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2015年12月 3日 (木)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義30

高森顕徹会長が善の勧めの根拠としているのは、詭弁しかないです。
その中でもおもしろいのは、『なぜ生きる2』14章の以下です。

 ではなぜ、捨てよと言われる「雑行(諸善)」を弥陀が十九願で勧められるのかという声が、あちらこちらから聞こえそうだ。
 むろん阿弥陀仏が勧められる「諸善」が悪いはずがない。
「諸善」が「雑行」と嫌われ、捨てよと言われるのは、悪い「自力の心」で行うからだ。
 悪い「自力の心」さえ廃れば、諸善は「雑行」とも言われず、捨て物でもない。
 粉骨砕身の報恩感謝の活動になるのである。

すべて理屈です。根拠がありません。

この事に関しては、何十回と根拠を示して書いてきましたので、今回は根拠を示さずに、理屈だけで論破しておきます。

まず、阿弥陀仏が19願で諸善を勧められているのは、聖道門を信じて求めている人も、救いから漏らさないためです。
もう少し詳しく言いいますと、聖道門を信じ求めても、出離することすら叶わず、聖道門を断念せざるを得ない人に、18願の他力念仏を勧めても、聖道門とは余りにも隔たりが大きく、18願を信じる気持ちは起きてきません。そこで、聖道門で修してきた善をそのままで、浄土往生のためと思って修すれば、浄土に往生させてみせる、と誓われたのが19願です。18願を信じない人までも救うためです。

ここで上記の高森会長の言葉を説明すると、「自力の心」は浄土往生のためと思う心です。したがって「雑行」は、浄土往生のためと思って修する「諸善」ですので、「自力の心」(=浄土往生のためと思う心)を捨てると、元々の聖道門の「諸善」になります。

要するに、18願で誓われている念仏1つになるには、「自力の心」(=浄土往生のためと思う心)が有っても無くても、「諸善」は捨て物で嫌われ物なのです。

言い換えると、「自力の心」のある「雑行」であっても、「自力の心」のない「諸善」であっても、共に18願に背いているので、捨て物です。

高森会長のお粗末な詭弁が、通用すると思ったら大間違いです。

最後の1文の「粉骨砕身の報恩感謝の活動になるのである」は、高森詭弁の最高傑作でしょうが、「諸善」は「粉骨砕身の報恩感謝の活動」にはなりません。高森会長の好きな「称名報恩」を忘れたのかと言いたいです。「諸善報恩」と高森会長ですら言っていません。「粉骨砕身の報恩感謝の活動」は、まさに念仏です。辻褄くらい合わせたら如何でしょうか。

もし「善」についてどうしても拘るのであれば、蓮如上人の説明「信前信後を問わず倫理道徳の善に努めなさい」に従うべきです。つまり、「自力の心」(=浄土往生のためと思う心)のない聖道門の「諸善」ではなく、「自力の心」(=浄土往生のためと思う心)とは無関係な倫理道徳の善を勧めるのが、善知識です。

上記については、すべて根拠に基づいていますので、反論があるなら、根拠を挙げてからにしましょう。御要望があれば、こちらはいくらでも根拠を出しますよ。

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