃}罪福ふかく信ぜしめ ――{成就文}罪福を信じて
{和讃}善本修習すぐれたり ――{成就文}善本を修習して、その国に生れんと願ぜん

見事に対応しています。
実はこの御和讃は次の御和讃もむくめて、20願成就文を顕わされています。
『正像末和讃』

仏智を疑惑するゆゑに
 胎生のものは智慧もなし
 胎宮にかならずうまるるを
 牢獄にいるとたとへたり

『三経往生文類』20願成就文後半

このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳ならん。つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず、このゆゑにかの国土、これを胎生といふ。{乃至}弥勒まさに知るべし。かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑに。その胎生のものはみな智慧なし〉

これでお判りと思いますが、20願成就文を言い換えられただけで19願とは無関係の御和讃であり、20願を勧められたのでもありません。その逆で、20願では化土往生にしかならないから、20願を願うことすら誡められているのです。

これはmixiでの三願転入の法論の直前に、当ブログ上で某講師部員となされた法論の内容です。
詳しくは

親鸞会法論惨敗の記録4~飛雲より

にありますので、併せてご覧ください。

19願を勧められた歴代の善知識は皆無です。
19願を実践せよと必死に説いて勧める高森会長は、どこをどうフォローしても真宗史上最悪の悪知識として、名を残すでしょう。

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2016年1月 8日 (金)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義35

親鸞会を非難すると、以前は必死になって親鸞会の正当性を主張してきました。ところが今では、親鸞会を非難すると、非難したことに抗議してきます。つまり、自分たちが正しいことをしているという自信がなく、他人を非難することは悪いことだと喚き散らすだけです。親鸞会は落ちるところまで落ちたという感じです。

それはそのまま、親鸞会のトップである高森顕徹会長の自信のなさを反映したものです。

2年前には高森会長の自信作であった『なぜ生きる2』ですが、15章にはこんなことも書いています。

 本気で善に向かうと、ぞくりとするような横顔が見えて自己嫌悪感を懐かせる。ゆるがず真面目に自己と対峙しないと、知り得ぬ心の相であろう。

 以下は、その文証である。
悪業をば恐れながら、すなわち起こし、善根をばあらませども、得ること能わざる凡夫なり」        (『口伝鈔』上・四)

「悪業を恐れる心」が、どうして起きるのか。「善根をあらます心」が、どうして現れ、「得ること能わざる凡夫(人間)」と知らされるのだろう。
 すべては弥陀の修諸功徳の願力(十九願)であり、たゆまぬ釈迦の廃悪修善の教導からである。
 弥陀の十九願の光明が「善根をあらませども得ること能わざる」人間の実態を照らしだされるのだ。

ここまで根拠もない話を創作するには、書いた当時は自信に満ち溢れていたのかもしれません。しかし、完全な妄想です。

実際に『口伝鈔』の前後を見れば、一目瞭然です。少し長いですが、覚如上人が親鸞聖人のお言葉として書かれた部分です。

上人[親鸞]仰せにのたまはく、
「某はまつたく善もほしからず、また悪もおそれなし。
善のほしからざるゆゑは、弥陀の本願を信受するにまされる善なきがゆゑに。悪のおそれなきといふは、弥陀の本願をさまたぐる悪なきがゆゑに。
しかるに世の人みなおもへらく、善根を具足せずんば、たとひ念仏すといふとも往生すべからずと。またたとひ念仏すといふとも、悪業深重ならば往生すべからずと。
このおもひ、ともにはなはだしかるべからず。
もし悪業をこころにまかせてとどめ、善根をおもひのままにそなへて生死を出離し浄土に往生すべくは、あながちに本願を信知せずともなにの不足かあらん。
そのこといづれもこころにまかせざるによりて、悪業をばおそれながらすなはちおこし、善根をばあらませどもうることあたはざる凡夫なり。
かかるあさましき三毒具足の悪機として、われと出離にみちたえたる機を摂取したまはんための五劫思惟の本願なるがゆゑに、ただ仰ぎて仏智を信受するにしかず。
しかるに善機の念仏するをば決定往生とおもひ、悪人の念仏するをば往生不定と疑ふ。
本願の規模ここに失し、自身の悪機たることをしらざるになる。
おほよそ凡夫引接の無縁の慈悲をもつて修因感果したまへる別願所成の報仏報土へ五乗ひとしく入ることは、諸仏いまだおこさざる超世不思議の願なれば、たとひ読誦大乗・解第一義の善機たりといふとも、おのれが生得の善ばかりをもつてその土に往生することかなふべからず。
また悪業はもとよりもろもろの仏法にすてらるるところなれば、悪機また悪をつのりとしてその土へのぞむべきにあらず。

 しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。
さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ」。

(石田瑞磨著『親鸞全集』の現代語訳)

聖人が仰せられたことには、
「わたしは決して、善を行ないたいとも思わないし、また悪を犯すことも恐れはしない。
善を行いたいとも思わないわけは、阿弥陀仏の本願を頂いて信ずる以上に勝れている善はないからであり、悪を恐れないというのは、阿弥陀仏の本願のはたらきをさまたげる悪は無いからである。
ところが世間のひとはつねに「善のたねをたくわえなければ、たとい念仏を称えるとしても、浄土に生れることはできない」と思い、また「たとい念仏を称えるとしても、罪悪が重ければ、浄土に生れることはできない」と思っている。
しかし、この考えは二つともはなはだしく間違っている。
もし、心のままに悪事をとどめ、思いどおりに善のたねをそなえて、この生死をくりかえす迷いから逃れ出て、浄土に生れることができるときは、強いて阿弥陀仏の本願を信じ、納得しなくても、なんの不足があろうか。
しかしこれがいずれも意のままにならないために、罪を恐れながらも、恐れる心のはしからこれを犯し、善のたねをたくわえたいと願っても、そうすることができない愚かなものなのである。
こうした、貪りと怒りと心の暗い愚かさとにまみれ、罪悪を犯す素質だけしかもたない、自分の力では迷いから逃れ出る途の絶えた素質のひとを救い取るために、五劫という永いあいだ、熟思に熟思を重ねた末、たてられた本願であるから、ただ仰いで、この阿弥陀仏の智恵を信ずるよりほかにはない。
ところが、善を行える素質をもったものが念仏を称えるのを見ると、かならず浄土に生れることができると思い、悪人が念仏するのを見ると、生れるとはかぎらないと疑うから、
ここに本願の面目は失われ、また自分が悪しか行えないことが素質のものであることを知らないで終わるのである。
おおよそ、愚かなものを救おうとする絶対平等の慈悲をもって、修行の結果、その目的のとおりに、成就することができた真実の仏の浄土に、どんな教えを奉ずるものもすべて等しく導きいれようという阿弥陀仏の誓いは、阿弥陀仏以外の諸仏のいまだかつておこしたことのない、どのような世界にもなかった、思惟を超えた誓いであるから、たといつねに大乗の経典を読み、勝れた教えを理解することができる素質のよいひとであっても、生れつきそなわっている善だけで、その浄土に生れることは許されない。
また悪い行為は、もともと仏の教えからは捨てられるものであるから、罪悪を犯す素質だけしかもたないものが悪をますます重ねることによって、その浄土に行くというものでもない。

こうしたわけだから、生れつき素質としてそなえている善・悪のいずれも、真実の浄土に生れるための好条件にも悪条件にもならないということは、もちろんである。
したがって、この善・悪の素質をそなえたままで、与えられたところの阿弥陀仏の智恵をますますはげしくたのむよりほかに、愚かなものにどうして浄土に生れるための好条件があるだろうか。あるはずがないのである。
だからこそ、「悪を犯すことも恐れはしない」ともいい、「善を行いたいとも思わない」ともいったのである。」

如何でしょうか。
親鸞会の考えはまさしく

善根を具足せずんば、たとひ念仏すといふとも往生すべからずと。またたとひ念仏すといふとも、悪業深重ならば往生すべからずと。

これです。善が間に合わないと教えてはいますが、善をせずしては救われない、19願を実践せずしては救われないというその心は、これです。それを親鸞聖人は完全に否定されています。

このおもひ、ともにはなはだしかるべからず。

親鸞聖人が完全否定された理由が

悪業をばおそれながらすなはちおこし、善根をばあらませどもうることあたはざる凡夫なり。

です。
善に向かうことを否定されているのに、善に向かったらこれが判るとかという話ではありません。もし、高森会長の言う自己嫌悪感を懐かないと救われないのであれば、「読誦大乗・解第一義の善機」は、救われません。というより、高森理論では「読誦大乗・解第一義の善機」が存在することはあり得ない話になっていますが、親鸞聖人は、その存在を認めておられます。
善に向かおうともしない、廃悪修善をする気の起こらない者でも、何の障りもなく、平等にそのまま救うために、阿弥陀仏が五劫の思惟をされて、善悪関係なく救う本願を建てられたのです。

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。

善をしたとかしないとか、往生には何の関係もないのです。

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