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2015年12月15日 (火)

『なぜ生きる2』のトンデモ邪義32

前回の続きです。『なぜ生きる2』14章には、こんなオオボケを平気で書いています。

 親鸞聖人は”弥陀の本願を疑う(自力の心)ほど恐ろしい罪はない”と、その大罪を訴え続けられている。
 以下は、その文証である。
仏智うたがう罪ふかし
 この心おもいしるならば
 くゆる心をむねとして
 仏智の不思議をたのむべし
」 (正像末和讃)

ここだけでは、どこが間違っているのか判られないかもしれませんので、少し解説しておきます。

まず、親鸞聖人が「仏智うたがう罪」と仰っていることは何かが問題です。前回述べたように、「善ができると思っている心」でもなければ「善の勧めを非難する心」でもありません。その逆です。

同じ『正像末和讃』には

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

などとあります。

つまり

仏智うたがう罪=罪福信ずる・自力諸善

です。『なぜ生きる2』でも強調している因果の道理を信じることが「仏智うたがう罪」であり、善を勧めることが「仏智うたがう罪」なのです。

したがって、高森顕徹会長が教え勧めていることは「仏智うたがう罪」になるのです。

これは善ができるできないの話ではなく、往生・獲信のために善を勧めるな、因果の道理を信じるな、ということです。

要するに、18願と善の勧めは正反対、18願と因果の道理は完全に矛盾する、こういうことなのです。高森会長のいう因果の道理とは、罪福の因果ですが、18願は罪福の因果とは無関係であり、全く異なる道理なのです。

『改邪鈔』には

おほよそ他力の一門においては、釈尊一代の説教にいまだその例なき通途の性相をはなれたる言語道断の不思議なりといふは、凡夫の報土に生るるといふをもつてなり。もし因果相順の理にまかせば、釈迦・弥陀・諸仏の御ほねをりたる他力の別途むなしくなりぬべし。

とあります。意味は、

18願の教えは、釈尊一代の説法に例がなく、通仏教の教えとはまったく別の、言語を超絶した不思議な教えである。もし18願を、因果の道理にあてはめたならば、釈尊、阿弥陀仏、諸仏が御苦労なされて教えられた18願の救いが虚しくなってしまう。

ということです。
また蓮如上人の愛読書であった『安心決定鈔』にも、

願行は菩薩のところにはげみて、感果はわれらがところに成ず。世間・出世の因果のことわりに超異せり。

とあります。

18願の救いは、世間の因果・出世の因果に超異している、

ということです。

親鸞聖人の仰ることと高森会長の言っていることは正反対ですから、まさに漫才です。

高森会長の言っていることがオオボケと判らないうちは、18願の救いに遇うことはないでしょう。

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コメント

会長は常に罪悪を説いて恐怖心を煽り脅迫するやり方ですね
罪悪を説いてはいけないという教えもあるのに
脅迫罪が成立します

投稿: | 2015年12月16日 (水) 09時19分

この日曜日にも、一切衆生 必堕無間 を説法されていたようです。同じ論法で変わること無いでしょう。

投稿: | 2015年12月16日 (水) 20時24分

親鸞会は後世に名を残す笑い者、アホ団体となりました。勿論会長は歴史上比類を見ない悪知識です。そして一族はその結果、苦しみを受けるでしょう。

投稿: | 2015年12月16日 (水) 20時35分

衆生=生きとし生けるものすべて。

投稿: | 2015年12月18日 (金) 14時57分

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